新更始時代1 新王莽(一) 王莽

今回から王莽の新王朝です。
 
王莽
王莽は字を巨君といい、孝元皇后(王政君)の弟王曼の子です。王曼の父は王禁といい、王禁は武帝時代に繡衣御史を勤めた王賀の子です。
 
以下、『漢書王莽伝上(巻九十九上)』からです。
元后(王政君)の父と兄弟は元帝と成帝の時代に全て封侯され、輔政の位に居ました。家族から九侯五大司馬(九侯は陽平頃侯王禁、安成侯王崇、平阿侯王譚、成都王商、紅陽侯王立、曲陽侯王根、高平侯王逢時、安陽侯王音、新都侯王莽です。王禁を継いだ王鳳を入れると十侯になります。五大司馬は王鳳、王音、王商、王根、王莽です。)を排出します。
但し王莽だけは父の王曼が早死したため、始めは封侯されませんでした。
王莽の群兄弟(同世代の親族)は皆、将軍や五侯(王譚、王商、王立、王根、王逢時)の子だったため、時勢に乗じて奢侈浪費し、輿馬(車馬)声色(音楽や女色)佚游(逸遊。遊蕩)において高低を競っていました。
しかし王莽は孤児で貧困だったため、節を折って(人に対して腰を低くして)恭倹(恭謹謙虚)になりました。礼経の教えを学んで沛郡の陳参に師事し、勤身(身を削るように努力すること)して広く学び、いつも儒生のような服装をしています。
母と寡嫂(亡き兄の妻)につかえ、亡くなった兄(王永)の子(王光)を養い、行いは極めて慎重かつ周到でした。
また、王莽は外では英俊の士と交わり、内では諸父(伯父叔父)に仕え、腰が低くて礼意がありました。
成帝陽朔年間に世父(伯父)の大将軍王鳳が病に倒れると、王莽は傍に仕えて看病し、自ら薬を試しました。髪が乱れて垢で顔が汚れても(乱首垢面)、数カ月も王鳳に侍ったまま衣帯を解くこともありません。
そのため、王鳳は死ぬ前に王太后と成帝に王莽を託しました。
こうして王莽は黄門郎に任命され、後に射声校尉に遷されました。
 
久しくして、王莽の叔父に当たる成都王商が上書し、自分の戸邑を分けて王莽を封侯することを願い出ました。
長楽少府戴崇、侍中金渉、胡騎校尉箕閎、上谷都尉陽並、中郎陳湯等の当世の名士もそろって王莽のために進言したため、成帝は王莽を賢人とみなすようになります。王太后もしばしば王莽を助ける発言をしました。
 
成帝永始元年(前16年)、成帝が王莽を新都侯に封じました。国は南陽新野の都郷で、千五百戸です。
官職も騎都尉光禄大夫侍中に遷しました(以上、成帝永始元年16年参照)
 
 
この後、王莽が本格的に頭角を現します。
哀帝時代は傅氏や董賢が重用されたために一時身を退きましたが、哀帝元寿二年(前1年)哀帝が死んで董賢が失脚すると、大司馬に任命されて幼い平帝の代わりに政権を掌握するようになりました。
 
以下、詳細は既に述べたので簡単に書きます。
平帝元始元年1年)、大司馬新都侯だった王莽は太傅に任命され、安漢公の号を与えられました。
平帝元始四年4年)、宰衡の号を加えられました。
平帝元始五年5年)、九錫を下賜されました。同年、平帝が死にます。
翌年の西漢王莽(孺子)居摂元年6年)、孺子・劉嬰が皇太子に立ちました。わずか二歳です。正式な皇帝が不在なため、王莽が居摂しました。
(祭祝の辞)では王莽を「假皇帝」と呼び、民臣は「摂皇帝」と呼ぶことになりました。
王莽(孺子)始初元年8年)、王莽が正式に皇帝の位に即くことを宣言しました。国号を「新」とし、同年十二月を新王朝始建国元年正月に改めました。
 
 
 
次回から新王朝に入ります。
尚、王莽が即位するまでは『資治通鑑』と『漢書』の本紀を主な史料としてきましたが、即位後は『漢書』に本紀が存在しないので、『漢書王莽伝中』と『王莽伝下』を本紀とみなして全訳します。