新更始時代2 新王莽(二) 孺子退位 9年(1)
今回から王莽の新王朝です。まずは新王莽始建国元年です。七回に分けます。
新王莽始建国元年
己巳 9年
春正月朔、王莽が公侯卿士を率いて皇太后の璽韍(「韍」は印璽の紐です)を奉じ(「奉」は両手で丁寧に持つという意味です)、太皇太后(王政君)に渡しました。符命に順じて漢の号を除きます(漢号を除いた皇太后の印璽を渡しました。新しい璽には「新室文母太皇太后」と刻まれています。前年参照)。
「春正月朔」というのは王莽による新国の暦で、漢の暦(夏暦)では十二月です。
但し、『資治通鑑』は新王莽地皇四年・玄漢更始元年(23年)の「二月辛巳朔」から『後漢書・光武帝紀上』『後漢書・劉玄劉盆子列伝(巻十一)』等の月日に従っており、漢暦に戻ります(『漢書・王莽伝下』では「三月辛巳朔」です)。
本文に戻ります。
以前、王莽は故丞相・王訢の孫・宜春侯・王咸の娘を妻にしました。
王莽は妻の王氏(王咸の娘)を皇后に立てました。
当時は「同姓不婚」の原則があったので、王莽が王咸の娘を妻にしたというのは異例なことです。
しかし顔師古は「この説は誤りである。(略)王莽は元々、王譚とは得た姓が異なり(莽本以與譚得姓不同)、祖系がそれぞれ別だったから婚娶(結婚)したのである。私竊(隠れた行動)ではないので、避諱(隠蔽)の必要はなく、そもそも隠そうとしても隠せることではない(諱亦不可掩也)」と書いています。
顔師古の解釈によるなら、王咸の父・王譚の代に王氏ではなく宜春氏を名乗っていたようです。
王氏は四男を生みましたが、王宇と王獲はこれ以前に誅死しており、王安はしばしば荒忽(恍惚呆然とすること。精神が不安定なこと)とすることがあったので、王臨を皇太子に立てて王安を新嘉辟にしました。
また、王宇の子六人を全て公にしました。
王千が功隆公、王寿が功明公、王吉が功成公、王宗が功崇公、王世が功昭公、王利が功著公になります。
天下に大赦しました。
王莽が孺子・劉嬰に策命を下しました「ああ、汝、嬰よ(咨爾嬰)、昔、皇天が太祖を助け、十二世を経歴し、二百十載(年)を享国したが、暦数(帝王が継承するべき天数、天命)は予の躬(身)にある。『詩(『大雅・文王』)』にはこうあるではないか『(商王朝の子孫が)侯として周に服す。天命に常は無い(侯服于周,天命靡常)。』よって汝を定安公に封じ、永く新室(新王朝)の賓客とする。ああ(於戲)、天の休(美)を敬い、汝の位を踏みに行き(汝に与えられた位に就き。原文「往践乃位」)、予の命を廃してはならない。」
またこう言いました「ここに平原、安徳、漯陰、鬲、重丘(五県を)併せて戸一万、地方百里を定安公国とする。漢祖宗の廟をその国に建て、周の後代と同等にする。その(漢の)正朔、服色を行い、世世(代々)その祖宗に仕え、永く(祖先の)命徳(天命と徳行。または「命」は「名」の意味で、名声と徳行)茂功(偉大な功績)によって歴代の祀を享受せよ。孝平皇后(王莽の娘)を定安太后とする。」
孺子・劉嬰は王莽(孺子)居摂元年(6年)に二歳だったので、この時はまだ五歳です。
策書を読み終えると、王莽は自ら孺子の手を取り、涙を流してすすり泣きながらこう言いました「昔、周公が摂位(摂政)し、最後は子(幼君)に明辟(明君の位)を返すことができた(復子明辟)。今、予は皇天の威命に迫られたばかりに、意のままにできなくなった(不得如意)。」
王莽は久しく哀嘆しました。
中傅が孺子を殿から降ろし、北面して臣を称させます。
『資治通鑑』胡三省注によると、漢の諸侯王国には太傅と中傅がいました。太傅は秩二千石です。中傅は宮中で王に言葉を伝える官で、宦者が担当したともいわれています。
「北面する」というのは臣下になったことを指します。天子は群臣の北側に坐るので南向きになり(南面)、群臣は北向きになります(北面)。中傅が孺子を殿から降ろしたのは、孺子が諸侯になったからです。
こうして西漢が正式に滅びました。
位に列する百僚(百官)で感傷しない者はいませんでした。
次回に続きます。