新更始時代4 新王莽(四) 官制封爵 9年(3)

今回も新王莽始建国元年の続きです。
 
[(続き)] 王莽が大司馬司允、大司徒司直、大司空司若を置きました。位は孤卿となります。
資治通鑑』胡三省注によると、「允」は「信」の意味、「若」は「順」の意味です。周代に三孤(少師、少傅、少保)が居り、三公(太師、太傅、太保)を輔佐しました。王莽の司允、司直、司若は周代の三孤に当たります。三孤は六卿(周代の六卿。冢宰、司徒、宗伯、司馬、司寇、司空)の位に居り、爵秩が六卿と同じだったため、王莽は司允、司直、司若の位を「孤卿」としました。
 
大司農を改名して羲和とし、後に更に改めて納言にしました。大理を作士に、太常を秩宗に、大鴻臚を典楽に、少府を共工に、水衡都尉を予虞に改め(『資治通鑑』胡三省注によると、全て堯舜が置いた官です。羲和作士秩宗典楽共工予虞を六卿といいます)、三公司(司允、司直、司若)と合わせて九卿としました。それぞれを分けて三公に属させます。
 
一卿ごとに大夫三人を置き、一大夫ごとに元士三人を置きました。合わせて二十七大夫、八十一元士になります。それぞれが中都官(京師の諸官府)の諸職を分担しました。
 
光禄勳を司中に、太僕を太御に、衛尉を大衛に、執金吾を奮武に、中尉を軍正に改名し(中尉は武帝時代に執金吾に改名されているので、「執金吾を奮武に、中尉を軍正に改名した」という記述は恐らく誤りです)、また、大贅官を置きました。大贅官は乗輿(皇帝の車)、服御物(衣服器物)を主管し、後には兵秩(兵の秩禄)も管理することになりました。
位は全て上卿で、六監と号します。
 
郡太守を大尹に、都尉を大尉に、県令県長を宰に、御史を執法に、公車司馬を王路四門に(司馬門は未央宮の門で、東西南北にあります。そのうちの北門が公車司馬門です。ここでの「公車司馬」は、「公車」が余分で、四つの「司馬門」を王路四門にしたのだと思われます)に、長楽宮を常楽室に、未央宮を寿成室に、前殿を王路堂に、長安を常安に改名しました。
その他の百官、宮室、郡県もことごとく名を換え、記録できないほどになります。
 
秩百石の官員を庶士に、三百石を下士に、四百石を中士に、五百石を命士に、六百石を元士に、千石を下大夫に、比二千石を中大夫に、二千石を上大夫に、中二千石を卿に改名しました。
車服(馬車と衣服。または馬車の装飾)黻冕(衣冠。礼服)にはそれぞれ差品(等級)があります。
 
司恭大夫、司徒大夫、司明大夫、司聡大夫、司中大夫および誦詩工、徹膳宰を置き、過失を監視させました(「誦詩工」は詩歌を詠む官、「徹膳宰」は皇帝の食事を準備する官です。王莽の日常に過失があったら諫言させました)
王莽が策書を発しました「予が聞くところでは、上聖はその徳を明らかにすることを欲し、慎重にその身を修め、そうすることで遠方を安寧にさせなかった者はいないという。そこで汝等を用いて(官を)建て、五事(貌思。哀帝元寿元年2年参照)を司らせた。尤(過失)を隠してはならない(无隠尤)。虚美を助けてはならない(毋将虚)。善悪を間違えず(好悪不愆)、その中(中正。中庸)に立て。ああ(於戲)、これに強めよ(勗哉)。」
王莽は王路(皇宮に通じる道)に進善の旌(善言を推奨する旗)、非謗の木(批判を書く木)、敢諫の鼓(諫言する時に敲く太鼓)を設けるように命じました。
諫大夫四人が常に王路門(天子が通る門。宮門。旧司馬門)に坐って外からの進言を受け入れます。
 
王氏の中で斉縗の属を「侯」に、大功を「伯」に、小功を「子」に、緦麻を「男」に封じ、これらの娘を全て「任」にしました。
「斉縗の属」は葬儀の際、斉縗を着る関係にある親族という意味です。大功、小功、緦麻も喪服の種類で、斉縗を着る者が親族としての関係が近く、緦麻に向かって遠くなります。
「任」は女性用の爵位で、王莽が作ったようです。男には「侯」「伯」「子」「男」の五爵を、女には「任」という爵位を与えました。
 
男は「睦」を、女は「隆」を号にし、それぞれに印韍(韍は印の紐で素)を授けました。
漢書』顔師古注によると、「睦」と「隆」は受け取った封邑の号で、嘉名をつけるための決まりです。例えば下の文で五威後関将軍に任命される王嘉の侯名は「尉睦侯」です。
 
諸侯に大夫人太夫人。諸侯の母)、夫人、世子(諸侯の太子)を立てさせ、同じように印韍を授けました。
 
王莽が言いました「天に二日(二つの太陽)がなく、土(地)に二王がいないのは、百王が変えることのない道である。しかし今、漢氏の諸侯の中で、ある者は王を称し、四夷に至ってもまたそのようにしている(王を称している者がいる)。これは古典(古の制度)に違えており、一統(統一)に背いている。よって諸侯王の号を定めて全て公と称すことにする。四夷で王号を僭称している者に及んでは全て侯に改める。」
こうして漢の諸侯王三十二人が公爵に落とされ、諸侯王の子で侯になった者百八十一人は皆、子爵に落とされました。
後には全ての爵位が奪われます。
 
以下、『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)から抜粋します。
(諸侯王の最後は)漢書諸侯王表』を見ると、全て『王莽が位を簒奪し、(諸侯王が)公に落とされた。その翌年、(公位も)廃された』としている。
しかし翌年に立国将軍孫建が上奏して『諸劉氏で諸侯の位にいる者は戸数の多寡によって五等の差(五爵)につけるべきだ』と言っており、爵位を奪うことには言及していない。
(諸侯王の子で列侯になった者については)『王子侯表』を見ると、本年に「絶たれた」「免じられた」としか書かれていない(子爵に落とされたという記述はない)
後漢書城陽王祉伝(宗室四王三侯列伝巻十四)』には『王莽が簒奪して立ってから、劉氏で侯(爵)の地位にいた者は全て爵位を落とされて子(爵)を称し、孤卿の禄を食した。後に皆、爵位を奪われた』とあるが、いつ完全に爵位を奪われたのかは分からない。」
資治通鑑』はこれらの記述を総合しており、完全に爵位を奪われたのがいつなのかはっきりしないため、「後に全ての爵を奪われた(其後皆奪爵焉)」と書いています。
 
本文に戻ります。
王莽が言いました「帝王の道は互いに継承して通じ合っている。盛徳の祚(帝位。皇統)は百世にわたって祀(祭祀)を享受できる。予が思うに、黄帝、帝少昊、帝顓頊、帝嚳、帝堯、帝舜、帝夏禹、皋陶、伊尹は皆、聖徳があって皇天に至り、功烈が巍巍(高大な様子)として光を遠くまで施している。予はこれを甚だ嘉するので、その後代を営求(探し求めること)してその祀を継承させよう(将祚厥祀)。」
王莽は王氏が虞帝(舜)の後代で帝嚳から出ており、劉氏は堯の後代で顓頊から出ていると考えました。そこで、姚恂を初睦侯に封じて黄帝の後を継がせ(姚は舜の姓で、舜は黄帝の後代です)、梁護を脩遠伯に封じて少昊の後を継がせ(『漢書』の注によると梁護は伯益の後代とされました)、皇孫(王莽の孫)功隆公王千に帝嚳の後を継がせ、劉歆を祁烈伯に封じて顓頊の後を継がせ、国師劉歆の子劉疊を伊休侯に封じて堯の後を継がせ(『漢書』の注によると、祁烈伯に封じられた劉歆と国師劉歆は別人です。国師の劉歆は嘉新公に封じられています)、嬀昌を始睦侯に封じて虞帝(舜)の後を継がせ(嬀も舜の姓です。舜には姚と嬀の二姓があり、姚姓には黄帝を、嬀姓には舜を継がせました)、山遵を襃謀子(これは『漢書王莽伝中』の記述で、『資治通鑑』胡三省注では「褒謀侯」です)に封じて皋陶の後を継がせ、伊玄を襃衡子(褒衡子)に封じて伊尹の後を継がせました。
 
漢の後代である定安公劉嬰(孺子)の位を賓国賓としました。
周の後代に当たる鄭公姫党(『漢書・王莽伝中』と『資治通鑑』胡三省注は「衛公」としていますが、「鄭公」のはずです。西漢平帝元始四年・4年参照)を改めて章平公(『漢書・王莽伝中』では「章平公」ですが、『漢書外戚恩沢侯表』では「章牟公」です)に封じ、同じく賓にします。
(商)の後代に当たる宋公孔弘は時運が転じて秩序が移ったと考えて、改めて章昭侯に封じました(公から侯に遷しました)。位は恪(下述)です。
夏の後代に当たる遼西の姒豊を章功侯に封じ、同じく恪としました。姒は夏王朝の姓です。
漢書』顔師古注によると「恪」は「敬」の意味で、待遇に敬を加えて「賓」と同格にすることを指します(章昭侯、章功侯は侯爵ですが、待遇を定安公、章平公と同等にしました)。かつて周王朝は舜の後代と杞夏王朝の後代)、宋商王朝の後代)を三恪としました。王莽はこれに倣っています。
 
四代(夏漢)の古宗(先祖)は明堂で宗祀(祖先に対する祭祀)し、皇始祖考虞帝(王莽の始祖帝舜)に配されることになりました。
 
周公の後代である襃魯子姫就と、宣尼公孔子の後代である襃成子孔鈞の爵位はこれ以前に定められました西漢平帝元始元年1年)に魯頃公の八世孫にあたる公子寬が「褒魯侯」に封じられました。諡号は節侯です。節侯はすぐに死に、公孫相如が跡を継ぎました。姫就は公孫相如の後代のようです。孔子の子孫・孔鈞も公子寛と同じ時に「褒成侯」に封じられました。ここでは「襃魯子」「襃成子」と書かれているので、これ以前に侯爵から子爵に落とされたはずですが、具体的な時期は分かりません。)
 
 
 
次回に続きます。