新更始時代5 新王莽(五) 王莽の先祖 9年(4)

今回も新王莽始建国元年の続きです。
 
[(続き)] 王莽は漢の承平(太平)の業を受け継ぎました。府庫と百官(諸官府)の富があり、百蛮が賓服服従しており、天下は晏然(安寧。安定)としています。王莽は一朝にしてこれらを有しましたが、心意はまだ満たされておらず、漢家の制度が陿小(狭小)なので更に疏闊(広大)にしたいと欲しました(『資治通鑑』胡三省注は「制度を変改して古に従おうとした」と解説しています)
 
王莽は自身の権威を固めるために、「自分は黄帝と虞舜の後代で、斉王田建の孫に当たる済北王田安(秦楚時代)に至って国を失った。斉人はこれを王家といい、そこから王氏が生まれた」と称しました。
そこで、まず黄帝を王氏の初祖に、虞帝(舜)を始祖にしました。また、陳の胡公を追尊して陳胡王とし、田敬仲を田敬王とし、済北王田安を済北愍王としました。黄帝の子孫が分かれてそのうちの一つが有虞氏(舜の家系)になり、有虞氏の子孫が陳に封じられ、陳の公族である田敬仲が陳から斉に出奔して田氏となり、田安の子孫が王氏になったからです。
こうして五つの祖廟(初祖、始祖、陳胡王、田敬王、済北愍王)を設け、更に四つの親廟(王遂、王賀、王禁、王曼。下述)を定めました(実際に廟の建設を始めるのは新王莽地皇元年・20年になってからです)。天下の姚王の五姓は全て宗室とし、代々賦役を免除して義務を与えないことにします。
以下、王莽の言葉です「予が以前、摂にいた時(摂政していた時)、郊宮を建て、祧廟(遠祖の廟)を定め、社稷を立てたので、神祇がそれに報況(応じて報いること)し、あるいは光が上から下を覆い(光自上復于下)、流れて烏になった。またあるいは黄気が熏烝(上昇、発散すること)して昭燿章明(明るく照らすこと)し、それによって黄黄帝(帝舜)の烈(功績)を顕わにした。
黄帝から済南伯王(王遂)に至るまで、祖世の氏姓は五つあった。黄帝には二十五子がおり、姓十二氏を分賜した(二十五子のうち、十二人に姓氏を与えた)。虞帝の先(先祖)は姓を受けて『姚』といい、陶唐(帝堯)の時は『嬀』といい、周においては『陳』といい、斉においては『田』といい、済南において『王』といった。予が伏して思うに(伏念)、皇初祖考黄帝と皇始祖考虞帝は明堂で宗祀をしているが、祖宗の親廟に序す(並ぶ)べきである。よって五つの祖廟と四つの親廟を立て、后夫人(王后や夫人)を全て配食(合祀)する。黄帝を郊祀して天に配し、黄后黄帝の妃)を地に配す。新都侯の東弟(東邸)を大禖(大祠)とし、歳時(四季。または一年の一定の時間)に祭祀を行う。家が尊ぶ者は、天下で種祀することにする(「種祀」は祠を建てて祖宗を祀ることです。皇帝である王莽が大禖を定めて先祖を祀ることにしたので、庶人にもその家が崇める先祖を祀らせることにしました。原文「家之所尚,種祀天下」)
王氏、合わせて五姓の者は、全て黄虞の苗裔で、予の同族である。『書尚書皋繇謨)』にはこうあるではないか『九族を惇序せよ(「惇序」は序列に応じて睦まじくするという意味です。原文「惇序九族」)。』よって天下に命じ、この五姓の名籍を秩宗に献上させて皆を宗室とする。世世復して与えることはない(代々賦役を免除する。原文「世世復,無有所與」)。元城の王氏は互いに嫁娶(結婚)させず、それによって族を分けて親(親族関係)を正させる(別族理親)。」
元城の王氏は王莽の親族です。姚田の四氏が同じ祖を持つので、王氏と四氏の結婚を禁止しました(王氏同士の結婚は同姓不婚の原則があるので元々できません)。他の地域の王氏は四氏との婚姻を禁じられていません。
 
更に陳崇、田豊を侯に封じてそれぞれ胡王、敬王の後を継がせることにしました。
 
王莽は陳崇を統睦侯に封じて胡王(陳胡公)の後代とし、田豊を世睦侯に封じて敬王(田敬仲)の後代にしました。
 
以前、翟義や趙朋(趙明)等が乱を起こした時(王莽(孺子)居摂二年7年参照)、天下の牧守(州牧郡守)は皆、州郡を領有して忠孝を抱きました(翟義や趙朋に協力しませんでした)
そこで王莾は牧を封じて男爵にし、守を附城(漢代の関内侯)にしました。
また、旧恩がある戴崇、金渉、箕閎、楊並等(成帝時代に王莽を推薦しました)の子を全て男爵に封じました。
 
騎都尉囂等を分派して、上都(恐らく「上郡」の誤り)橋畤(橋山の祠。黄帝は橋山に埋葬されたといわれています)黄帝園位(陵園)を築き、零陵郡九疑山に虞帝園位を築き、淮陽国(王莽によって劉氏の諸王が廃されたので、郡かもしれません)陳県に胡王園位を築き、斉郡臨淄に敬王園位を築き、城陽(郡かもしれません)莒県に愍王園位を築き、済南郡東平陵に伯王園位を築き、魏郡元城に孺王園位を築きました。
漢書』顔師古注によると、王莽の高祖(曾祖父の父)は名を遂、字を伯紀といい、曾祖父は名を賀、字を翁孺といったため、それぞれ伯王、孺王と称しました。
この後、使者が四季ごとに祭祀を行うことになります。
黄帝以下の先祖のために廟を造る必要もありましたが、天下を平定したばかりだったため、暫くは明堂太廟で祫祭(合祭)することにしました(今回、祖廟と親廟の合わせて九廟を定めましたが、廟の建設は始めていません。新王莽地皇元年・20年に九廟建設を開始します)
 
王莽は漢の高廟を文祖廟とし(文祖は帝堯の始祖です。舜が堯から禅譲を受けて文祖の系統を継いだので、漢から禅譲を受けた王莽も漢の祖高帝を文祖にして文祖の系統を継いだことにしました)、こう言いました「予の皇始祖考虞帝は唐(帝堯)から禅譲を受けた。漢氏の初祖(始祖)は唐帝(堯)であり、代々伝国の象があった(堯が舜に禅譲したので、子孫も禅譲することになる命運をもっていた)。予もまた自ら漢高皇帝の霊前で金策を受けた。前代を褒め称えて厚くすることを思い、どうして忘れる時があるだろう。漢氏の祖宗は七人おり(漢の祖宗は本来、高帝、文帝、武帝、宣帝の四人でしたが、王莽が元帝、成帝、平帝を宗に加えて七人にしました)、礼に従って定安国に廟を建てることにした。その園寝廟で京師にあるものは、廃す必要はなく、今まで通り祠薦(祭品を納めて先祖を祀ること)する。予は秋九月に自ら漢氏高平の廟に入る。諸劉氏は籍を改めて京兆大尹に属させるが(漢代は皇族として宗正に属していました)、その復は解かず、それぞれその身で終わらせる(劉氏皇族に対する賦役の免除はそのままにしましたが、本人が死ぬまでと決められました。原文「勿解其復,各終厥身」)。州牧はしばしば存問(慰問)し、侵冤(侵犯冤罪)を受けさせてはならない。」
 
 
 
次回に続きます。

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