新更始時代6 新王莽(六) 復古政策 9年(5)

今回も新王莽始建国元年の続きです。
 
[] 『漢書王莽伝中(巻九十九中)』と『資治通鑑』からです。
「劉」の字が「卯」「金」「刀」からできているため、詔によって「正月剛卯」や「金刀」の利を全て廃止しました。
「剛卯」は魔除け用の装飾品で、玉、金、桃木等の物があり、正月卯日に作られたため、「正月剛卯」といいます。
漢書』顔師古注によると、「劉」の字の上に「卯」があるため、「正月剛卯」を廃止しました。また、『資治通鑑』胡三省注は「『劉』の字の上の部分は本来、『丣』と書き、王莽は『丣』の字が『卯』に近いので廃止した」と解説しています。
「金刀」は西漢王莽(孺子)居摂二年7年)に王莽が作った貨幣です。錯刀、契刀といいます。
 
以下、王莽の言葉です「予は以前、大麓におり、摂假に至るまで(『漢書』顔師古注によると、「大麓」は大司馬宰衡の職にいた時を指します。舜は即位する前に大麓に行きました。その故事から引用しています。「摂假」は摂皇帝と假皇帝を指します)、漢氏の三七の阸(厄)や、赤徳の気が尽きていることを深く思い、劉氏を助けて延期(延命)する術を思索して広く求め、用いないものはなかった。だから金刀の利を造り、それによって救済することを願ったのである。しかし、孔子が後王の法(準則)とするために『春秋』を作ってから、哀(魯哀公)の十四年に至って一代を終わらせている(哀公の時代は続くのに、在位十四年で『春秋』の記述が終わっている)。これを今に当てはめると、哀の十四と同じである(『漢書』の注によると、漢哀帝の在位は六年、平帝は五年、王莽の居摂は三年だったので、十四年になります)。赤世(火徳の世。漢朝)の計は尽きたので、強いて救済することができなくなった。皇天が威を明らかにし、黄徳が興きることになり、大命を隆顕(宣揚)して予に天下を属させた。今、百姓が皆『皇天が漢を改めて新を立て、劉を廃して王を興した』と言っている。『劉』という字は『卯刀』で成り立っている。よって、正月剛卯と金刀の利は全て行ってはならない。広く卿士と謀ったところ、全て『天と人が共に応じ合うのは明白なことだ(天人同応昭然著明)』と言った。そこで、剛卯を去って佩(装飾品)とすることなく、刀銭を除いて利とすることなく、天心を承順(受け入れて従うこと)して百姓の意を満足させることにする(快百姓意)。」
 
王莽は金刀(錯刀、契刀)および五銖銭を廃して新たに小銭を造りました。直径は六分、重さは一銖で、「小銭直一」と刻まれています。
以前の「大銭五十」と合わせて二品(二種類)が同時に使われることになりました。
また、民の盗鋳を防ぐために銅や炭の携帯を禁止しました。
 
[] 『漢書王莽伝中(巻九十九中)』と『資治通鑑』からです。
夏四月、徐鄕侯劉快が党を結び、数千人がその国で挙兵しました。
 
漢書王子侯表』によると、劉快は膠東共王劉授の子です。『王子侯表』では「劉炔」となっていますが、『漢書』顔師古注は「恐らく『表』が誤り」としています。
 
膠東王は景帝の子劉寄(康王)から始まります。以下、『漢書諸侯王表』からです。
劉寄の後、哀王劉賢、戴王劉通平、頃王劉音、恭王劉授と継承しました。劉授の後は子の劉殷が継ぎましたが、王莽の即位後に膠東王を廃されて公に落とされました(下述)
劉殷は劉快の兄に当たります。
 
本文に戻ります。
劉殷は漢の膠東王を継ぎましたが、王莽が即位してから扶崇公に落とされました。
弟の劉快が挙兵して即墨(『資治通鑑』胡三省注によると、即墨は膠東国の都でした)を攻めると、劉殷は城門を閉じて自ら獄に繋がれます
吏民が劉快を防いだため、劉快は敗走して長広で死にました。
 
王莽が言いました「昔、予の祖である済南愍王(戦国時代の斉愍王)は燕寇に困苦し、斉の臨淄から出て莒を守った。宗人田単は広く奇謀を設けて燕将(騎劫)を獲殺し、再び斉国を定めた。今、即墨の士大夫がまた同心して反虜を殄滅(殲滅)したので、予はその忠の者を甚だ嘉し、その無辜(無罪)の者を憐れむ。よって劉殷等を赦し、劉快の妻子以外の親属で坐すべき者も皆、治めない(裁かない)ことにする。死傷を弔問し、亡者に葬銭を下賜し、一人五万(銭)とする。劉殷は大命を知り、劉快を深く疾悪(憎悪)したので、すぐその辜(罪)に伏した。よって劉殷の国戸を万に満たさせ、地を方百里とする。」
こうして劉殷は封国が増やされました。
 
また、王莽は符命を献上した臣十余人にも爵位を封じました。
 
[] 『漢書王莽伝中(巻九十九中)』と『資治通鑑』からです。
王莽が言いました「古は八家で廬井を設け(井田制を指します。土地を「井」の字のように九分し、八家が共同して農耕を行いました。一井八家の家屋を「廬井」といいます)、一夫一婦(一組の夫婦)が百畝を耕し(田百畝)(収穫の)十分の一を税にしたので(什一而税)、国が満たされて民が富み(国給民富)、頌声(褒め称える歌頌)が作られた。これは唐虞(堯舜)の道であり、三代夏商周が遵行してきたことである。ところが秦が無道を為し、賦税を厚くして自らに供奉(供給)させ、民力を疲弊させて(自分の)欲を極め、聖制を壊し、井田を廃した。そのため兼并が始まって貪鄙(貪婪卑劣な行為)が生まれ、強者の規田(田地の区画。占有地)は千を数えるのに、弱者は錐を立てるほどの居も持てなくなった。また、奴婢の市を設けて牛馬と蘭(檻)を同じくし、民臣(民や奴隷)を制してその命を顓断(専断)するようになった。姦虐の人はそれによって利を為し(因縁為利)(ひどい場合は)人の妻子を略売(奪って売ること)するに至り、天心に逆らって人倫を乱し(誖人倫)、『天地の生命では人が最も貴い(原文「天地之性人為貴」。『漢書』の注によると、「性」は「生」に通じます。「生命。生物」の意味です。『孝経』の言葉です)』という義に背いている。『書(『尚書甘誓』)』はこう言っている『予は汝に刑を与えて奴隷にする(予則奴戮女)。』命を用いない者だけが、その後(命を聴かなかった後)にこの辜(罪)を被るのである。
漢氏は田租を減軽して三十分の一を税にしたが(三十而税一)、頻繁に更賦(兵役の代わりに納める税)があり、罷𤸇(障害者)でも皆(税を)出した。しかも豪民が侵陵(侵犯凌辱)し、分田劫假した(「分田劫假」は『漢書食貨志上』で顔師古が解説しています。「分田」は、田を持たない貧困の者が富裕な者から田を分けてもらい、その地を耕すことです。収獲は分け合うことになります。「假」も貧困の者が富裕な者から田を借りることを指します。「劫」は強奪の意味で、「劫假」は田を借りている貧困な者から富裕な者が税として財物を奪うことを指します)。よって、その名(名目)は三十分の一の税でも(名三十税一)、実は十分の五の税だった(実什税五)。父子夫婦が終年(一年中)耕芸(耕耘。農耕)しても、得られる収入は自存するに足らなかったのである。だから富者は犬馬でも菽粟(豆や穀物を余らせ、驕慢になって邪を行うようになり、貧者は糟糠酒粕や米糠)に厭きることもなく、困窮して姦を行うようになった。こうして共に辜(罪)に陥り、刑罰を用いて放置できなくなったのである(刑用不錯)
予は以前、大麓にいた時、始めて天下の公田を人口に合わせて井田にしようとした(天下公田口井)。その時は嘉禾の祥があったが、反虜逆賊に遭ったので中止した。今、天下の田を改名して『王田』と呼び、奴婢を『私属』と呼び、全て売買できないことにする。男口(一家の男の数)が八人に満たないのに、田が一井を越えている者は、余田を分けて九族(親族)や鄰里郷党(近所の者)に与えよ。元から田がなく、今回、田を授かるべき者は制度に従え。井田の聖制を敢えて非難し、法を無視して衆を惑わす者は、四裔(四方の辺境)に投じて魑魅(『漢書』顔師古注によると、」「魑」は山神、「魅」は老物の精です)を防がせ、皇始祖考虞帝の故事と同じようにする(帝舜は四凶を四裔に放逐して魑魅を防がせました)。」
 
以下は『漢書・王莽伝中』からです。『資治通鑑』は翌年に書いています。
当時、百姓は漢の五銖銭が便利だと思っており、王莽の大小二種類の銭が流通できるかどうかは判断しがたく(二種類が通用するかどうかが分からず。原文「以莽銭大小両行難知」)、また、しばしば変改したため信用していませんでした。そこで人々は秘かに五銖銭を使って市買(売買)します。
やがて大銭が廃されるという噂が流れたため、大銭を携帯する者がいなくなりました。
王莽はこれを憂いて再び書を下しました「五銖銭を携帯する者、大銭が廃されると言う者は、井田制を非難した罪と同等とみなし(比非井田制)、四裔に投じる。」
この後、農民や商人が失業し、食貨(糧食と貨幣。「経済」の意味です)が共にすたれ、市道で涙を流す民人(人民)も現れました。
田宅奴婢を売買したり貨幣を鋳造した罪に坐した者は、諸侯卿大夫から庶民に至るまで、数え切れないほどになります。
 
 
 
次回に続きます。

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