新更始時代7 新王莽(七) 五威将 9年(6)

今回も新王莽始建国元年の続きです。
 
[] 『漢書王莽伝中(巻九十九中)』と『資治通鑑』からです。
秋、王莽が五威将王奇等十二人を派遣し、符命四十二篇を天下に頒布しました。四十二篇というのは、徳祥五事、符命二十五、福応十二です。
 
徳祥には文帝宣帝の時代に黄龍が成紀と新都に現れたこと、高祖考王伯(恐らく「伯王」の誤りです。王遂を指します)の墓門の梓柱(梓の木で造った柱)に枝葉が生えたこと西漢成帝陽朔二年参照)等が書かれています。
符命には井石、金匱を得たこと等が書かれています。
福応には雌雞が雄に変わったこと等が書かれています。
その文は正式な経文に近く、古義を根拠に解説したものでした(爾雅依託皆為作説)。大要は「王莽が漢に代わって天下を有す」と言っています。
これらを総合してこう宣言しました「帝王が命を受けたら必ず徳祥の符瑞を受け、五命が協成し(五行が秩序を正し)、福応を重ね、その後、巍巍(偉大、高大なこと)の功を立てて子孫に伝え、永く無窮の祚(福、または帝位)を享受することができる。だから新室の興隆は、徳祥が漢三七九世の後に発したのである(三は三世文帝、七は七世宣帝、九は九世成帝です。上述の黄龍と梓柱の祥を指します。但し、『漢書五行志中之下』を見ると、梓柱に枝葉が生えたのは元帝初元四年45年の事としています。恐らく『五行志』が誤りだと思います)
新都に肈命(始めの命)があり(王莽は初めに新都に封じられました)、黄支から瑞を受け(黄支が犀を献上しました)、武功で王(王道)が開かれ(武功で丹石を得ました)、子同で命が定まり(『漢書』の注によると、子同は梓潼県です。王莽が改名しました。梓潼は哀章の故郷です)、巴宕で命が成り(『漢書』の注によると、巴郡宕渠県をさします。石牛を得ました)、福を重ねて十二回応じた(十二の福応があった。下述します)。よって天が新室を保祐する姿は深く堅いのである(深矣固矣)
武功の丹石は漢氏平帝末年に現れた。火徳が消え尽くし、土徳が代わることになったので、皇天が眷然(思念すること)とし、漢を去って新と一つになり、丹石によって始めて皇帝(王莽)に命を授けた。皇帝は謙譲したので摂(摂政)としてここ(帝位)に居たが、天意に当たらなかったので、その秋七月、天が三能文馬(の福応)を重ねた(『漢書』の注によると、「三能」は「三台星」です。「文馬」は縞模様がある馬で、西周成王の時代に犬戎が献上しました。三台星が現れたり、文馬が献上されたようです)。しかし皇帝がまた謙譲して即位しなかったため、鉄契(鉄券)を三(三回目の福応)とし、石亀を四とし、虞符(帝舜の符信)を五とし、文圭(模様がある玉器)を六とし、玄印(黒石の印)を七とし、茂陵武帝陵があります)の石書を八とし、玄龍石を九とし、神井(昌興亭の井戸)を十とし、大神石(雍県の石)を十一とし、銅符帛図を十二とした。申命の瑞(天命を重複して示す瑞祥。または天命を述べる瑞祥)はしだいに顕著になり、十二に至って新皇帝(の即位)を明らかに告げたのである。
皇帝は上天の威を深く考えて畏れないわけにはいかなかったので、摂号を去ったが、まだ假と称し、初始に改元し、こうすることで天命を承塞(受け入れて止めること)し、上帝の心を克厭(満足させて抑えること)しようと欲した。しかしこれは皇天が鄭重(頻繁)に符命を降した意ではなかったため(天意に合わなかったため)、その日に天はまた勉書(王莽が帝位に即くように励ます書)によってそれを決したのである(勉書を使って王莽が帝位に即くことを決定したのである。原文「是日天復決其以勉書」)
同時に、侍郎王盱がある人を見た。白布の単衣を着ており、赤繢の方領(「繢」は五彩、「方領」は伝統的な漢服の幅が広い襟です)がついていて、小冠を被り、王路殿前に立って王盱にこう言った『今日は天が同色であり、天下の人民を皇帝に委ねた(原文「今日天同色,以天下人民属皇帝」。『漢書』顔師古注によると、天が同色というのは、五方の天神が考えを等しくしたため天の色を一つにしたという意味です)。王盱はこれを怪しみ、十余歩進んだが、その人は忽然と見えなくなった。
丙寅の暮、漢氏の高廟に金匱図策が現れ、『高帝が天命を受け入れ、国を新皇帝に伝える(高帝承天命,以国伝新皇帝)』と書かれていた。明旦(翌朝)、宗伯忠孝侯劉宏がこれを報告したので、公卿を召して議したが、決定できなかった。ところが大神石が人のように談話してこう言った『速く新皇帝を高廟に行かせて命を受けよ。留まってはならない。』こうして、新皇帝がすぐに車に乗り、漢氏の高廟に行って命を受けたのである。
命を受けた日は丁卯だった。丁は火であり(十干は五行に当てはめられました。甲乙は木、丙丁は火、戊己は土、庚辛は金、壬癸は水です)、漢氏の徳である。卯は劉姓の字を為している。漢劉の火徳が尽き、新室に伝えるというのは明らかだ。皇帝は謙謙(謙遜の様子)として既に(天命が)備わったのに固く譲った。しかし十二符応が明らかに迫ったので、命を辞することはできず、懼然祗畏(恐懼敬畏。自失するほど恐れること)し、漢氏が終わるのを救済できなかったことに葦然(動揺)憐憫した。これを助けようと自らを励ましたのに意に従うことができなかったので(原文「斖斖在左右之不得従意」。『漢書』顔師古注によると、「斖斖」は自分を励ますこと、「左右」は助けることです。漢室を助けようと欲したのに、天命に迫られて本意を遂げることができなかったという意味です)、このために三夜就寝せず(三夜不御寝)、三日食事をしなかった(三日不御食)。公侯卿大夫に延問(意見を求めること)したところ、全て『上天の威命の如く奉じるべきです(天命を受け入れるべきです)』と言ったので、改元して号を定め、海内を更始(更新)した。新室が既に定まり、神祇が懽喜歓喜し、福応が重なり、吉瑞が頻繁に現れた(申以福応,吉瑞累仍)。『詩(大雅假楽)』に『民のためとなり人(群臣)のためとなれば、天から禄(福)を受ける。(天が)守り助けて命を下し、天がそれ(福禄)を繰り返す(宜民宜人,受禄于天。保右命之,自天申之)』とあるが、これを言っているのである。」
 
五威将は符命を奉じ、新の印綬を携帯して各地を巡りました。国内では王侯以下、吏官に及ぶまで国名や官名を改めた者を訪ね、国外では匈奴、西域や徼外(塞外)の蛮夷に及ぶまで遠方を訪問します。それぞれの地で新室の印綬を授けて故(旧)漢の印綬を回収しました。
 
合わせて、吏一人に爵二級を、民一人に爵一級を、女子には百戸ごとに羊と酒を、蛮夷にはそれぞれ差をつけて幣帛を下賜しました。
また、天下に大赦しました。
 
五威将は乾文車に乗り、坤六馬(六頭の牝馬を駕し、鷩鳥の毛を背負い、服飾は非常に偉(威武)でした。十二人の五威将は一将ごとに左中の五帥を置き(将帥合計七十二人になります)、衣冠車服駕馬にはそれぞれの方角に基いた色と数がありました。
資治通鑑』胡三省注によると、「乾文車」は天文が描かれた車です。「坤六馬」の「坤」は牝馬、「六」は地(土徳)の数で、「鷩鳥」は雉の一種です。
漢書』顔師古注によると、それぞれの方角に基いた色というのは「東方の青」「南方の赤」等を指し、数は「木徳の三」「火徳の二」等を指します。
 
将は節を持ち、太一の使(使者)と称しました。帥は幢(旗の一種)を持ち、五帝の使と称しました。
王莽が命じて言いました「普天の下は四表(四方極遠の地。全土)に及び、至らぬ所があってはならない。」
 
東に向かった者は玄菟、楽浪、高句驪高句麗、夫餘に至ります。
資治通鑑』胡三省注によると、武帝が朝鮮を滅ぼしてから、高句驪を県にして玄菟郡に属させました。高句驪は五部に分かれており、遼東の東千里に位置します。高句驪は朱蒙(高朱蒙の子孫で、高を氏にしました。
夫餘は玄菟の北千里で、東明(夫餘国の祖)の子孫です。
 
南に向かった者は徼外(塞外)に出て益州を通過し、句町王を侯に改めます。
資治通鑑』胡三省注によると、この益州武帝が置いた益州郡です(十三州の益州ではありません)。昭帝時代に姑繒葉楡夷が反しましたが、句町侯亡波が背いた者を撃って功を挙げたため、王に立てられました。
 
西に向かった者は西域に至り、全ての王を侯に改めます。
 
北に向かった者は匈奴庭に至り、単于印を授けます。漢の印文を改め、「璽」の字を除いて「章」にしました。
資治通鑑』胡三省注によると、漢の諸侯王は黄金橐駝鈕(黄金の印で上の装飾が駱駝の形をしています。「鈕」は印の上の紐を結ぶ部分です)を授かり、「璽」と刻まれていました。列侯は黄金亀鈕で「章」です。御史大夫は金印、中二千石は銀印亀鈕で「章」です。千石から四百石は皆、銅印で「印」です。
匈奴の印文を「璽」から「章」に改めたというのは、王から侯に落としたことを意味します。
 
漢書王莽伝中』はここで「単于が故印(漢の印)を求めたが、陳饒がこれを椎破(撃破。破壊)した。」「単于が大怒し、句町、西域もこの件(王を侯に改めたこと)が原因で後に全て畔(叛)した。陳饒は帰還してから、大将軍に任命され、威徳子に封じられた」と書いています。詳細は翌年以降に再述します。
 
資治通鑑』胡三省注も「王莽が印綬を改めたことが四夷を攪乱する原因になった」と書いています。
 
 
 
次回に続きます。