新更始時代8 新王莽(八) 司命中城四関 9年(7)

今回で新王莽始建国元年が終わります。
 
[] 『漢書王莽伝中(巻九十九中)』と『資治通鑑』からです。
冬、雷が落ちました。
桐に花が咲きました。
 
[] 『漢書王莽伝中(巻九十九中)』と『資治通鑑』からです。
五威司命と中城四関将軍を置きました。それぞれ「五威」を将軍号の前につけます。
五威司命が上公以下の官員を司り、五威中城将軍が十二城門を担当することになりました。
中城は京城を指します。
資治通鑑』胡三省注に長安城十二城門が書かれています。東面の南から数えて第一門を霸城門といい、王莽が仁寿門に改名しました。第二門は清明門で、宣徳門に改めました。第三門(北から数えて第一門)は宣平門で、春王門に改めました。
南面の東から数えて第一門は盎城門で、更清門に改めました。第二門は安門で、光礼門に改めました。第三門は便門で、信平門に改めました。
西面の南から数えて第一門は章城門で、万秋門に改めました。第二門は直城門で、正道門に改めました。第三門は雍門で、章儀門に改めました。
北面の東から数えて第一門は洛門です。第二門は廚城門で、建子城門に改めました。第三門は横門です。第一門と第三門は改名していないようです。
 
王莽が策書を発し、統睦侯陳崇に命じました「ああ、汝崇よ咨爾崇)、命を用いないのは乱の原(根源)である。大いに姦猾なのは賊の本(根本)である。偽の金銭を鋳すのは宝貨(貨幣の流通)を妨げる道である。驕奢踰制(驕慢奢侈で礼制を越えること)は兇害の端(発端)である。省中および尚書の事を漏泄(漏洩)するのは、『機事を秘密にできなかったら害が成る(原文「機事不密則害成」。『漢書』顔師古注によると『易』の言葉です)』というものである。王庭で爵を拝して私門で恩に謝すのは爵位を与えるのは皇帝でも、実際には大臣が任免の権限を握っており、群臣が皇帝ではなく大臣に感謝するのは)、禄(官員を任命する権利)が公室を去って政が衰亡に向かうことである。合わせてこの六條は国の綱紀である。そこで、汝を任用して司命とする。『柔らかくても食べず、固くても吐かず、鰥寡(配偶者を失った男女。ここでは老弱孤独な者)を侮らず、強圉(強暴)を畏れるな(原文「柔亦不茹,剛亦不吐,不侮鰥寡,不畏強圉」。『詩経大雅烝民』からの引用です)』帝命を帥繇(遵守)し、朝廷で(百官と)統睦(統率和睦)せよ。」
最後の「統率」は陳崇の「統睦侯」にかけています。
 
説符侯崔発に命じました「『門を重ねて𣔳(警護につかう拍子木)を叩き、こうして暴客(強暴な敵)を待て(原文「重門撃𣔳,以待暴客」。『漢書』顔師古注によると『易』の言葉です)。』汝を五威中城将軍にする。中徳を既に成し、天下を符(符命。天命)に悦ばせよ(天下説符)。」
「中徳」は中城にかかっています。「符に悦ばせよ」の原文は「説符」で、『漢書』顔師古注が「説の音は悦」と注釈しています。古文の「説」は多くの場合「悦」に通じるので、「符に悦ばせよ」と訳しました。あるいはこの「説」は「悦」ではなく、「天下で符を説け」という意味かもしれません。「説符」は崔発の「説符侯」にかけています。
 
明威侯王級に命じました「繞霤(地名)の固(堅固な地)は南の荊楚に当たる。汝を五威前関将軍にする。振武奮衛して前(南)で威を明らかにせよ(明威于前)。」
「明威于前」は王級の「明威侯」にかけています。
 
尉睦侯王嘉に命じました「羊頭(山名)の阸(隘路)は北の趙燕に当たる。汝を五威後関将軍にする。壺口で捶扼し(「捶」は「撃つ」、「扼」は「つかむ、抑制する」です。壺口を拠点にして敵を撃つという意味です)、後ろ(北)で慰撫して和睦せよ(尉睦于後)。」
漢書』顔師古注によると、羊頭山は上党壺関県にあります。「壺口」も山名で、壺口関(壺関)があります。『中国歴史地図集(第二冊)』を見ると、羊頭山は壺関の南に位置します。
最後の「尉睦于後」は王嘉の「尉睦侯」にかけています。
 
堂威侯(下述します)王竒(王奇)に命じました「肴黽(肴山黽池)の険は東の鄭衛に当たる。汝を五威左関将軍にする。函谷で批難し(「批」は「打つ」または「閉じる」、「難」は「困難」「敵」の意味、または「相手に難を与える」という意味です。ここでの「批難」は「敵を防いで撃つ」という意味です)、左(東)で威を掌握せよ(掌威于左)。」
「掌威于左」は王竒の侯名にかけているはずです。翌年に『資治通鑑』が「堂威侯」ではなく「掌威侯」と書いているので、「堂威侯」は誤りのようです。
 
懐羌子王福に命じました「汧隴の阻は西の戎狄に当たる。汝を五威右関将軍にする。成固(地名)で拠守し、右(西)で羌を懐柔せよ(懐羌于右)。」
「懐羌于右」は王福の「懐羌子」にかけています。
 
[] 『漢書王莽伝中(巻九十九中)』と『資治通鑑』からです。
諫大夫五十人を派遣し、郡国に分けて貨幣を鋳造させました。
 
[] 『漢書王莽伝中(巻九十九中)』からです。
この年、長安の狂女子(正気を失った女子。碧は名です)が道中で叫んでこう言いました「高皇帝が大怒した。速やかに我が国を返せ(趣帰我国)。そうしなければ九月に必ず汝を殺す!」
王莽は女を逮捕して殺しました。
女を裁いた掌寇大夫陳成は自ら官を辞しました。
 
後漢書郭陳列伝(巻四十六)』を見ると、東漢時代の大臣陳寵に陳咸という曾祖父がいました。西漢成帝と哀帝の時代に尚書になりましたが、平帝時代に引退しています。王莽が帝位を簒奪すると、陳咸を招いて掌寇大夫に任命しました。しかし陳咸は病と称して応じようとせず、当時、官位にいた三人の子陳参、陳豊、陳欽にもそろって官を解かせ、父子ともに郷里に帰りました。
漢書王莽伝中』の掌寇大夫陳成は「陳咸」の誤りかもしれません。但し、『後漢書』の記述では陳咸は掌寇大夫の職を辞退しており、狂女子碧とも関係がないようです。
 
[] 『漢書王莽伝中(巻九十九中)』からです。
真定の劉都等が挙兵を謀りましたが、発覚して全て誅されました。
 
[十一] 『漢書王莽伝中(巻九十九中)』と『資治通鑑』からです。
真定、常山で大雹が降りました。
 
 
 
次回に続きます。