新更始時代14 新王莽(十四) 匈奴遠征 11年(1)

今回は新王莽始建国三年です。二回に分けます。
 
新王莽始建国三年
辛未 11
 
[] 『漢書王莽伝中(巻九十九中)』からです。
王莽が言いました「百官を改更(改変)し、職事(職責)を分移(変動)したが、律令儀法はまだ全て定めるには至っていない。よって暫くは漢の律令儀法に則って従事せよ。公卿・大夫・諸侯・二千石に命じ、吏民で徳行があり、政事に通じ、言語(弁論)を善くし(能言語)、文学に明るい者を各一人挙げさせる。王路四門に到らせよ。」
 
[] 『漢書王莽伝中(巻九十九中)』と『資治通鑑』からです。
尚書大夫趙並を派遣して北辺を慰労させました。
趙並は還ってから「五原の北假(地名)は膏壤(土地が肥沃なこと)穀物がよく育つので(殖穀)、異時(以前)は常に田官を置いていました」と報告しました。
王莽は趙並を田禾将軍に任命し、戍卒を動員して北假で屯田させ、軍糧を補充しました。
 
[] 『漢書王莽伝中(巻九十九中)』と『資治通鑑』からです。
王莽が派遣した中郎将藺苞、副校尉戴級の将兵万騎が多数の珍宝を持って雲中の塞下に至りました。呼韓邪単于の諸子を誘って順番に十五単于に任命しようとします。
藺苞と戴級は訳(通訳)を塞から出して左犂汙王咸および咸の子登と助の三人を誘い出しました。
 
「左犂汙王咸」というのは『資治通鑑』の記述で、『漢書匈奴伝下(巻九十四下)』は「右犂汙王咸」としています。しかしこれ以前に「左犂汙王咸が居住する地で新の将帥が烏桓の民を見た」という記述があり、烏桓の民は匈奴の「左地」に置かれたので、『匈奴伝下』の「右犂汙王」は誤りです。
また、『漢書・王莽伝中』は「単于の弟・咸」と書いています。烏珠留単于の本名は嚢知牙斯といい、呼韓邪単于の子です。咸は嚢知牙斯の異母弟に当たります西漢成帝元延元年・前12年参照)
 
本文に戻ります。
三人が来ると、藺苞と戴級は咸を脅迫して孝単于を拝命させ、黄金千斤と多数の錦繡を下賜しました。助にも順単于を拝命させます。孝単于咸は還らせましたが、助と登は伝(伝馬。伝車)長安に送りました。
 
王莽は藺苞を宣威公に封じて虎牙将軍に任命し、戴級を揚威公に封じて虎賁将軍に任命しました。
 
これを聞いた匈奴単于(烏珠留単于が怒って言いました「先単于(先代の単于。呼韓邪単于が漢宣帝の恩を受けたので裏切れなかったが、今の天子は宣帝の子孫ではない。なぜ立つことができたのだ。」
単于は左骨都侯、右伊秩訾王呼盧訾および左賢王(楽も烏珠留単于の異母弟で、咸の同母弟に当たります。西漢成帝綏和元年・前8年参照)を派遣し、兵を率いて雲中益寿塞に進攻させました。吏民を大量に殺害します。
その後、単于は左右部都尉(『資治通鑑』胡三省注によると「左右大都尉」)や諸辺王に順に告げて入塞寇盗させました。大規模な場合は万余人、中規模なら数千人、少ない場合でも数百人が集団になります。
雁門と朔方の太守や都尉を殺し、奪った吏民や畜産は数え切れず、縁辺が虚耗(空虚衰敗)しました。
 
当時は新の諸将が辺境にいましたが、大衆(大軍)が集結していないため、匈奴に出撃できませんでした。
討濊将軍尤が王莽を諫めて言いました「臣が聞くに、匈奴が害を為すのは、従来(由来)を久しくしますが、上世(上古)に必征の事があったとは聞いたことがありません。後世の三家である周漢がこれを征しましたが、皆、上策を得た者はいませんでした。周が得たのは中策、漢が得たのは下策で、秦は無策だったのです。
周宣王の時、獫狁が内侵して涇陽に至ったので、将に命じてこれを征しましたが、境(国境)に至って還りました。戎狄の侵を蟁蝱(蚊や虻)のように見なしたので、駆逐しただけだったのです。そのため、天下が明(英明)を称えました。これが中策です。漢武帝は将を選んで兵を鍛え、携帯する物資を少なくして食糧を軽くし(約齎軽糧)、遠戍(辺境の城塁)から深入りしました。確かに克獲の功(戦勝して戦果を得る功績)がありましたが、胡匈奴はいつもこれに報いました(反撃しました)。兵を連ねて禍を結ぶこと三十余年にわたり、中国が罷耗(疲弊消耗)したものの、匈奴も創艾(懲罰を得て懼れること)したので、天下は武武帝と称しました。これは下策です。秦始皇は小恥を忍ばず民力を軽んじ(軽率に民力を使い)、長城の固を築いて長さを万里に及ぼしました(延袤万里)。転輸の行(輸送の行列)は負海(沿海)から始まり、疆境(国境。境界)が完成した時には中国の内部が枯竭し、その結果、社稷を喪失しました。これは無策です。
今、天下は陽九の厄(奇数を陽数といい、陽数の最後は九になります。これを「陽九」といいます。「陽九」は「災厄」を意味します)に遭い、連年、飢饉が続いており、西北の辺境が最も甚だしくなっているのに、三十万の衆を動員し、三百日の食糧を準備することになりました。東は海や代(『資治通鑑』胡三省注によると「代」は「岱」で岱山を指します)から集め、南は江淮から取り、こうしてやっと(物資が)備わります。その道里(道程)を計ると、一年経ってもまだ集合せず、(その間)兵で先に至った者は露天で集まって住み(聚居暴露)、軍が疲労して器具が破損し(師老械弊)、使えない状態になります(勢不可用)。これは第一の難です。辺境が既に空虚になったら、軍糧を奉じることができなくなり、内地の郡国から調達しても供給が追いつきません(不相及属)。これが第二の難です。一人当たりの三百日の食糧を計算すると、糒(乾飯)十八斛を必要とし、牛の力を使わなければ運べません(非牛力不能勝)。しかし牛も自分の食糧を携帯しているので、二十斛を加えなければならず、更に重くなります。胡地は沙鹵(塩分が多い砂地)で、多くの地で水草が欠乏しているので、往事を元に推測すると、軍が出て百日も満たずに牛が必ず物故(死亡)し尽くし、余った食糧がまだ多数残っていても、人ではそれを背負えません。これが第三の難です。胡地は秋冬が甚だ寒く、春夏は風が甚だ強いので、釜鍑(鍑は口が大きい釜です)薪炭を多く携帯しなければなりませんが、重くて運べません(重不可勝)。糒を食べて水を飲み、こうして四時(四季)を過ごしたら、師(軍)には疾疫の憂があります。前世が胡を討伐する時に百日を越えなかったのは、久しいことを欲しなかったのではなく、勢力(情勢と力)によってそうできなかったのです。これが第四の難です。輜重を自ら携帯したら、軽鋭の者が少なくなるので疾行(急行)できず、虜がゆっくり遁逃しても、追いつかなくなります(勢不能及)。幸い虜に遭遇しても、輜重が足をひっぱります(又累輜重)。もし険阻な地に遭って銜尾が相隨しているところを(「銜」は馬の口につける道具で「尾」は馬の尾です。道が狭いため前後一列になって行軍するという意味です)、虜が前後を遮って邀撃したら、その危険は測り知れません(危殆不測)。これが第五の難です。
大いに民力を用いても功が必ず立つとは限らないので、臣は伏してこれを憂います。今既に兵を発したので、先に至った者を放つべきです。臣尤等に深入霆撃(猛撃)を命じ、胡虜を創艾(懲罰によって懼れること)させてください。」
王莽は厳尤の言を聞かず、今までと同じように兵と食糧を辺境に運びました。そのため天下が騷動しました。
 
匈奴の咸は王莽から孝単于の号を受けましたが、塞から駆け出して単于庭に帰り、脅迫されたことを詳しく単于に報告しました。
単于は咸を於栗置支侯(または「於粟置支侯」)にしました。匈奴の賎官です。
 
暫くして順単于助が長安で病死すると、王莽は助の代わりに登(咸の子、助の兄弟)を順単于にしました。順単于長安の邸に留められます。
 
辺境の諸将が大軍の集結を待っている間、辺境では吏士が放縦しました。しかも内郡は徴発に憂いていたため、民が城郭を棄てて流亡し、盗賊になりました。并州、平州が最もひどくなります并州は漢が置いた十三州の一つです。雲中は并州に属します。平州は十三州に含まれません。『資治通鑑』胡三省注は「当時はまだ平州がなく、東漢末に公孫度が自ら平州牧を号し、魏が始めて幽州を分けて平州を置いた。『平』の字は誤りである」としています。あるいは王莽が新設した州かもしれません)
 
これ以前に王莽は七公(四輔と三公)六卿(羲和作士秩宗典楽共工予虞)の号に全て将軍を兼ねさせました。
 
著武将軍逯並等を名都(拠点となる都市)に派遣して鎮守させ、中郎将と繡衣執法それぞれ五十五人を分けて縁辺の大郡を鎮守させました。彼等は奸悪狡猾で妄りに兵器を弄ぶ者(大姦猾擅弄兵者)を監督するのが任務でしたが、逆にこれを機会にして外で姦悪を行い、州郡を混乱させ、貨賂で市を為し(市の売買のように賄賂を公然と行い)、百姓を侵漁(侵犯)しました。
王莽が書を下して言いました「虜知(烏珠留単于の罪が夷滅(族滅)に当たるので、猛将を派遣して十二部に分け、同時に出撃させ、一挙してこれを決絶することにした。内(朝廷)に司命軍正を置き、外(軍)に軍監十二人を設けたのは、誠に命を奉じない者を司り(管理し)、軍人を全て正しくさせようと欲したからである。しかし今はそうなっていない。それぞれが権勢を為し、良民を恐猲(恐喝)し、妄りに人の頸(首)を封じ、銭を得てやっとそれを除いている(権勢を持った臣が法を利用して良民を恐喝し、首に刑具を繋げて奴隷にしている。民は金銭を払わなければ赦されない)。毒蠚(毒害。禍患)が並んで起こり、農民が離散している。司監(司命軍正と軍監)がこのようで、職を全うしていると言えるか(可謂称不)。今から後において、敢えてこれを犯す者は全て捕繫(逮捕)し、その名を報告せよ。」
しかし吏士の放縦は変わりませんでした。
 
北辺は西漢宣帝以来、数世にわたって煙火の警(烽火)を見たことがなく、人民が熾盛(旺盛。繁盛。繁茂)し、牛馬が野を満たしていました。しかし王莽が匈奴を攪乱してからは匈奴と搆難(仇怨を結ぶこと)したため、辺民の死亡や係獲(捕虜)によって数年の間で北辺が虚空になり、野に骨が曝されました。
 
 
 
次回に続きます。