新更始時代15 新王莽(十五) 龔勝 11年(2)

今回は新王莽始建国三年の続きです。
 
[] 『漢書王莽伝中(巻九十九中)』と『資治通鑑』からです。
太師王舜は王莽が帝位を簒奪してから動悸を患っていました。
病状がしだいに悪化してついに死亡します。
 
王莽が言いました「昔、斉太公は淑徳(美徳)を累世して(代々伝えて)周氏の太師となった。これは予が監(鑑)とするところだ。よって王舜の子王延に父爵を襲わせ、安新公とする。王延の弟である襃新侯王匡を太師将軍とし、永く新室の輔(補佐)とする。」
 
[] 『漢書王莽伝中(巻九十九中)』と『資治通鑑』からです。
王莽が太子王臨のために師と友を各四人置くことにしました。秩は大夫と同じです。
元大司徒馬宮を師疑に、元少府宗伯鳳を傅丞に、博士袁聖を阿輔に、京兆尹王嘉を保拂にしました。これが四師です。
尚書唐林を胥附に、博士李充を犇走に、諫大夫趙襄を先後に、中郎将廉丹を禦侮にしました。これが四友です。
また、師友祭酒(師友の長)および侍中、諫議、六経祭酒を各一人置くことにしました。合わせて九祭酒といい(六経祭酒は六人います)、秩は上卿と同等です。
琅邪の左咸が『春秋』を講じる祭酒に、潁川の満昌が『詩』を講じる祭酒に、長安の国由が『易』を講じる祭酒に、平陽の唐昌が『書尚書』を講じる祭酒に、沛郡の陳咸が『礼』を講じる祭酒に、崔発が『楽』を講じる祭酒に任命されました。
 
王莽は謁者に璽書、印綬、安車、駟馬を持たせて楚国の龔勝を迎えるために派遣しました。龔勝の家で太子師友祭酒に任命しようとします。
使者(謁者)は郡太守、県長吏、三老、官属、行義、諸生千人以上と共に龔勝の里に入って詔を伝えました。
龔勝は楚人ですが、どこの県の出身かはわかりません。『資治通鑑』胡三省注によると、県の令尉を長吏といいます。「行義」は郷邑で義行がある人、「諸生」は学徒です。
 
使者は龔勝に出迎えさせようとし、久しく門の外で立ったまま待ちました。
しかし龔勝は病いが重いと称し、寝床を室内の戸の西側、南の窓の下に置き(床が部屋の南側にあるので、使者は部屋の北に立って南面することになります)、頭を東に向け、(病服の上に)朝服と拖紳(大帯)を加えて使者を待ちました。
使者は璽書と印綬を持ち、安車と駟馬を屋敷の中に置き、前に進んで龔勝に言いました「聖朝は君を忘れたことがなく、制作(制度)がまだ定まっていないので、君が政を為すのを待っている。(君が)施行を欲する所を聞いて(君の治世の道を聞いて)、海内を安んじさせたい(思聞所欲施行,以安海内)。」
龔勝が答えました「(私は)かねてから暗愚(素愚)なうえ、年老被病(老齢と病)を加えたので、命は朝夕にあり(朝夕の寿命しかなく)、使君(使者を尊敬した呼び方です)と道に上っても、必ず道路で死ぬことになります。万分の益もありません。」
使者は龔勝に強要して印綬を龔勝の身に附けましたが、龔勝は辞退し続けました。
 
使者が帰って報告しました「ちょうど盛夏の暑熱に当たり、龔勝は病のため気(気力。体力)が少ないので、秋涼を待って発するべきです。」
王莽は詔を発してこれを許可しました。
 
朝廷の使者は五日に一回、太守と共に龔勝の起居を問いに行き(挨拶に行き)、龔勝の二人の子や門人高暉等を通じてこう言いました「朝廷は虚心になって茅土の封(封侯)を準備し、君を待っています。疾病があるとはいえ、移動して伝舍に至り、行動する意思があることを示すべきです。こうすれば必ず子孫のために大業(『資治通鑑』胡三省注は「大業」を「封邑」と解説しています)を残すことができます。」
高暉等が使者の言葉を伝えました。
龔勝はいくら拒否してもその意見が聞かれることはないと知り、高暉等にこう言いました「わしは漢家の厚恩を受けたのに報いることがなかった。今年、既に老いたので、旦暮(朝夕)に地に入ることになる。誼(義)に則るなら、どうして一身をもって二姓に仕え、下で故主に会うことができるだろう。」
龔勝は棺斂喪事(葬礼)について戒めて言いました「衣服は身を包むだけにせよ。棺は衣服を包むだけにせよ(衣周於身棺周於衣)(一度埋葬したら)(風俗。風習)に従って我が冢(墓)を動かしたり、柏を植えたり、祠堂を造る必要はない。」
言い終わると再び口を開くことがなくなり、飲食もせず、十四日後に死にました。七十九歳でした。
 
当時、清名の士には琅邪の人紀逡、斉の人薛方、太原の人郇越と郇相(『資治通鑑』胡三省注によると、郇は荀と同音で、郇氏も荀氏も西周武王の後代といわれています)、沛の人唐林と唐尊がおり、経に明るく行動を正していたため、世に名が知られていました。
 
紀逡と両唐(唐林、唐尊)は王莽に仕えて封侯され、貴重を受けて公卿の位を歴任しました。
 
唐林はしばしば上書して過失を正すように諫め、忠直の節がありました。
しかし唐尊は破れた衣服と孔があいた履(靴)を身につけており(衣敝履空)、虚偽の名声を蒙りました。
 
郇相は王莽の太子四友となり、後に病死しました(上の記述では、太子四友は唐林、李充、趙襄、廉丹の四人です。交代があったようです)
太子王臨が使者を派遣して衣衾(死者が使う衣服と布団)を贈りましたが、郇相の子は棺の蓋を抑えて拒否し、こう言いました「死んだ父の遺言には『師友が贈る物は受け取ってはならない(師友之送勿有所受)』とありました。今、(父は)皇太子に対して友官を任されることができたので、これらを受け取らないのです。」
京師の人々はこれを称賛しました。
 
王莽は安車で薛方を迎えました。しかし薛方は使者を通して謝辞を伝え、こう言いました「堯舜が上にいたら、下には巣(巣父と許由。堯舜時代の隠者です)がいるものです。今、明主が唐(堯舜)の徳を興隆させているところなので、小臣は箕山の節を守ることを欲します。」
資治通鑑』胡三省注によると、許由は箕山に隠居しました。許由祠があります。
使者が帰って薛方が辞退したことを報告しました。王莽はその言に悦んで強制しませんでした。
 
以前、隃麋の人郭欽が南郡太守になり、杜陵の人蒋詡(『資治通鑑』胡三省注によると、周公の子が蒋に封じられて子孫が邑名を氏にしました)が兗州刺史になり、どちらも廉直で名声を得ていました。
王莽が居摂した時、二人とも病を理由に辞職し、郷里に帰りました。床に臥して外に出ず、最後は家で死にました。
 
哀帝と平帝の時代、沛国(『資治通鑑』胡三省注によると、沛が国になるのは中興東漢建国)以後のことです。当時はまだ沛郡です)の人陳咸が律令に精通していたため尚書になりました。
王莽が輔政して漢制の多くを改めた時、陳咸は心中でそれに反対しました。後に何武と鮑宣が死ぬと(平帝元始三年3年)、陳咸は嘆いてこう言いました「『易』は『兆しを見たら行動する。終日を待つ必要はない(見幾而作,不俟終日)』と言っている。私も去るべきだ(可以逝矣)。」
陳咸は引退を求めて職を去りました(乞骸骨去職)
 
王莽が簒奪すると、陳咸を召して掌寇大夫(『資治通鑑』胡三省注によると、作士に属すようです)に任命しようとしました。しかし陳咸は病と称して応じませんでした。
当時、三人の子陳参、陳欽、陳豊が官位に居ましたが、陳咸は三人とも官を解いて郷里に帰らせました(以上、新始建国元年9年にも述べました)
その後、門を閉じて外出せず、漢家の祖臘(「祖」は道祖神の祭祀、「臘」は年末の祭祀ですが、ここでは祭祀一般を指します)を行い続けました。
ある人がその理由を問うと、陳咸はこう答えました「私の先人がどうして王氏の臘(祭祀)を知っているのだ。」
陳咸は家中の律令に関する書文を集めて壁の中に隠しました(上の記述では沛郡の陳咸が『礼』を講じる祭酒に任命されています。別人なのか、任命されたのに拒否したのかはわかりません。陳咸が祭酒になったことを書いているのは『漢書王莽伝中』、陳咸が王莽の招きを断るのは『後漢書郭陳列伝(巻四十六)』なので、両者が参考にした史料が異なったために記述にも違いが生まれたのかもしれません。尚、西漢成帝綏和元年8年にも陳咸という人物が憂死しており、この陳咸も沛郡の人ですが、今回の陳咸とは明らかに別人です。しかしこれらを見ると沛の地方では陳咸という氏名が珍しくなかったのかもしれません)
 
この他にも、斉の人栗融、北海の人禽慶(『資治通鑑』胡三省注によると、墨子の弟子に禽滑釐がおり、また禽息(秦の大夫)がいました)や蘇章、山陽の人曹竟がおり、全て儒生で、官を去って王莽に仕えませんでした。
 
[] 『漢書王莽伝中(巻九十九中)』からです。
寧始将軍姚恂を免じて侍中崇禄侯孔永を寧始将軍にしました。
 
[] 『漢書王莽伝中(巻九十九中)』からです。
この年、池陽県に小人の影が現れました。身長は一尺余で、ある者は車馬に乗り、ある者は歩行し、万物(様々な器物)を持って操り、車馬や器物の大小は小人の影と釣り合っていたといいます。
三日後に消えました。
 
[] 『漢書王莽伝中(巻九十九中)』と『資治通鑑』からです。
瀕河郡で蝗が発生しました。
 
[] 『漢書王莽伝中(巻九十九中)』と『資治通鑑』からです。
魏郡で黄河が決壊し、清河以東の数郡で氾濫しました。
王莽は河が決壊して元城の冢墓(王莽の曾祖父王賀以下の冢墓が魏郡元城にあります)に被害が出ることを恐れましたが、決壊してから水は東に向かい、元城に水害の憂いが無くなったため、堤防を塞ぎませんでした。
 
 
 
次回に続きます。