新更始時代16 新王莽(十六) 封爵 12年(1)

今回は新王莽始建国四年です。二回に分けます。
 
新王莽始建国四年
壬申 12
 
[] 『漢書王莽伝中(巻九十九中)』と『資治通鑑』からです。
春二月、天下に大赦しました。
 
[] 『漢書王莽伝中(巻九十九中)』からです、
夏、赤気が東南から出て天を満たしました(竟天)
 
[] 『漢書王莽伝中(巻九十九中)』と『資治通鑑』からです。
厭難将軍陳歆と震狄将軍王巡が上書しました「虜匈奴の生口(捕虜)を捕えたので験問したところ、虜が辺境を犯しているのは全て孝単于咸の子角が為していると言いました。」
怒った王莽は諸蛮夷長安にいる諸外国の使者)を集め、孝単于咸の別の子(順単于長安にいます)長安の市で斬って諸蛮夷に対する見せしめにしました。
 
[] 『漢書王莽伝中(巻九十九中)』と『資治通鑑』からです。
大司馬甄邯が死にました。
寧始将軍孔永が大司馬に、侍中大贅侯輔が寧始将軍になります。
 
[] 『漢書王莽伝中(巻九十九中)』からです。
王莽はいつも外出する度に、事前に城中を捜査捜索させました。これを「横捜(全面的な捜索)」といいます。この月(原文「是月」。何月か分かりません)は横捜を五日間行いました。
 
尚、『漢書王莽伝中』の原文では、「捜」の字は「扌」の右が、上は「灾」、下は「又」です。「捜」の異体字です。ここでは「捜」に置き換えました。
 
[] 『漢書王莽伝中(巻九十九中)』と『資治通鑑』からです。
王莽が明堂に入り、諸侯に茅土を授けました。
「茅土」は茅で土を包んだもので、諸侯を封建した時に与えて封地の象徴としました。
 
王莽が書を下して言いました「予は不徳の身で聖祖を襲い(継承し)、万国の主になった。思うに黎元(民衆)を安んじるには、侯を建て(封侯して)、州を分けて域(境界)を正し、こうして風俗を美しくすることにかかっている。前代を追監(遡って鑑みること)して、綱とし紀とすると、『堯典』には十二州が記載され、衛(近畿の外の地)に五服(甸服、侯服、綏服、要服、荒服)がある。『詩』に記載された国は十五で(『資治通鑑』胡三省注によると、「周南、召南、衛、王、鄭、衛、魏、唐、秦、陳、鄶、曹、豳、魯、商」の十五国、または「周南、召南、邶、鄘、衛、王、鄭、斉、魏、唐、秦、陳、鄶、曹、豳」の十五国です)、九州を遍く覆っている徧九州)。『殷頌(商頌玄鳥)』には『九州を擁有する(奄有九有)』という言葉がある。『禹貢』の九州には并幽がなく、『周礼司馬』には徐梁がない。(このように)帝王が前後して改めたが、それぞれに理由があり、あるいはその事(事業。事跡)を明らかにし、あるいはその本(根本。重点)を大きくした。その義(意義。道理)は著名(顕著)で、その務(目的)は一つである(時代に応じて帝王が州や国の数を変えたが、その意義ははっきりしており、民を安んじるという共通した目的があった)
昔、周の二后(二王。文王と武王)が命を受けたので、東都と西都の居ができた。予が命を受けたのも、それ(周の二王)と同じはずだ。よって洛陽を新室東都とし、常安長安を新室西都とする。邦畿(王畿。王城と周辺の国。恐らくここでは西都と東都を指します)が連体し、それぞれに采任(『資治通鑑』胡三省注によると、男の食邑で畿内にあるものは「采」、女の食邑で畿内にあるものは「任」といいました。または、「采」は「采服」、「任」は「男服」の意味で、九服の一部です。九服というのは王畿の外の侯服、甸服、男服、采服、衛服、蛮服、夷服、鎮服、藩服を指します。いずれにしても、「采任」は京師周辺の食邑を指します)を持つ。州は『禹貢』に従って九とし(『資治通鑑』胡三省注によると、九州は冀梁州です)、爵は『周氏』に従って五とする(公・侯・伯・子・男です)。諸侯の員(定員)は千八百、附城(諸侯に属す小国。漢代の関内侯)の数もそれと同じとし、功がある者を待つ。
諸公は『一同(方百里の地を「一同」といいます)』とし、衆は万戸、土方百里百里四方の土地)を有す。侯伯は『一国』とし、衆戸五千、土方七十里を有す。子男は『一則』とし、衆戸二千五百、土方五十里を有す。附城の大きい者は食邑九成(『漢書』の注によると「十里で一成」のようですが、下では九成を「土方三十里」としているので、「成」は距離や面積の単位ではないのかもしれません)、衆戸九百、土方三十里を有し、九以下、二つずつ減らして(降殺以両)一成に到る。五差(附城の五つの等級。九成・七成・五成・三成・一成)を全て備えて合わせたら一則に当たる(九成から一成の戸数を合計すると二千五百戸になり、子男一則の衆戸二千五百に当たります)
今、既に茅土を受けた者は、公十四人、侯九十三人、伯二十一人、子百七十一人、男四百九十七人、合わせて七百九十六人になる。附城は千五百十一人、九族の女(娘)で任になった者は八十三人おり、更に漢氏の女孫元帝の孫娘)に当たる中山承礼君、遵徳君、脩義君(平帝の三人の妹・劉謁臣、劉哉皮、劉鬲子です。西漢平帝元始元年1年参照)を改めて任にする。また、十一公、九卿、十二大夫、二十四元士がいる。
(今、)諸国の邑采の場所を定め、侍中講礼大夫孔秉等と州部衆郡の地理図籍に曉知(熟知)している者を使って、共に寿成(元未央宮)朱鳥堂で校治(確認整理)させている。予はしばしば群公祭酒上卿と共に自ら聴視したので、既に全て通じている。徳を褒めて功を賞すのは、仁賢を明らかにするためである。九族を和睦させるのは、親親(親しむべき者を親しむこと。親族を大切にすること)を褒め称えるためである。予は怠ってはならないと常に思い(永惟匪解)、前人の事績を考察して(思稽前人)、これから黜陟(官位の昇降。賞罰)を明確にし(章黜陟)、好悪(善悪)を明らかにし、元元(民衆)を安んじるのである。」
 
しかし王莽はまだ図簿(地図と戸籍簿)が定まっていないという理由で諸侯に国邑を授けず、都内(『資治通鑑』胡三省注によると、「都内」は銭を蓄える府で、大司農に属します)から俸禄を受けとらせました。
月に銭数千が与えられましたが、諸侯は皆困乏し、庸作(人に雇われて働くこと)する者も現れました。
 
[] 『漢書王莽伝中(巻九十九中)』と『資治通鑑』からです。
王莽は性格が躁擾(性急。落ち着きがないこと)で、何も為さないということができませんでした。いつも事を興す時は、古代に憧れて時宜を考慮せず、(頻繁に指示を変えたため)結局、制度が定まりませんでした。吏はそれを利用して姦悪を行い、天下が憂いて嘆息し(天下謷謷)、多くの者が刑に陥ります。
 
中郎区博(区が姓です)が王莽を諫めて言いました「井田は確かに聖王の法ですが、それが廃されて久しくなります。周道が既に衰敗してから、民が(井田制に)従わなくなりました。秦は民の心に順じれば大利を獲得できると知ったので、廬井(井田)を滅ぼして阡陌(畦道。ここでは田を開墾することを意味します)を置き、そのおかげで諸夏(中華)の王となり、今に至るまで海内はまだその敝(秦の制度の弊害)を倦厭していません(民は井田制の廃止に共感しています)。今、民心に違えて、千載(千年)の絶迹(既に絶たれた形跡)を追復(回復)しようと欲していますが、たとえ堯舜が再び起きても、もし百年の漸(変化の過程)がなかったら、実行できないでしょう(堯舜がいたとしても長い時間をかけなければ回復できません)。天下が定まったばかりで、万民が新たに附いたところなので、誠に施行するべきではありません。」
 
王莽も民の愁怨を知ったため、詔を下してこう言いました「諸名食王田(「王田」は天下の田地です。「名食」は「名田」と「食田」で、「名田」は私有地、「食田」は諸侯の封地のように国から与えられた土地を指します)は、全て売ることができる。法によって拘束する必要はない。私的に庶人を売買する罪を犯した者も、暫くは一切治めない(裁かない)ことにする。」
 
しかし他の政事が道理に背いて混乱しており、刑罰も深刻(厳酷)で、賦斂も重くて頻繁に課されたため、人々の生活は今までと変わりませんでした。
 
 
 
次回に続きます。

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