新更始時代16 新王莽(十六) 封爵 12年(1)
今回は新王莽始建国四年です。二回に分けます。
新王莽始建国四年
壬申 12年
春二月、天下に大赦しました。
夏、赤気が東南から出て天を満たしました(竟天)。
大司馬・甄邯が死にました。
寧始将軍・孔永が大司馬に、侍中・大贅・侯輔が寧始将軍になります。
王莽はいつも外出する度に、事前に城中を捜査・捜索させました。これを「横捜(全面的な捜索)」といいます。この月(原文「是月」。何月か分かりません)は横捜を五日間行いました。
王莽が明堂に入り、諸侯に茅土を授けました。
「茅土」は茅で土を包んだもので、諸侯を封建した時に与えて封地の象徴としました。
王莽が書を下して言いました「予は不徳の身で聖祖を襲い(継承し)、万国の主になった。思うに黎元(民衆)を安んじるには、侯を建て(封侯して)、州を分けて域(境界)を正し、こうして風俗を美しくすることにかかっている。前代を追監(遡って鑑みること)して、綱とし紀とすると、『堯典』には十二州が記載され、衛(近畿の外の地)に五服(甸服、侯服、綏服、要服、荒服)がある。『詩』に記載された国は十五で(『資治通鑑』胡三省注によると、「周南、召南、衛、王、鄭、衛、魏、唐、秦、陳、鄶、曹、豳、魯、商」の十五国、または「周南、召南、邶、鄘、衛、王、鄭、斉、魏、唐、秦、陳、鄶、曹、豳」の十五国です)、九州を遍く覆っている(抪徧九州)。『殷頌(商頌・玄鳥)』には『九州を擁有する(奄有九有)』という言葉がある。『禹貢』の九州には并・幽がなく、『周礼・司馬』には徐・梁がない。(このように)帝王が前後して改めたが、それぞれに理由があり、あるいはその事(事業。事跡)を明らかにし、あるいはその本(根本。重点)を大きくした。その義(意義。道理)は著名(顕著)で、その務(目的)は一つである(時代に応じて帝王が州や国の数を変えたが、その意義ははっきりしており、民を安んじるという共通した目的があった)。
昔、周の二后(二王。文王と武王)が命を受けたので、東都と西都の居ができた。予が命を受けたのも、それ(周の二王)と同じはずだ。よって洛陽を新室東都とし、常安(長安)を新室西都とする。邦畿(王畿。王城と周辺の国。恐らくここでは西都と東都を指します)が連体し、それぞれに采任(『資治通鑑』胡三省注によると、男の食邑で畿内にあるものは「采」、女の食邑で畿内にあるものは「任」といいました。または、「采」は「采服」、「任」は「男服」の意味で、九服の一部です。九服というのは王畿の外の侯服、甸服、男服、采服、衛服、蛮服、夷服、鎮服、藩服を指します。いずれにしても、「采任」は京師周辺の食邑を指します)を持つ。州は『禹貢』に従って九とし(『資治通鑑』胡三省注によると、九州は冀・兗・青・徐・揚・豫・荊・雍・梁州です)、爵は『周氏』に従って五とする(公・侯・伯・子・男です)。諸侯の員(定員)は千八百、附城(諸侯に属す小国。漢代の関内侯)の数もそれと同じとし、功がある者を待つ。
諸公は『一同(方百里の地を「一同」といいます)』とし、衆は万戸、土方百里(百里四方の土地)を有す。侯・伯は『一国』とし、衆戸五千、土方七十里を有す。子・男は『一則』とし、衆戸二千五百、土方五十里を有す。附城の大きい者は食邑九成(『漢書』の注によると「十里で一成」のようですが、下では九成を「土方三十里」としているので、「成」は距離や面積の単位ではないのかもしれません)、衆戸九百、土方三十里を有し、九以下、二つずつ減らして(降殺以両)一成に到る。五差(附城の五つの等級。九成・七成・五成・三成・一成)を全て備えて合わせたら一則に当たる(九成から一成の戸数を合計すると二千五百戸になり、子・男一則の衆戸二千五百に当たります)。
今、既に茅土を受けた者は、公十四人、侯九十三人、伯二十一人、子百七十一人、男四百九十七人、合わせて七百九十六人になる。附城は千五百十一人、九族の女(娘)で任になった者は八十三人おり、更に漢氏の女孫(元帝の孫娘)に当たる中山・承礼君、遵徳君、脩義君(平帝の三人の妹・劉謁臣、劉哉皮、劉鬲子です。西漢平帝元始元年・1年参照)を改めて任にする。また、十一公、九卿、十二大夫、二十四元士がいる。
(今、)諸国の邑采の場所を定め、侍中・講礼大夫・孔秉等と州部衆郡の地理図籍に曉知(熟知)している者を使って、共に寿成(元未央宮)朱鳥堂で校治(確認整理)させている。予はしばしば群公・祭酒・上卿と共に自ら聴視したので、既に全て通じている。徳を褒めて功を賞すのは、仁賢を明らかにするためである。九族を和睦させるのは、親親(親しむべき者を親しむこと。親族を大切にすること)を褒め称えるためである。予は怠ってはならないと常に思い(永惟匪解)、前人の事績を考察して(思稽前人)、これから黜陟(官位の昇降。賞罰)を明確にし(章黜陟)、好悪(善悪)を明らかにし、元元(民衆)を安んじるのである。」
月に銭数千が与えられましたが、諸侯は皆困乏し、庸作(人に雇われて働くこと)する者も現れました。
王莽は性格が躁擾(性急。落ち着きがないこと)で、何も為さないということができませんでした。いつも事を興す時は、古代に憧れて時宜を考慮せず、(頻繁に指示を変えたため)結局、制度が定まりませんでした。吏はそれを利用して姦悪を行い、天下が憂いて嘆息し(天下謷謷)、多くの者が刑に陥ります。
中郎・区博(区が姓です)が王莽を諫めて言いました「井田は確かに聖王の法ですが、それが廃されて久しくなります。周道が既に衰敗してから、民が(井田制に)従わなくなりました。秦は民の心に順じれば大利を獲得できると知ったので、廬井(井田)を滅ぼして阡陌(畦道。ここでは田を開墾することを意味します)を置き、そのおかげで諸夏(中華)の王となり、今に至るまで海内はまだその敝(秦の制度の弊害)を倦厭していません(民は井田制の廃止に共感しています)。今、民心に違えて、千載(千年)の絶迹(既に絶たれた形跡)を追復(回復)しようと欲していますが、たとえ堯・舜が再び起きても、もし百年の漸(変化の過程)がなかったら、実行できないでしょう(堯・舜がいたとしても長い時間をかけなければ回復できません)。天下が定まったばかりで、万民が新たに附いたところなので、誠に施行するべきではありません。」
王莽も民の愁怨を知ったため、詔を下してこう言いました「諸名食王田(「王田」は天下の田地です。「名食」は「名田」と「食田」で、「名田」は私有地、「食田」は諸侯の封地のように国から与えられた土地を指します)は、全て売ることができる。法によって拘束する必要はない。私的に庶人を売買する罪を犯した者も、暫くは一切治めない(裁かない)ことにする。」
しかし他の政事が道理に背いて混乱しており、刑罰も深刻(厳酷)で、賦斂も重くて頻繁に課されたため、人々の生活は今までと変わりませんでした。
次回に続きます。