新更始時代17 新王莽(十七) 下句驪 12年(2)

今回は新王莽始建国四年の続きです。
 
[] 『漢書王莽伝中(巻九十九中)』と『資治通鑑』からです。
以前、五威将帥が西南夷に出て句町王を侯に改めました(新王莽始建国元年9年参照)
句町王邯は怨怒して新に服従しなくなります。
王莽は牂柯大尹周歆を促し、句町王邯を偽って殺させました。
牂柯大尹の名は、『漢書王莽伝中』では「周歆」ですが、『漢書九十五西南夷両粤朝鮮伝(巻九十五)』では「周欽」です。『資治通鑑』は『王莽伝』に従っています。
 
句町王邯の弟承が兵を起こして周歆を殺しました。
新の州郡が承を攻撃しましたが、服従させることはできませんでした。
 
[] 『漢書王莽伝中(巻九十九中)』と『資治通鑑』からです。
これ以前に王莽は高句驪高句麗の兵を発して匈奴を撃たせようとしました。
しかし高句驪が出征を欲しないため、郡が強迫しました。その結果、皆逃亡して塞外に出てしまいました。高句驪の人々は法を無視して辺境を侵すようになります。
遼西大尹田譚が追撃しましたが、逆に殺されました。
 
州郡は咎を高句驪侯騶に着せました。
しかし厳尤が上奏して言いました「貉人(『資治通鑑』胡三省注によると、「貉」は「貊」に通じます。句驪の一名を「貊」といいました)が法を犯すのは、騶(高句驪侯)から始まったのではありません。本当に(騶に)他心があるとしても、州郡に命じてとりあえずは慰安させるべきです。今、妄りに大罪を加えたら(猥被以大罪)、恐くそれが原因で畔(叛)し、夫餘の属にも必ず和す者が現れます。匈奴にまだ克っていないのに、夫餘、濊貉(貉人)も起ったら、これは大憂になります。」
しかし王莽は高句驪を慰撫しませんでした。そのためついに高句驪が反します。
王莽は詔を発して厳尤に攻撃を命じました。
厳尤は高句驪侯騶を誘い出し、到着したところを斬って首を長安に送りました。
 
喜んだ王莽が書を下して言いました「最近、命を下して猛将を派遣し、恭しく天罰を行わせ、虜知匈奴単于を誅滅して十二部に分け、あるいはその右臂を断たせ、あるいはその左腋を斬らせ、あるいはその胸腹を潰させ、あるいはその両脅(肋骨)を引き抜かせた(紬其両脅)。今年は東方で刑があることになっていたので(『漢書』の注によると、歳(恐らく太歳)が壬申にいる時は東方で刑があります)、貉を誅す部(軍。部隊)を先に放った。虜騶を捕斬し、東域を平定したから、虜知の殄滅(全滅)も漏刻(短時間)にある。これは天地群神社稷宗廟の佑助の福であり、公卿大夫士民が将率(将帥)虓虎(咆哮する虎。勇士)と同心になった力(おかげ)である(または公卿大夫士民が同心になって指揮をとり、勇猛に戦ったおかげである。原文「公卿大夫士民同心将率虓虎之力也」)予は甚だこれを嘉する。よって『高句驪』を改名して『下句驪』とし、天下に布告して皆に知らしめる。」
 
後漢書東夷列伝(巻八十五)』では、高句驪侯騶を斬って首を長安に送ってから、王莽が大いに喜んで「高句驪王」を「下句驪侯」に改めています。しかし王号が侯に改められたのは、新王莽始建国元年9年)に五威将帥を各地に派遣した時の事ではないかと思われます。
 
本文に戻ります。
この後、貉人がますます辺境を侵すようになり、こうして東(朝鮮)匈奴西南夷が全て混乱に陥りました。
 
しかし王莽は志が旺盛な時だったため、四夷は吞滅(征服)するに足りないと考え、稽古の事(古代の事績の考察)に専念しました。
王莽が再び書を下しました「伏して念じるに(恭しく伏して思うに)、予の皇始祖考虞帝は文祖から終わりを受け(原文「受終文祖」。「文祖」は堯の始祖です。文祖から伝わる帝王の位が堯の代で終わり、舜がそれを受けた(授かった)、という意味です。または「文祖廟の前で堯の終わりを受けた」とも解釈できます。「終わりを受ける(受終)」は「禅譲」を意味します)、璇璣玉衡(北斗七星。または天文を観測する道具)において七政(日月と五星。または四季と天人)を考察し(以斉七政)、その後、上帝を類(類祭。天と五帝を合わせて祭る儀式)し、六宗(六神。天地と東西南北、天地春夏秋冬、または水火雷風山沢など諸説があります。『後漢書光武帝紀上』建武元年の注によると、西漢平帝の時代に「六宗」を易卦の六子(乾坤天地が交わって生まれる六子の卦)の気にあたる「水沢」に定めました。東漢安帝が即位してから、六宗が「天地と四方の宗(神)」に改められました)を禋(禋祭。煙を立てて天を祭る儀式)し、山川を望秩(望祭。山川の祭祀)し、(祭祀が)群神に行き届き、五嶽を巡狩し、群后(四方の諸侯牧伯)四朝(四季の朝見)し、言を敷奏(報告)して功を明試(公けに試すこと。公開すること)した。
予は命を受けて真(帝位)に即き、建国五年(始建国五年)に至って既に五載(年)になる。陽九の阸(厄)は既に越え、百六の会(災難の周期)も既に過ぎた。歳(歳星。木星が寿星にあって、填(填星。土星が明堂二十八宿の心宿に当たります)にあり、倉龍が癸酉にあって、徳が中宮北極星が属す天の中枢です)にある(下述します)
晋が歳を掌ったことに鑑み(原文「観晋掌歳」。下述します)、亀策(卜筮)が従うべきことを告げた(亀策告従)
よって、この年の二月建寅の節(夏暦の正月です。春が始まる月で、万物の生育が始まります)に東(東は春を象徴する方角です)に巡狩(巡行)する。礼儀(礼制)調度(準備)を整えよ。」
 
歳星等に関して解説します。
この年の歳星は寿星にありました。寿星は二十八宿の角宿と亢宿です。この二宿は東方蒼龍七宿に属します。また、明堂の心宿も東方蒼龍に属します。この年は土徳を司る填星が明堂にいました。
ややこしいのですが、次の倉龍(蒼龍)は東方蒼龍ではなく、太歳の別名です。太歳は架空の星です。「倉龍が癸酉にいる」というのは、この年は癸酉の年に当たるという意味です(本年は壬申の年で、翌年が癸酉です。『漢書王莽伝中』も『資治通鑑』も王莽のこの発言を本年に書いていますが、実際は翌年初めの事だと思われます)
十干の「癸」は五行に当てはめると「陰の水徳」になります。水は土に止められるため、土を畏れます。十干で土徳に当たるのは「戊(陽の土)」と「己(陰の土)」です。これらの関係から五行では、「水は土を畏れるため、癸(陰の水徳)は戊(陽の土徳)の妃(妻)なる」といいます。中宮は天の中心で、五行の土徳は中央を司るので中宮に当たります。癸は土徳の妃なので中宮にいます。「倉龍が癸酉にいて徳が中宮にある」というのは、「本年は『癸酉』の年で、『癸』は土徳の中宮にいる。よって本年は土徳の年に当たり、土徳が興隆する」という意味になります。土徳は新王朝の徳です。
「晋が歳を掌ったことに鑑みた(観晋掌歳)」というのは、春秋時代晋文公の故事です。文公は歳星が寿星に至った年(前644年)に五鹿の地で土を手に入れ、その十二年後、再び歳星が寿星に至った年(前632年)に楚に大勝して覇者になりました。
王莽は本年も歳星が寿星におり、寿星が属す東方蒼龍の明堂に土星(土徳の星)がいるので、吉祥と考えました。
 
群公が上奏し、巡行のために吏民から人馬綿を募ることを請いました。また、十二の内郡国に馬を買わせ、帛四十五万匹を徴集して常安に運ばせることも請いました。
先に出発した者が後続を待つことなく、次々に物資が運ばれます(前後毋相須)
ところが半数を越えた頃に王莽が書を下しました「文母太后(王政君)の体が不安(不調)なので、一時中止して後の機会を待つ。」
 
この年(恐らく翌年初め)、十一公の号を改め、「新」を「心」にしました。後にまた「心」を「信」に変えました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
かつて王莽が安漢公だった頃、太皇太后(王政君)に媚びるために、郅支単于を斬った功績を口実にして元帝廟を高宗廟にし(平帝元始五年5年参照)太后の晏駕崩御後は礼に則って配食(同じ廟に入れて祭祀を行うこと)するように上奏しました。
しかし王莽が即位してからは、太后の号を新室文母に改めて漢との関係を絶たせました。元帝と一体にさせないために、孝元廟を墮壊(破壊)して文母太后のために廟を建てます。孝元廟故殿だけは残して文母篹食堂(「篹」は食品、食事の意味です)にしました。
完成後は、太后がまだ生きているため廟とは呼ばず、長寿宮と命名しました。
 
王莽が長寿宮で酒宴を開き、太后を招きました。
到着した太后は孝元廟が完全に破壊されている(廃徹塗地)のを見て、驚いて泣きながら言いました。「これら漢家の宗廟には全て神霊があります。あなたと何の関係があって壊したのですか(原文「與何治而壊之」。訳は『資治通鑑』胡三省注を参考にしました)。そもそも、もし鬼神が無知だとしたら(知覚がないのなら)、なぜ(私のために)廟を造る必要があるのですか(何用廟為)。もし知(知覚)があるのなら、私は人元帝の妃妾です。どうして帝の堂を辱めて、饋食(祭祀で献上する食物)を並べることができますか。」
太后が秘かに左右の者に言いました「この人は慢神(神を侮ること)が多すぎます。久しく祐(助け)を得られるでしょうか。」
酒宴は楽しめないまま終わりました。
 
王莽は帝位簒奪後、太后が怨恨していると知り、太后に媚びる方法を求めて全て試しました。しかし太后はますます不快になります。
王莽は漢家の黒貂を黄貂に変えました(『資治通鑑』胡三省注によると、侍中は貂皮を着ていました。黄色は土徳の色です)。また、漢の正朔(暦。正月)や伏臘(伏は暑気が盛んな時期、臘は十二月の祭祀です)の日を改めました。
しかし太后は自分の官属に黒貂を着させ、漢家の正月や臘祭の日になると太后だけで左右の者と向かい合って飲食しました太后だけで正月や臘祭を祝賀する宴を開きました)
 
 
 
次回に続きます。

新更始時代18 新王莽(十八) 烏累単于 13年