新更始時代17 新王莽(十七) 下句驪 12年(2)
今回は新王莽始建国四年の続きです。
王莽は牂柯大尹・周歆を促し、句町王・邯を偽って殺させました。
句町王・邯の弟・承が兵を起こして周歆を殺しました。
新の州郡が承を攻撃しましたが、服従させることはできませんでした。
しかし高句驪が出征を欲しないため、郡が強迫しました。その結果、皆逃亡して塞外に出てしまいました。高句驪の人々は法を無視して辺境を侵すようになります。
遼西大尹・田譚が追撃しましたが、逆に殺されました。
州郡は咎を高句驪侯・騶に着せました。
しかし厳尤が上奏して言いました「貉人(『資治通鑑』胡三省注によると、「貉」は「貊」に通じます。句驪の一名を「貊」といいました)が法を犯すのは、騶(高句驪侯)から始まったのではありません。本当に(騶に)他心があるとしても、州郡に命じてとりあえずは慰安させるべきです。今、妄りに大罪を加えたら(猥被以大罪)、恐くそれが原因で畔(叛)し、夫餘の属にも必ず和す者が現れます。匈奴にまだ克っていないのに、夫餘、濊貉(貉人)も起ったら、これは大憂になります。」
しかし王莽は高句驪を慰撫しませんでした。そのためついに高句驪が反します。
王莽は詔を発して厳尤に攻撃を命じました。
喜んだ王莽が書を下して言いました「最近、命を下して猛将を派遣し、恭しく天罰を行わせ、虜知(匈奴単于)を誅滅して十二部に分け、あるいはその右臂を断たせ、あるいはその左腋を斬らせ、あるいはその胸腹を潰させ、あるいはその両脅(肋骨)を引き抜かせた(紬其両脅)。今年は東方で刑があることになっていたので(『漢書』の注によると、歳(恐らく太歳)が壬申にいる時は東方で刑があります)、貉を誅す部(軍。部隊)を先に放った。虜騶を捕斬し、東域を平定したから、虜知の殄滅(全滅)も漏刻(短時間)にある。これは天地・群神・社稷・宗廟の佑助の福であり、公卿・大夫・士民が将率(将帥)・虓虎(咆哮する虎。勇士)と同心になった力(おかげ)である(または公卿・大夫・士民が同心になって指揮をとり、勇猛に戦ったおかげである。原文「公卿大夫士民同心将率虓虎之力也」)。予は甚だこれを嘉する。よって『高句驪』を改名して『下句驪』とし、天下に布告して皆に知らしめる。」
『後漢書・東夷列伝(巻八十五)』では、高句驪侯・騶を斬って首を長安に送ってから、王莽が大いに喜んで「高句驪王」を「下句驪侯」に改めています。しかし王号が侯に改められたのは、新王莽始建国元年(9年)に五威将帥を各地に派遣した時の事ではないかと思われます。
本文に戻ります。
しかし王莽は志が旺盛な時だったため、四夷は吞滅(征服)するに足りないと考え、稽古の事(古代の事績の考察)に専念しました。
王莽が再び書を下しました「伏して念じるに(恭しく伏して思うに)、予の皇始祖考虞帝は文祖から終わりを受け(原文「受終文祖」。「文祖」は堯の始祖です。文祖から伝わる帝王の位が堯の代で終わり、舜がそれを受けた(授かった)、という意味です。または「文祖廟の前で堯の終わりを受けた」とも解釈できます。「終わりを受ける(受終)」は「禅譲」を意味します)、璇璣玉衡(北斗七星。または天文を観測する道具)において七政(日月と五星。または四季と天・地・人)を考察し(以斉七政)、その後、上帝を類(類祭。天と五帝を合わせて祭る儀式)し、六宗(六神。天地と東西南北、天地春夏秋冬、または水火雷風山沢など諸説があります。『後漢書・光武帝紀上』の建武元年の注によると、西漢平帝の時代に「六宗」を易卦の六子(乾坤天地が交わって生まれる六子の卦)の気にあたる「水・火・雷・風・山・沢」に定めました。東漢安帝が即位してから、六宗が「天地と四方の宗(神)」に改められました)を禋(禋祭。煙を立てて天を祭る儀式)し、山川を望秩(望祭。山川の祭祀)し、(祭祀が)群神に行き届き、五嶽を巡狩し、群后(四方の諸侯・牧伯)が四朝(四季の朝見)し、言を敷奏(報告)して功を明試(公けに試すこと。公開すること)した。
予は命を受けて真(帝位)に即き、建国五年(始建国五年)に至って既に五載(年)になる。陽九の阸(厄)は既に越え、百六の会(災難の周期)も既に過ぎた。歳(歳星。木星)が寿星にあって、填(填星。土星)が明堂(二十八宿の心宿に当たります)にあり、倉龍が癸酉にあって、徳が中宮(北極星が属す天の中枢です)にある(下述します)。
晋が歳を掌ったことに鑑み(原文「観晋掌歳」。下述します)、亀策(卜筮)が従うべきことを告げた(亀策告従)。
よって、この年の二月建寅の節(夏暦の正月です。春が始まる月で、万物の生育が始まります)に東(東は春を象徴する方角です)に巡狩(巡行)する。礼儀(礼制)・調度(準備)を整えよ。」
歳星等に関して解説します。
この年の歳星は寿星にありました。寿星は二十八宿の角宿と亢宿です。この二宿は東方蒼龍七宿に属します。また、明堂の心宿も東方蒼龍に属します。この年は土徳を司る填星が明堂にいました。
ややこしいのですが、次の倉龍(蒼龍)は東方蒼龍ではなく、太歳の別名です。太歳は架空の星です。「倉龍が癸酉にいる」というのは、この年は癸酉の年に当たるという意味です(本年は壬申の年で、翌年が癸酉です。『漢書・王莽伝中』も『資治通鑑』も王莽のこの発言を本年に書いていますが、実際は翌年初めの事だと思われます)。
十干の「癸」は五行に当てはめると「陰の水徳」になります。水は土に止められるため、土を畏れます。十干で土徳に当たるのは「戊(陽の土)」と「己(陰の土)」です。これらの関係から五行では、「水は土を畏れるため、癸(陰の水徳)は戊(陽の土徳)の妃(妻)なる」といいます。中宮は天の中心で、五行の土徳は中央を司るので中宮に当たります。癸は土徳の妃なので中宮にいます。「倉龍が癸酉にいて徳が中宮にある」というのは、「本年は『癸酉』の年で、『癸』は土徳の中宮にいる。よって本年は土徳の年に当たり、土徳が興隆する」という意味になります。土徳は新王朝の徳です。
「晋が歳を掌ったことに鑑みた(観晋掌歳)」というのは、春秋時代・晋文公の故事です。文公は歳星が寿星に至った年(前644年)に五鹿の地で土を手に入れ、その十二年後、再び歳星が寿星に至った年(前632年)に楚に大勝して覇者になりました。
群公が上奏し、巡行のために吏民から人馬・布・帛・綿を募ることを請いました。また、十二の内郡国に馬を買わせ、帛四十五万匹を徴集して常安に運ばせることも請いました。
先に出発した者が後続を待つことなく、次々に物資が運ばれます(前後毋相須)。
この年(恐らく翌年初め)、十一公の号を改め、「新」を「心」にしました。後にまた「心」を「信」に変えました。
かつて王莽が安漢公だった頃、太皇太后(王政君)に媚びるために、郅支単于を斬った功績を口実にして元帝廟を高宗廟にし(平帝元始五年・5年参照)、太后の晏駕(崩御)後は礼に則って配食(同じ廟に入れて祭祀を行うこと)するように上奏しました。
しかし王莽が即位してからは、太后の号を新室文母に改めて漢との関係を絶たせました。元帝と一体にさせないために、孝元廟を墮壊(破壊)して文母太后のために廟を建てます。孝元廟故殿だけは残して文母篹食堂(「篹」は食品、食事の意味です)にしました。
王莽が長寿宮で酒宴を開き、太后を招きました。
到着した太后は孝元廟が完全に破壊されている(廃徹塗地)のを見て、驚いて泣きながら言いました。「これら漢家の宗廟には全て神霊があります。あなたと何の関係があって壊したのですか(原文「與何治而壊之」。訳は『資治通鑑』胡三省注を参考にしました)。そもそも、もし鬼神が無知だとしたら(知覚がないのなら)、なぜ(私のために)廟を造る必要があるのですか(何用廟為)。もし知(知覚)があるのなら、私は人(元帝)の妃妾です。どうして帝の堂を辱めて、饋食(祭祀で献上する食物)を並べることができますか。」
酒宴は楽しめないまま終わりました。
王莽は漢家の黒貂を黄貂に変えました(『資治通鑑』胡三省注によると、侍中は貂皮を着ていました。黄色は土徳の色です)。また、漢の正朔(暦。正月)や伏臘(伏は暑気が盛んな時期、臘は十二月の祭祀です)の日を改めました。
次回に続きます。