新更始時代18 新王莽(十八) 烏累単于 13年

今回は新王莽始建国五年です。
 
新王莽始建国五年
癸酉 13
 
[] 『漢書王莽伝中(巻九十九中)』と『資治通鑑』からです。
春二月、文母皇太后(王政君)が死にました。八十四歳です。
王莽は太后を渭陵の元帝と合葬しましたが、間に溝を掘って隔絶しました。
 
長安太后の廟を建て(前年述べました)、新室は代々太后の廟に祭祀を献じることにしました。元帝を配食(同じ廟に入れて祭ること)しましたが、牌位は太后の牀(神棚)の下に置きます。
王莽は太后のために三年の喪に服しました(三年間喪服を着ました)
 
[] 『漢書王莽伝中(巻九十九中)』からです。
大司馬孔永が引退を乞いました(乞骸骨)
王莽は安車駟馬を下賜し、特進として朝位に就かせることにしました(特進として朝会に参加させました)
同風侯逯並を大司馬にしました。
 
[] 『漢書王莽伝中(巻九十九中)』からです。
この頃、王莽が雒陽に都を建てようとしていることを長安の民が聞きました。人々は室宅が壊れても補修しなくなり、家を撤壊する者もいました(遷都に抗議する姿勢のようです)
王莽が言いました「玄龍の石文に『帝徳を定め、雒陽を国とする(定帝徳,国雒陽)』と書かれていた。符命は著明(顕著)であり、欽奉(敬奉)しないわけにはいかない。始建国八年は歳(歳星)星紀に纏わり(歳星が星紀におり)雒陽の都にある。よって(遷都は天命であり、逆らえないので)謹んで常安の都を繕脩(修繕)し、壊敗させてはならない。敢えて犯す者は全て名を報告し、その罪を請え(その罪を問え。原文「請其罪」)。」
 
[] 『漢書・王莽伝中(巻九十九中)』と『資治通鑑』からです。
烏孫の大・小昆彌が使者を送って貢物を献上しました。大昆彌は中国の外孫に当たり、小昆彌は胡匈奴の婦人が生んだ子です烏孫の大昆彌は恐らく伊秩靡で、漢の公主・劉解憂の孫です(成帝元延二年・前11年参照)。小昆彌はかつて烏孫肥王・翁帰靡と胡婦匈奴人の妻)の間に生まれた烏就屠が立てられました(宣帝甘露元年・前53年)。その後、子の拊離、拊離の子・安日、安日の弟・末振将、安日の子・安犂靡と継ぎました。当時の小昆彌は安犂靡だと思われます)
 
王莽は烏孫国の多くの人が小昆彌に附いており、しかも匈奴や諸辺境が同時に侵攻しているのを見て、烏孫の人心を得ようと欲しました。
そこで、使者を派遣して小昆彌の使者を招き、大昆彌の使者の上に坐らせます。
 
すると、師友祭酒・満昌が王莽の使者を弾劾する上奏をしました「夷狄は中国に礼誼(礼義)があるとみなしているので、詘(屈)して服従しているのです。大昆彌は君です。今、臣の使者を君の使者の上に序すのは(配すのは)、夷狄を有す方法ではありません。奉使(王莽の使者)は大不敬です。」
王莽は怒って満昌を免官しました。
 
資治通鑑』胡三省注によると、王莽は龔勝を師友祭酒に任命しようとしましたが(前年参照)、龔勝が拒否したため満昌に代えました。
「師友祭酒」を『漢書・王莽伝中』は「保成師友祭酒」と書いています。「保成」は号のようです。
 
[] 『漢書・王莽伝中(巻九十九中)』と『資治通鑑』からです。
王莽が繰り返し恩信を失ったため、西域諸国が新から離れました。まず焉耆が叛して西域都護・但欽を殺します。
ここから西域も瓦解しました。
 
資治通鑑』胡三省注によると、焉耆国は員渠城を都とし、長安から七千三百里離れていました。
 
[] 『漢書・王莽伝中(巻九十九中)』と『資治通鑑』からです。
十一月、彗星が現れました。
二十余日後に見えなくなりました。
 
[] 『漢書・王莽伝中(巻九十九中)』と『資治通鑑』からです。
銅・炭を携帯する罪を犯す者が多かったため、この年、携帯を禁止する法(新王莽始建国元年・9年参照)を廃しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
匈奴烏珠留単于が死に、右骨都侯・須卜当が用事大臣(政事を行う大臣)になりました。須卜当は王昭君復株累単于(呼韓邪単于の子)の娘に当たる伊墨居次・云の壻です。
資治通鑑』胡三省注によると、匈奴の須卜氏は獄訟を担当しました。
 
伊墨居次・云は常に中国との和親を欲しており、また、かねてから伊栗置支侯・咸(または「於粟置支侯」。元孝単于です。新王莽始建国三年・11年参照)と仲が善かったため(『資治通鑑』胡三省注によると、咸は云の季父(最小の叔父)に当たります)、咸がかつて王莽に拝されたのを見て単于に立てられたことを考慮して)、咸を烏累若鞮単于に立てました。
烏累単于・咸は即位すると弟・輿を右谷蠡王にしました。
 
烏珠留単于の子・蘇屠胡は元は左賢王でしたが、後に護于に改めました。
資治通鑑』胡三省注によると、烏珠留単于は左賢王がしばしば死んだため、不祥と考えて左賢王を護于に改名しました。
 
本来、烏珠留単于は護于・蘇屠胡に国を伝えるつもりでしたが、烏累単于・咸が即位しました。
烏累単于は烏珠留単于が自分の号を落としたことを怨んでいたため(咸は王莽によって単于に立てられたため、左犂汙王から於粟置支侯に落とされました)、護于の位を落として左屠耆王にしました。
 
[] 『漢書・王莽伝中(巻九十九中)』からです。
翌年、天鳳改元することにしました。
 
 
 
次回に続きます。

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