新更始時代18 新王莽(十八) 烏累単于 13年
今回は新王莽始建国五年です。
新王莽始建国五年
癸酉 13年
大司馬・孔永が引退を乞いました(乞骸骨)。
王莽は安車・駟馬を下賜し、特進として朝位に就かせることにしました(特進として朝会に参加させました)。
同風侯・逯並を大司馬にしました。
王莽が言いました「玄龍の石文に『帝徳を定め、雒陽を国とする(定帝徳,国雒陽)』と書かれていた。符命は著明(顕著)であり、欽奉(敬奉)しないわけにはいかない。始建国八年は歳(歳星)が星紀に纏わり(歳星が星紀におり)、雒陽の都にある。よって(遷都は天命であり、逆らえないので)謹んで常安の都を繕脩(修繕)し、壊敗させてはならない。敢えて犯す者は全て名を報告し、その罪を請え(その罪を問え。原文「請其罪」)。」
烏孫の大・小昆彌が使者を送って貢物を献上しました。大昆彌は中国の外孫に当たり、小昆彌は胡(匈奴)の婦人が生んだ子です(烏孫の大昆彌は恐らく伊秩靡で、漢の公主・劉解憂の孫です(成帝元延二年・前11年参照)。小昆彌はかつて烏孫肥王・翁帰靡と胡婦(匈奴人の妻)の間に生まれた烏就屠が立てられました(宣帝甘露元年・前53年)。その後、子の拊離、拊離の子・安日、安日の弟・末振将、安日の子・安犂靡と継ぎました。当時の小昆彌は安犂靡だと思われます)。
そこで、使者を派遣して小昆彌の使者を招き、大昆彌の使者の上に坐らせます。
すると、師友祭酒・満昌が王莽の使者を弾劾する上奏をしました「夷狄は中国に礼誼(礼義)があるとみなしているので、詘(屈)して服従しているのです。大昆彌は君です。今、臣の使者を君の使者の上に序すのは(配すのは)、夷狄を有す方法ではありません。奉使(王莽の使者)は大不敬です。」
王莽は怒って満昌を免官しました。
「師友祭酒」を『漢書・王莽伝中』は「保成師友祭酒」と書いています。「保成」は号のようです。
王莽が繰り返し恩信を失ったため、西域諸国が新から離れました。まず焉耆が叛して西域都護・但欽を殺します。
ここから西域も瓦解しました。
十一月、彗星が現れました。
二十余日後に見えなくなりました。
銅・炭を携帯する罪を犯す者が多かったため、この年、携帯を禁止する法(新王莽始建国元年・9年参照)を廃しました。
伊墨居次・云は常に中国との和親を欲しており、また、かねてから伊栗置支侯・咸(または「於粟置支侯」。元孝単于です。新王莽始建国三年・11年参照)と仲が善かったため(『資治通鑑』胡三省注によると、咸は云の季父(最小の叔父)に当たります)、咸がかつて王莽に拝されたのを見て(単于に立てられたことを考慮して)、咸を烏累若鞮単于に立てました。
烏累単于・咸は即位すると弟・輿を右谷蠡王にしました。
烏珠留単于の子・蘇屠胡は元は左賢王でしたが、後に護于に改めました。
次回に続きます。