新更始時代20 新王莽(二十) 行政の混乱 14年(2)

今回は新王莽天鳳元年の続きです。
 
[] 『漢書王莽伝中(巻九十九中)』と『資治通鑑』からです。
王莽が『周官』『王制』の文に基いて官制を定めました。
 
卒正、連率、大尹を置きました。職責は太守と同等です。
資治通鑑』胡三省注によると、三十国で卒を形成し、卒には正がいます。十国を連とし、連には率がいます。大尹は新王莽始建国元年9年)に置かれました。
その下に属令、属長を置きました。職責は都尉と同等です(「都尉と同等」というのは『漢書王莽伝中』の記述です。『資治通鑑』にはありません。新王莽始建国元年・9年に「郡太守を大尹に、都尉を大尉に、県令県長を宰にした」という記述がありました。都尉が大尉に改められ、今回、更に属令と属長を置いたようです
 
州牧、部監二十五人を置きました。見礼(皇帝に謁見する時の礼)は三公と同等にし、監の位は上大夫で、それぞれ五郡を主管します(州牧と部監の関係はよくわかりません。『前漢孝平皇帝紀(巻第三十)』では「州牧を置いた。礼は三公と同等である。郡二十五人を置いた。位は上大夫で、それぞれ五郡を主管する」と書いています)
 
公氏(公爵)が牧になり、侯氏(侯爵)が卒正になり、伯氏(伯爵)が連率になり、子氏(子爵)が属令になり、男氏(男爵)が属長になり、皆その官を世襲します。爵がない者が尹になりました。
 
長安城周辺を六郷に分けてそれぞれに帥を一人置きました。
また、三輔を分けて六尉郡にしました。
漢書王莽伝中』顔師古注によると、渭城、安陵以西で北は邑、義渠に至る十県は京尉大夫府に属しました。官府は故長安寺です。高陵以北の十県は師尉大夫府に属しました。官府は故廷尉府です。新豊以東で湖に至る十県は翊尉大夫府に属しました。官府は城東です。霸陵、杜陵および東は藍田、西は武功、郁夷に至る十県は光尉大夫府に属しました。官府は城南です。茂陵、槐里以西で汧に至る十県は扶尉大夫府に属しました。官府は城西です。長陵、池陽以北で雲陽、祋に至る十県は列尉大夫府(または「烈尉大夫府」)に属しました。官府は城北です。
 
河東、河内、弘農、河南、潁川、南陽を六隊郡にし、大夫を置きました。職責は太守と同等です。また、属正を置きました。職責は都尉と同等です。
資治通鑑』胡三省注は、ここにある「河南」は「滎陽」の誤りとしています。王莽が置いた六隊郡は「河東兆隊」「河内後隊」「弘農右隊」「滎陽祈隊」「潁川左隊」「南陽前隊」です。河南についてはこの下で触れます。
 
河南大尹を改名して保忠信卿とし、河南に属す県を増やして三十に満たさせました(『漢書地理志上』によると、漢代の河南には二十二県が属していました。河南は洛陽が属すので、特別な扱いにしたようです)。六郊州長を置いて一人に五県を主管させます。
 
その他の官名も全て改めました。大郡で五つに分割された場所もあります。
「亭」を名称に使った郡県は三百六十あり、符命の文に応じさせました。
縁辺(辺境)にも竟尉を置きました。「竟」は「国境」です。男爵を任命しました。
 
諸侯国の閒田(所有者がいない土地)は黜陟増減に使いました(功があったら閒田から土地を下賜し、罪があったら閒田に返しました)
 
王莽が書を下して言いました「常安西都を六郷といい、衆県を六尉という。義陽(洛陽)東都を六州といい、衆県を六隊という。粟米の内を内郡といい(『漢書』顔師古注によると、王城から四百里以内は粟を納め、五百里は米を納めました。どちらも甸服に属します。甸服は九服の一つで、王畿の外は侯服、甸服、男服、采服、衛服、蛮服、夷服、鎮服、藩服に分けられました)、その外を近郡という。鄣徼(城塁)がある地を辺郡という。合わせて百二十五郡である。九州の内には県二千二百三がある(『漢書地理志下』によると、西漢平帝時代は郡国百三、県邑千三百十四、道三十二、侯国二百四十一がありました。王莽によって大増されました)。公(侯爵)を甸服とし、これを『惟城』とする。侯服にいる諸(諸侯)は、これを『惟寧』とする。采任にいる諸侯は(「采」は「采服」、「任」は「男服」の意味です)、これを『惟翰』とする。賓服にいる者は(『漢書』顔師古注によると、「賓服」は「衛服」に当たります。諸侯が賓服服従したという意味です)、これを『惟屏』とする。文教を考え(揆文教)、武衛を奮う地にいる者は、これを『惟垣』とする。九州の外は、これを『惟藩』とする。それぞれがその方(地方。または方位)をもって称と為し(「それぞれが各地の地名を使い」または「それぞれがその地の方角を名称とし」。原文「各以其方為称」)、総合して万国とする。」
漢書』顔師古注によると、「惟城」「惟寧」「惟翰」「惟屏」「惟垣」「惟藩」は『詩経大雅板』の「惟藩」「惟垣」「惟屏」「惟翰」「惟寧」「惟城」が元になっています。これを六服といいます。
「藩」「垣」「屏」は壁垣の意味、「翰」は「幹」に通じて要所の意味、「寧」は安寧の意味です。
 
新代の地名はこの後も毎年変更が加えられ、一郡で五回も改名しながら最後は結局初めの名称に戻った場所もありました。
吏民は全てを記憶できず、詔書を下すたびに旧名に繋げ、例えば「陳留大尹、太尉に制詔する。益歳(『漢書』の注によると陳留圉県です。王莽が益歳県に改名しました)以南を新平に附ける。新平は故淮陽である。雍丘以東を陳定に附ける。陳定は故梁郡である。封丘以東を治亭に附ける。治亭は故東郡である。陳留以西を祈隧に附ける。祈隧は故滎陽である。陳留はこの後、郡がなくなるので、大尹、大尉は皆、行在所(皇帝がいる場所)に赴け」と書きました。
王莽が号令を変える様子はいつもこのようでした。
 
 
 
次回に続きます。