新更始時代21 新王莽(二十一) 匈奴関係 14年(3)
今回で新王莽天鳳元年が終わります。
天下の小学(初級学校)に命じ、「甲子」の代わりに「戊子」を六旬(六十日)の筆頭にさせました。
本来、干支の最初は「甲子」ですが、王莽は土徳だったため、土に属す「戊」を十干の最初とし、「戊子」を「甲子」の代わりにしました。
冠礼を行うには戊子を元日(吉日)とし、昏(婚礼)は戊寅の旬を忌日とします。
戊寅は支(寅)が干(戊)に克つとされたため、忌日になりました。
しかし百姓の多くは従いませんでした。
単于は西河虎猛県の制虜塞に使者を送りました。
王莽は特別に「焚如の刑」を作って陳良等を城北で焼き殺しました。吏民にそれを観覧させます。
「焚如」は炎が盛んなこと、または火災や戦事を意味します。
『資治通鑑』胡三省注によると、『易』に「焚如、死如、棄如」という語があり、「焚如(焼かれること)、死如(死ぬこと)、棄如(棄てられること)の者は不孝の子であり、父母を養わず、朋友を許容しないので、これを焼殺して棄てる」と解説しています。ここから王莽は「焚如」を刑名にしました。
縁辺(辺境)を大飢饉が襲いました。
諫大夫・如普が辺境の兵を巡行し、帰ってこう言いました「軍士が久しく塞苦の地に駐屯していますが、辺郡は互いに供給する物資がありません(原文「無以相贍」。「贍」は財物を供給するという意味です)。今、単于が和したところなので、これを機に罷兵(撤兵)するべきです。」
校尉・韓威が進み出て言いました「新室の威をもってすれば、胡虜を呑み込むのは口中の蚤蝨(ノミやシラミ)と差がありません(口に蚤蝨が入ったのと同じです)。臣は勇敢な士五千人を得ることを願います。一斗の食粮も携帯せず、飢えたら虜肉を食い、渇いたらその血を飲んで、横行することができます。」
王莽は韓威の豪壮な言を称えて将軍にしましたが、如普の言を採用して辺境の諸将を呼び戻しました。
陳欽等十八人の任務を解き、四関填都尉(四関鎮都尉。『資治通鑑』胡三省注によると、王莽が置いた四関将軍にはそれぞれ鎮都尉がおり、屯兵を指揮しました。四関将軍は前後左右の諸将軍を指します。新王莽始建国元年・9年参照)の諸屯兵を廃止します。
また、使者が帰ってから子の登が既に殺されたことを知り、新を怨恨しました。
王莽の使者が単于を譴責すると、単于はいつもこう答えました「烏桓と匈奴の無状の黠民(素行が悪い狡猾な民)が共に寇となって入塞しています。これは中国に盗賊がいるようなものです(中国に盗賊がいるのと同じです)。咸(私)は即位して持国したばかりなので、威信がまだ足りません(威信尚浅)。しかし尽力して禁止しており、二心を持つことはありません。」
王莽は再び軍を発して駐屯させました。
そのため辺民が内郡に流入し、人の奴婢になりました。
王莽は吏民が辺民を占有することを禁止し、犯した者は弃市に処しました。
寧始将軍・侯輔を免じ、講易祭酒・戴参を寧始将軍にしました。
『漢書・食貨志下』によると、「貨布」は長さ二寸五分、広さ一寸で、首(頭)の部分は長さ八分余、広さ八分ありました。圜好(貨幣の円孔)は直径二分半で、下が二つに分かれており、その部分は長さ八分、両足の間は二分あります。右側の足には「貨」、左側には「布」と刻まれており、重さ二十五銖で、「貨泉」二十五枚に値します。
「貨泉」は直径一寸、重さ五銖(の円形の貨幣)で、右側に「貨」、左側に「泉」と刻まれています。一枚一銭です(枚直一)。
しかし大銭が久しく流通していたため、王莽は大銭を廃止しても民の携帯を禁止できないことを恐れました。そこで、民が暫く大銭を使うことを許可し、六年後に大銭を携帯できないことにしました。
毎回、銭を変えるたびに民が破産して(民用破業)多くの人が刑に陥ることになりました。
次回に続きます。
新更始時代22 新王莽(二十二) 王莽の治世 15年