新更始時代24 新王莽(二十四) 解剖 16年(2)

今回は新王莽天鳳三年の続きです。
 
[] 『漢書王莽伝中(巻九十九中)』と『資治通鑑』からです。
この月(五月)戊辰(初九日)、長平館の西岸が崩れ、涇水が塞がって流れなくなりました。水が決壊して北に向かいます。
資治通鑑』胡三省注によると、長平館は長平観ともいい、涇水の南の原野にありました。本来、涇水は東南に向かって渭水に入りますが、南側が塞がれたため北に流れました。
 
王莽は大司空王邑を派遣して視察させました。
王邑が帰って状況を報告すると、群臣が「『河図』が言う『土によって水を鎮める(以土填水)』というものです」と言って、(王莽に)酒を献じて祝賀しました。
『河図』は預言書の一種です。今回、川の南が土で埋まって北に流れを変えました。五行説では北は水徳の方位なので、北に位置する匈奴は水徳に当たります。新は土徳を称しているので、土が水を塞いで北に追いやったのは、匈奴が滅亡する祥だと考えられました。
 
王莽は并州宋弘、游撃都尉任萌等を派遣し、兵を率いて匈奴を撃たせました。
新軍は辺境に至って駐屯します。
 
[] 『漢書王莽伝中(巻九十九中)』と『資治通鑑』からです。
秋七月辛酉(中華書局『白話資治通鑑』は「辛酉」を恐らく誤りとしています)、霸城門で火災がありました。
漢書』顔師古注によると、霸城門は長安城東側の南から一番目の門です。門が青かったため、青門ともいいます。
 
[] 『漢書王莽伝中(巻九十九中)』と『資治通鑑』からです。
戊子晦(中華書局『白話資治通鑑』は「戊子晦」を恐らく誤りとしています)、日食がありました。
天下に大赦しました。
 
令を下して公卿大夫諸侯二千石に四行を各一人挙げさせました。
「四行」は『漢書』顔師古注が「漢光禄の四科」と書いています。これは元帝が定めた四科で、「質樸、敦厚、遜讓、有行」を指します元帝永光元年43年)
 
大司馬陳茂が日食を理由に罷免され、武建伯(伯爵)厳尤が大司馬になりました。
 
[] 『漢書王莽伝中(巻九十九中)』からです。
冬十月戊辰、王路(皇宮に通じる道)の朱鳥門が鳴り(どのような音かは分かりません)、昼夜絶えませんでした。
崔発等が言いました「虞帝(帝舜)は四門を開いて四聡を通じました(四門を開いて四方の声を聞きました。原文「闢四門,通四聡」。『尚書舜典』の「闢四門,明四目,達四聡」が元になっています)。門が鳴るというのは、先聖の礼を修めて四方の士を招くべきであることを明らかにしたのです。」
王莽は群臣全員に祝賀させ、推挙された四行を朱鳥門から入れて対策(皇帝の問いに答えること)させました。
 
[] 『漢書王莽伝中(巻九十九中)』と『資治通鑑』からです。
平蛮将軍馮茂が句町を撃ちましたが、士卒が疾疫(疫病)に襲われ、死者が十分の六七に及びました。しかも民から物資を徴収して財の十分の五を奪い、益州を虚耗させましたが、それでも勝てませんでした。
王莽は馮茂を呼び戻して逮捕しました。馮茂は獄死します。
 
改めて寧始将軍廉丹と庸部牧(『資治通鑑』胡三省注によると、王莽が益州を庸部に改めました。庸部牧は庸部の州牧です)史熊を派遣し、句町を撃たせました。
二人は天水、隴西の騎士や広漢、巴、蜀、犍為の吏民十万人および物資を輸送する者計二十万人を大動員して句町を撃ちます。
到着したばかりの時は、多数の首を斬って数千に上り、勝利を得ました。しかし後に軍糧が続かなくなり、士卒が飢疫に苦しむようになりました。
 
王莽は廉丹と史熊も呼び戻そうとしました。しかし二人は調度(準備。兵や物資)を増やして必ず大勝してから帰還することを願い、再び大規模な徴収を行いました(大賦斂)
これに対し、就都大尹馮英が物資を供給せず、上書してこう言いました「越遂久(県名)の仇牛や、同亭(郡名。元牂柯郡)の邪豆(仇牛、邪豆は部族の名です)の属(類)が反畔(反叛)して以来、もう十年になろうとしており、その間、郡県の距撃(抵抗攻撃)が止みませんでした。続いて馮茂を用いて、軽率に一時的な政事を施しました(苟施一切之政)道以南は山険高深(山が高く、谷が深く、道が険しいこと)なのに、馮茂は多くの衆を駆って遠くに住ませ、費用が億を数え、吏士は毒気に遭って死者が十分の七に及びました。今回、廉丹と史熊は期会(期限)の責任に懼れを抱いたので(懼於自詭期会)、諸郡の兵穀を徴発し、また民の訾(財)を集めて十分の四を取り、梁州を空破(困窮。空虚)にしていますが、結局、功を成し遂げられません。兵を廃して屯田し、明らかな購賞(懸賞。投降した者を懐柔するための褒賞)を設けるべきです。」
王莽は怒って馮英の官を免じましたが、後に誤りを悟り、「馮英はそれほど厚い非(誤り)ではなかった」と言って長沙連率に任命しました。
 
この頃、越蛮夷任貴も太守枚根を殺しました。
漢書西南夷両粤朝鮮伝(巻九十五)』によると、任貴は自ら邛穀王に立ちました。後に王莽が敗れて漢が復興してから東漢時代になってから)、任貴は誅殺されました。
 
[] 『漢書王莽伝中(巻九十九中)』と『資治通鑑』からです。
翟義西漢王莽(孺子)居摂二年7年参照)の党人王孫慶が捕えられました。
王莽は太医と尚方(尚方は皇帝の器物を管理する官署ですが、ここでは薬剤を管理する者を指します)に命じ、巧屠(巧みな屠手)と共に王孫慶を刳剥(解剖)させました。
五臧五臓。心、肺、肝、脾、腎)を測量したり、竹筳(細い竹の枝)で脉を導いて終始を知り(竹を脈に通して流れを確認し)、「これで病を治すことができる」と言いました。
漢書』顔師古注は「血脈の原(源)を知るのは、攻療(治療)の道を尽くすことになる」と解説しています。
資治通鑑』胡三省注が五臓や血脈について約二千文字に及ぶ詳しい解説をしていますが省略します。
 
この王莽の解剖は中国の史書における初めての解剖に関する記述といわれています。
 
[] 『漢書王莽伝中(巻九十九中)』と『資治通鑑』からです。
この年、大使五威将王駿、西域都護李崇を派遣し、戊己校尉郭欽を率いて西域に出させました。
諸国が郊外で迎えて貢物を献上し、兵穀(兵と食糧)を送ります。
しかし以前、西域諸国(主に焉耆)が都護但欽を殺したため(新王莽始建国五年13年)、王駿は諸国を襲おうとしました。王駿等は莎車、亀茲の兵七千余人を指揮して数部に分け、佐帥何封と戊己校尉郭欽を別将にして後方に置きます。
これに対して焉耆が偽って投降し、一方では兵を集めて戦いに備えました。王駿等が焉耆領内に入ると、焉耆は伏兵を設けて王駿等を邀撃します。姑墨(『資治通鑑』胡三省注によると、姑墨国は南城を都にしました。長安から八千百五十里離れています)、封犂(尉犂ともいいます)、危須国の兵も反間となり、兵の向きを変えて共に王駿を襲いました。王駿等は皆死亡します。
郭欽と何封は後から焉耆に到着しました。焉耆の兵がまだ還っていなかったため、郭欽等は焉耆を襲って老弱の者を殺し、車師を経由して塞に入りました。
 
王莽は郭欽を填外将軍に任命して胡子に封じ、何封を集胡男に封じました。
 
李崇は残った士を集め、亀茲に還って守りました。
後に王莽が敗れてから李崇が死ぬと、完全に西域との関係が絶たれました。
 
 
 
次回に続きます。