新更始時代25 新王莽(二十五) 呂母と緑林 17年

今回は新王莽天鳳四年です。
 
新王莽天鳳四年
丁丑 17
 
[] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』からです。
五月、王莽が言いました「保成師友祭酒唐林と故(元)諫議祭酒琅邪の人紀逡は孝弟忠恕で、上を敬って下を愛し、旧聞(故事)に広く通じており(博通旧聞)、徳行を醇備(完備)し、黄髪(老齢)に至るまで愆失(過失)がなかった。よって唐林を建徳侯に、紀逡を封徳侯に封じ、位はどちらも特進とし、見礼(朝見の礼)は三公と同等にする。弟(邸宅)一区、銭三百万を下賜し、几杖(肘掛けと杖。老齢者に対する敬意を表します)を授ける。」
 
[] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』と『資治通鑑』からです。
六月、王莽が明堂で改めて諸侯に茅土(茅に包んだ土。天子が始めて封侯する時に与えます)を授けて言いました「予は地理を制作し(土地の制度を定め)、五等を建封(封建)し、経芸儒学の経典。六経)を考え、伝記(経典を解説する文書)と符合させ、義理(経義の真理)に通じ、これを議論して思考すること再三に及び、始建国の元(元年)以来、九年でここに至り、今定めることになった。予は自ら文石の平(模様がある石で作った階段)を設け、菁茅(茅草の一種)四色の土(四方の諸侯を象徴する土。東は青土(恐らく緑っぽい土)、南は赤土、西は白土、北は黒土です)を並べ、岱宗(泰山)泰社(宗社。宗廟社稷后土、先祖先妣(男女の先祖)に欽告し(謹んで報告し)、これを班授(頒布授与)する。それぞれその国に就いて民人を養牧し、そうすることで功業を成せ。縁辺にいる者、または江南の者で、詔で召されたのではなくても、帝城に派遣されて近侍している者は、当面は納言の掌貨大夫が都内の故銭(官府に蓄えられている銭)から調達してその禄を与える。公は歳(年)八十万、侯伯は四十万、子男は二十万とする。」
こうして諸侯の収入が改めて決められましたが、やはり徹底できませんでした。
王莽は空言を好んで古法を慕い、多くの人に爵位を封じましたが、実際は遴嗇(吝嗇)な性格だったため、地理(土地の区画)がまだ定まっていないことを理由に茅土だけを与えて封爵された者をなだめました(用慰喜封者)
 
[] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』と『資治通鑑』からです。
八月、王莽が自ら南郊に赴き、「威斗」を鋳造しました。
威斗は五石銅で作られており、長さは二尺五寸で北斗の形をしています。
「五石銅」について、『漢書』の注で李奇は「五色の薬石と銅で作られた物」と解説し、蘇林は「五色の銅を選んで作った物」と解説しています。顔師古は「李奇の説が正しく、鍮石のようなもの」としています。鍮石は黄銅、真鍮を指し、銅と亜鉛の合金です。「五石銅」は銅と複数の鉱物による合金のようです。
 
王莽は威斗を使って衆兵(民衆の兵。反乱勢力)を厭勝(他者の力を抑える呪術の一種)しようとしました。
威斗が完成すると、司命にそれを背負わせ、王莽が外出する時は前に置き、入宮したら傍に置きました。
威斗を鋳造した日は(八月なのに)大寒に襲われ、百官人馬で凍死する者も出ました。
 
[] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』と『資治通鑑』からです。
王莽は五均六筦(新王莽始建国二年10年参照)の制度を開始してから、羲和命士を置いて監督させました。郡ごとに数人の定員がおり、全て富賈(富商)を用いて担当させます。
彼等は伝(伝馬。伝車)に乗って利を求め、天下に交錯しました。機に乗じて郡県と姦を結び、多くの空簿(偽の帳簿)を設けたため、府藏が充実することはなく、百姓がますます困苦します(実利は自分のものとし、偽の帳簿で郡県が潤っているように見せました。つじつまを合わせるために民衆に対する賦税が重くなります)
 
この年、王莽が改めて詔を下し、六筦の令を明確にしました。一筦ごとに科條(法律条文)を設けて違反を防ぐようにし、犯した者は死罪に至ることもありました。
しかし姦民猾吏が共に侵犯したため、吏民で罪に陥る者がしだいに増えていき、衆庶は安定した生活を送れなくなりました。
また、上公以下、奴婢を有す者全てに課税しました。一人当たり銭三千六百を納めさせます。このため天下がますます憂愁しました。
納言馮常が六筦について諫言したため、王莽は激怒して馮常を免官しました。
 
王莽は執法左右刺姦(官名。左刺姦と右刺姦がいます。奸悪な者を取り締まりました)を置きました。
 
また、能吏侯霸等を選び、分担して六尉六隊を監督させました。漢代の刺史のようなものです。
各郡には三公の士(属官)を一人送って政務を行わせました。
 
当時の法令の煩苛(複雑苛酷)な様子は、民が手を振っただけでも禁令に触れるほどでした。耕桑をする余裕がなく、繇役(徭役)の義務が過重になり、しかも枯旱の害や蝗蟲が相次いで発生しています。訴訟も久しく解決できません(原文「獄訟不決」。政府が機能していないため、あるいは犯罪者が多すぎて処理が追いつかないためです)
官吏は苛暴を用いて威厳を立て、王莽の禁令を利用して小民(庶民)を侵犯しました。そのため、富者でも自分を保てず(『資治通鑑』は「不能自別」としていますが、「不能自保」の誤りです)、貧者はなおさら自存の術を失いました。
 
その結果、各地で民衆が並び起って盗賊(反乱軍)になりました。山沢を拠点にして身を守ります。
官吏はそれを捕えられないため、覆蔽(隠蔽)しました。盗賊の勢いは日に日に拡大していきます。
 
例えば、臨淮の瓜田儀(『漢書』の注によると、瓜田が姓、儀が名です)等が盗賊になり、会稽長州を拠点にしました。
 
また、琅邪の女子呂母も兵を挙げました。
以下、『後漢書劉玄劉盆子列伝(巻十一』および『漢書王莽伝下(巻九十九下)』『資治通鑑』からです。
新王莽天鳳元年14年)、琅邪海曲に呂母という者がおり、子が県吏になりました。しかし子が小罪を犯したため、宰(漢代の県長県令)が死刑の判決を下して殺してしましました。
後漢書』の注によると、呂母の子は名を育といい、游徼(盗賊を取り締まる官)を勤めました。
 
宰を怨んだ呂母は秘かに客を集め、仇に報いる方法を練りました。呂母の家は元々豊かだったため、貲産(財産)が数百万もあります。そこで呂母は家財を散じて醇酒(美酒)を大量に醸造し、刀剣弓弩や衣服を買い集めました。少年(若者)で酒を買いに来た者には全て支払いを後回しにさせ(皆與之)、貧困な者を見たらいつも衣裳を貸し与え、その数を問いませんでした。
数年後に家財をほとんど使い果たしました。少年(若者)達は今までの恩に報いて償おうとします。
すると呂母が涙を流して言いました「諸君を厚く遇してきたのは、利を求めることを欲したからではありません。ただ県宰が不道で我が子を枉殺(冤罪で殺すこと)したので、怨みに報いたいのです。諸君はこれを哀れんでくれますか(諸君は協力してくれますか。原文「諸君寧肯哀之乎」)。」
 
少年達は呂母の意が壮烈だと思って感服しました。その上、以前から恩を受けているので、そろって許諾します。
中には自ら猛虎と号している勇士もおり、数十百人(百余人)が集まりました。
東漢時代に編纂された『東観漢記戴記(巻二十三)』には「呂母の賓客徐次子等が自ら『搤虎』を号した」とあります。「搤」は「つかむ」「捕まえる」の意味で、「搤虎」は「虎を捕まえるほどの勇力を持つこと」を表します。『後漢書』の「猛虎」は「搤虎徐次子等」を指すようです。
 
彼等は呂母と共に海中に入り、亡命している者を招いて吸収していきました。その衆は数千に及びます。
そこで、呂母は自ら将軍と称し、兵を還して海曲を攻め破りました。県宰を捕えます。諸吏が叩頭して宰のために命乞いをしましたが、呂母は「我が子は小罪を犯しただけで、死には当たりませんでしたが、宰に殺されました。人を殺したら死ぬべきです。また何を請うのですか」と言って斬りました。
呂母は宰の首で子の冢(墓)を祭ってから、再び海中に還ります。
その衆はしだいに拡大し、後には合わせて一万人を越えるほどになりました。
 
南方では緑林兵が挙兵しました。
後漢書劉玄劉盆子列伝(巻十一』と『資治通鑑』からです。
荊州で饑饉に襲われた人衆(民衆)が集団になって野沢に入り、掘鳧茈(荸薺。湿地に生える芋のような食物です)を掘って食べました。
人々は互いに財を侵して奪い合いましたが、新市の人王匡、王鳳が公平に争いを処理したため(平理諍訟)、渠帥(長)に推されました。その衆は数百人います。
他にも亡命していた南陽の馬武、潁川の王常や成丹等が集まって王匡等に従いました。
王匡等は共に離鄕聚を攻撃し、緑林山の中に隠れました。数カ月で七八千人に拡大します。これを緑林兵といいます。
「離郷聚」については、『後漢書』の注は「都市から離れた郷や聚で、大きいものを郷、小さいものを聚という」としていますが、『資治通鑑』胡三省注は「新市侯国に離郷聚(地名)と綠林山があった」と書いています。
 
資治通鑑』によると、南郡の張霸、江夏の羊牧等も王匡と同時に挙兵し、それぞれ万人の衆を擁しました。
漢書・王莽伝下』は新王莽地皇元年20年)に「南郡の張霸、江夏の羊牧、王匡等が雲杜の緑林で挙兵した」と書いていますが、張霸と羊牧は王匡とは別の勢力だと思われます。
新王莽地皇三年22年)に緑林兵が分裂しますが、そこには張霸と羊牧の名がありません。
 
漢書王莽伝下(巻九十九下)』と『資治通鑑』に戻ります。
王莽は使者を送ってその地で盗賊を赦させました。
使者が還ってこう報告しました「盗賊は解散しても、いつもまた集合します。その理由を問うと、皆こう言いました『法禁(法制禁令)が煩苛(複雑苛酷)なことを憂愁して手を挙げることもできず、力作(力を尽くして農耕に励むこと)して得た物も、貢税を納めるのに足りず、門を閉じて自分を守っても、また鄰伍(近所)の鋳銭挾銅(貨幣鋳造や銅の携帯の罪)に坐し、姦吏がこれを利用して民を愁いさせています(民から財を奪っています。原文「因以愁民」)。』このように民が困窮しているから、ことごとく起って盗賊になるのです。」
王莽は激怒してこの使者を罷免しました。
 
王莽の意に順じておもねる者は、あるいは「民は驕黠(驕慢狡猾)なので誅すべきです」と言い、あるいは「時運がそうなっているので(または「時運は偶然のことなので」。原文「時運適然」。「適然」には「当然」と「偶然」の意味があります)、久しくせず滅びます(且滅不久)」と言いました。
王莽は悦んでこれらの者を昇進させました。
 
 
 
次回に続きます。

新更始時代26 新王莽(二十六) 王宗事件 18年(1)