新更始時代26 新王莽(二十六) 王宗事件 18年(1)

今回は新王莽天鳳五年です。二回に分けます。
 
新王莽天鳳五年
戊寅 18
 
[] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』と『資治通鑑』からです。
春正月朔、北軍南門北軍営塁の南側の門)で火災がありました。
 
[] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』と『資治通鑑』からです。
大司馬司允費興を荊州牧に任命しました。
王莽が費興を接見して州部に入ってからの方略を問うと、費興はこう答えました「荊、揚の民は多くが山沢に頼って(依阻山沢)漁采(「漁」は魚を獲ること、「采」は野菜や果物を採ることです)を業にしています。最近、国が六筦を張り(設け)、山沢に税をかけたので、民の利を妨げて奪ってしまいました。しかも連年久しく旱害に襲われ、百姓が飢窮しています。だから(民が)盗賊になるのです。興()が部に着いたら、令を明るくして盗賊が田里に帰るように曉告(告知。諭すこと)し、犂(農具)食を假貸(貸与)し、その租賦を寛大にしたいと思います。そうすることで(盗賊を)解散させて安定和睦をもたらすことを望みます(幾可以解釈安集)。」
王莽は怒って費興を免官しました。
 
[] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』と『資治通鑑』からです。
天下の吏で奉禄を得られない者がそろって姦利を為し、郡尹県宰の家には千金の財が蓄えられました。
王莽が詔を下して言いました「始建国二年(10)に胡虜が猾夏して以来(中華を侵してから。「猾」は「侵犯」の意味です)、諸軍吏および大夫以上の縁辺の吏で、姦利を為して財産を増やし富に至った者を詳考(調査。詳しく考察すること)し、その家が所有する財産の五分の四を没収して辺急(辺境の急需)を助けることにする。」
公府の士(属官)が天下に伝(伝馬。伝車)を駆けさせて貪饕(貪汚)を考覆(審査。調査)し、官吏にその将を告発させ、奴婢にその主を告発させることで姦悪を禁じられると期待しましたが、逆に姦悪はますますひどくなりました。
 
[] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』と『資治通鑑』からです。
皇孫(王莽の孫。王宇の子)功崇公王宗が天子の衣冠を身につけて自分の容貌を描き、また、三つの刻印を勝手に作ったため、罪を問われました。一つ目の刻印には「維祉冠存己夏処南山臧薄冰(祉(福)があり、(天子の)冠が我が身に附く(天子を世襲する)。夏は南山(避暑地)に居り、薄冰を貯蔵する」、二つ目には「肅聖宝継(粛敬として聖宝を継ぐ。『漢書』の注によると、王莽は聖人舜の後を継いで肅敬(恭敬)になれたので、天の宝亀を得て即位できました。王宗も同じ端緒、吉祥を継承することを欲しました)」、三つ目には「徳封昌図(『漢書』の注によると、王宗は自分が徳によって封爵されたので、昌熾(興隆)して天下の図籍を受けるはずだと考えました)」と刻まれていました。
 
また、王宗の舅(母の兄弟)呂寛(平帝元始三年3年参照)の家は以前、合浦に遷されましたが、秘かに王宗と通じていました。
これらの事が発覚して取り調べを受けたため、王宗は自殺しました。
 
王莽が言いました「宗(王宗)は、属(家族の関係)は皇孫であり、爵は上公であり、呂寛等が叛逆の族類(同類)であることを知りながら、(彼等と)交通(交流)した。また、銅印三つを刻んだが、その文意は甚だ害(毒。悪意)があり、厭足(満足)を知らず、非望(望むべきではないこと)を窺い欲した。『春秋』の義によるなら、『君親(国君や父母)に対しては将(謀反の心)があってはならず、将があったら誅されるものである(君親毋将,将而誅焉)。』迷い惑って道を失い、自らこの辜(罪)を得た。哀しいことだ(烏呼哀哉)。宗は本名を会宗といい、制作(制度)によって二名を去ったが、今、名を復して会宗にする。その爵を落とし、その号を改め、諡号を下賜して功崇繆伯とし、諸伯(伯爵)の礼に則って故同の穀城郡に埋葬する(「故同」は「元の同」で、「同」は公爵の封地です。伯爵に落とされましたが、公爵として与えられた封地の穀城郡に埋葬されました)。」
 
王宗の姉王妨は衛将軍王興の夫人で、姑(夫の母)を呪詛して口封じのために婢を殺したことがありました。
この事件も発覚したため、王莽は中常侍惲を送って王妨を譴責し、併せて王興も責めました。二人とも自殺しました。
 
更にこの件は司命孔仁の妻にも影響を及ぼしました。孔仁の妻も自殺します。
孔仁は王莽に謁見し、冠を脱いで謝罪しました。
すると王莽は尚書に孔仁を弾劾させました「乾車(天文が描かれた車)に乗り、巛馬(「巛」は「川」ですが、「乾車」の「乾」と合わせると「乾坤」の「坤」を意味します。「乾坤」は「陰陽」なので、「坤」に当たる「巛馬」は恐らく牝馬です)を駕し、左に蒼龍、右に白虎、前に朱雀、後に玄武を置き(恐らく旗や標示を置いたのだと思います。蒼龍、白虎、朱雀、玄武は二十八宿、四方を表します)、右に威節を持ち、左に威斗を負い、号して赤星というのは、孔仁を驕らせるためではなく、新室の威命を尊ぶためである。しかし孔仁は勝手に天文冠を免じた(脱いだ)。大不敬である。」
 
ところが王莽はまた詔を下して弾劾しないように命じ、孔仁の冠を新しい物に換えさせました。
王莽はこのように怪(鬼神怪異な事)を好みました(原文「其好怪如此」。『漢書』顔師古注が「言莽性好為鬼神怪異之事(王莽の性格は鬼神怪異の事を好んだと言っている)」と解説していますが、上の文と意味が通じないようです。「王莽はこのように奇怪な行動を好んだ」「喜怒哀楽が一定せず、奇怪な行動が多かった」という意味かもしれません)
 
[] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』からです。
直道侯王渉を衛将軍に任命しました。
 
王渉は曲陽侯王根の子です。王根は西漢成帝時代に大司馬を勤め、引退する時に自分の代わりに王莽を推薦して大司馬にしました西漢成帝綏和元年8年参照)。王莽はこれに恩を感じていたため、曲陽が令称(美称)ではないと考え、王根に追諡して直道譲公と呼ぶことにしました。王渉はその爵位を受け継いでいます。
 
 
 
次回に続きます。