新更始時代27 新王莽(二十七) 揚雄 18年(2)

今回は新王莽天鳳五年の続きです。
 
[] 『資治通鑑』からです。
この年、揚雄が死にました。
西漢成帝の時代、揚雄は郎になり、黄門で給事しました(働きました)。王莽や劉秀と同列です。哀帝の初年には董賢と同官でした。
王莽と董賢は後に三公になり、権勢が人主を傾け、彼等が推挙した者で抜擢されない者はいませんでしたが、揚雄は三世(成帝哀帝平帝)にわたって官が遷りませんでした。
王莽が帝位を簒奪した時になって、揚雄は耆老(老齢)の久次(年資。資格)によって大夫に昇進しました。
揚雄は勢利に対して気にかけることがなく(恬於勢利)、古の楽道(聖賢の道)を好み(または「古を好んで道を楽しみ」。原文「好古楽道」)、文章によって後世に名を成すことを欲しました。そこで『太玄』を作って天人の道を総合しました。
 
資治通鑑』胡三省注によると、『太玄』は『玄』『玄経』ともいいます。「玄」は「天」であり、「道」でもあります。聖賢の者が法を制定して事を起こす時は、常に天道を引用して「本統」とし、そこに万類を附属させて王政、人事、法度を形成しているので、書名を『玄』と名づけました。伏羲氏は「易」といい、老子は「道」といい、孔子は「元」といい、揚雄は「玄」といいましたが、全て共通しています。
『玄経』は三篇五千余言で、天人の道を記しています。その他に『伝』十二篇があります(篇数に関しては諸説があります。例えば『漢書芸文志』には「太玄十九」とあり、『四庫全書総目巻百八子部術数類一』は「太元経十巻」としています。清代は康熙帝の諱玄燁を避けて『太元経』と呼びました。『四庫全書総目』に篇数の解説がありますが省略します)
 
また、揚雄は、「諸子はそれぞれその智を使って(本道から)遠く離れており、多くが聖人の教え(周公や孔子等、儒学の教え)を詆訾(誹謗)して、怪迂(怪異な事、荒唐無稽な事)や析辯詭辞(弁論詭弁)を用いて世事を攪乱している」と考えました。これではたとえ小辯(小事。小さい意見)だとしても、最後は大道を破って大衆を惑わし、人々を邪説に溺れさせて、その非(誤り)を分からなくさせてしまいます。
そのため、人が揚雄に質問した時は、常に法(礼法)を用いて応じました。それをまとめて編集し、『法言』と号します。
 
揚雄は内に向かって心を用い(内省に努め)、外には求めなかったため、当時の人からおろそかにされました。
しかし劉秀と范逡は揚雄を尊敬し、桓譚は絶倫(匹敵する人がいないこと)とみなし、鉅鹿の人侯芭は揚雄に師事しました。
大司空王邑と納言厳尤が揚雄の死を聞いて桓譚に問いました「子(あなた)は常に揚雄の書を称えているが、後世に伝えることができるというのか?」
桓譚が言いました「必ず伝わります。しかし君(あなた)と譚(私)は見るに及びません(それを見ることができません)。凡人とは近くを賎しんで遠くを貴ぶものです。自分の目で揚子雲(子雲は揚雄の字です)の禄位容貌が人を動かせないのを見てきたので、(今の人は)その書を軽んじています。昔、老耼老子は虚無の言両篇(『道徳経』)を著し、仁義を薄くして礼学を非難しましたが、後にこれを好んだ者は、(『道徳経』の道理が)五経』を越えていると考えました。漢文景の君西漢文帝・景帝)および司馬遷には皆、そのような言老子に賛同する言)があります。今、揚子の書は文義が至深で、その論は聖人に違えていません(聖人の教えに逆らっていません)。必ず諸子を超越することになります。」
 
漢書揚雄伝下(巻八十七下)』はこう書いています。
「諸儒の中には揚雄が聖人ではないのに経を作ったことを譏る者もおり、春秋時代の呉楚の君が王号を僭称したのと同じで、誅絶(子孫が無くなること)の罪に当たると見なした。
揚雄が没してから今(『漢書』が書かれた時代)で四十余年になり、『法言』は大行(流行。普及)した。『玄(太玄)』はいつまでも表に出ないが、篇籍は現存している。」
 
[] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』からです。
この年、赤眉(後に眉を赤く塗って目印にしたため、赤眉軍、赤眉兵と呼ばれます。新王莽地皇三年・22年参照)の力子都、樊崇等が飢饉のために集結し、琅邪で挙兵しました。各地に転じて鈔掠(略奪。強奪)し、衆はそれぞれ一万以上になります。
王莽は使者を派遣し、郡国の兵を動員して撃たせましたが、勝てませんでした。
 
『王莽伝下』を見ると、力子都と樊崇が一緒に挙兵したようにも読めますが、実際は異なる勢力です。
まずは樊崇について『後漢書劉玄劉盆子列伝(巻十一』と『資治通鑑』から少し詳しく書きます。
琅邪の人樊崇が莒で挙兵しました。『後漢書』の注によると、樊崇の字は細君です。
樊崇の衆は百余人で、移動して太山に入りました。樊崇は自ら「三老」と号します。
当時、青州と徐州は大飢饉に襲われたため、寇賊が蜂起していました(前年挙兵した呂母も琅邪の人です)
樊崇が勇猛だったため、群盗が皆帰附して一年で一万余人に膨れ上がります。
樊崇の同郡の人逄安、東海の人徐宣、謝禄、楊音もそれぞれ挙兵しました。これらの勢力を合わせると数万人になります。皆、衆を率いて樊崇に従いました。
後漢書』の注によると、逄安の字は少子で東莞の人です。徐宣の字は驕稺、謝禄の字は子竒で、どちらも東海臨沂の人です。
 
樊崇等は共に引き返して莒を攻めましたが、勝てなかったため、移動しながら略奪し(転掠)、姑幕(県名)に至りました。そこで王莽の探湯侯(『後漢書』の注によると、王莽が北海益県を探湯に改名しました)田況を撃って大破し、万余人を殺します。
その後、北上して青州に入り、通った場所で虜掠(人や物を奪うこと)しました。
青州徐州一帯で移動しながら略奪を繰り返します。
 
次は力子都について『任李万邳劉耿列伝(巻二十一)』と『資治通鑑』からです。
力子都は東海の人で、郷里で挙兵して徐州兗州一帯を鈔撃(略奪攻撃)しました。後に六、七万の衆を擁します(新王莽天鳳六年・19年に再述します)
王莽は使者を派遣し、郡国の兵を動員して撃たせましたが、勝てませんでした。
 
資治通鑑』は「力子都」を「刀子都」としていますが、『資治通鑑』胡三省注によると、「刀」は印刻時の誤りのようです。「刁子都」と書くこともあります。
力氏は黄帝を輔佐した力牧の後代です。
 
[] 『資治通鑑』からです(『漢書・王莽伝下』は翌年に書いています)
匈奴烏累単于が死に、弟の左賢王輿が立ちました。呼都而尸道皋若鞮単于といいます。
輿は即位してから新朝の賞賜による利を貪るため、大且渠奢と伊墨居次云の妹の子醯櫝王を長安に派遣して貢物を献上しました。
 
王莽は和親侯王歙に命じ、大且渠奢等と共に制虜塞に到らせました(大且渠・奢等は長安から王歙に送られて制虜塞まで帰りました)。そこで伊墨居次云と須卜当の二人と会見します。新はこの機に兵を使って云と当を脅迫し、長安に連れて行きました(翌年再述します)
云と当の小男(少子)は塞下から脱出して匈奴に帰りました。
 
須卜当が長安に入ると、王莽は須卜単于に任命し、大軍を匈奴に出して須卜単于の即位を助けようとしました。しかし兵の準備ができません。
一方の匈奴はますます怒って北辺に並進し、寇略を為しました。
 
 
 
次回に続きます。

新更始時代28 新王莽(二十八) 厳尤降格 19年(1)