新更始時代28 新王莽(二十八) 厳尤降格 19年(1)

今回は新王莽天鳳六年です。二回に分けます。
 
新王莽天鳳六年
己卯 19
 
[] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』と『資治通鑑』からです。
春、王莽は盗賊が多いのを見て、太史に命じて三万六千歳暦紀を推算させ、六歳(年)で一回改元することにしました。これを天下に布告します。
王莽が書を下して言いました「紫閣図(恐らく王莽に天命を伝える符図の一つです)にこうある『太一と黄帝はどちらも僊(仙人)となって上天し、崑崙虔山の上で楽を張った(音楽を奏でた)。後世の聖主で瑞を得た者は、秦の終南山(『漢書』の注によると長安南山を指します。旧秦地に当たります)の上で楽を張るべきだ。』予が不敏(不聡明)なため、奉行が明らかではなかったが(今まで天命を行ってこなかったが)、今になって(紫閣図によって)諭された。再び寧始将軍を更始将軍とし、符命に順じる。『易』にはこうあるではないか『日々更新することを盛徳といい、生命を生じることを易(変易。変化)という(日新之謂盛徳,生生之謂易)。』予は(音楽を)饗じよう(祭祀で音楽を献じよう)。」
王莽は神威によって百姓を誑燿(騙して惑わすこと)し、盗賊を解消させようとしましたが、民衆は嘲笑しました。
 
寧始将軍は元は更始将軍といいました。王莽始建国二年10年)に更始将軍・甄豊が自殺したため、寧始将軍に改めて姚恂を任命しましたが、本来の符命では更始将軍という名称が記されていたため、今回、更始将軍に戻しました。
 
王莽が初めて明堂と太廟に『新楽』を献じました。王莽が作った音楽です。
この時から群臣が麟韋の弁を被るようになりました。『漢書』の注によると「麟韋の弁」は鹿皮の冠です。
ある人が楽声を聞いてこう言いました「清厲(清涼厳粛)だが哀しい。興国の声(音楽)ではない。」
 
[] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』と『資治通鑑』からです。
当時、関東で飢旱が数年続き、力子都等の党衆がしだいに増えていきました。
西南では更始将軍廉丹が益州を撃ちましたが(新王莽天鳳三年16年参照)、勝てませんでした。逆に益州夷の棟蠶や若豆等が挙兵して郡守を殺し、越の夷人大牟も叛して吏人を殺略します。
王莽は廉丹を呼び戻し、改めて大司馬護軍郭興(『王莽伝下』は「復位後大司馬護軍郭興」としています。「復位後」が何を意味するのかはわかりません。『資治通鑑』は「復位後」を省いています)、庸部牧を派遣して蛮夷の若豆等を撃たせました。
 
また、太傅犧叔(太傅羲叔。『資治通鑑』胡三省注によると、王莽は太傅に夏を主管させたため、羲叔官を置きました。羲叔は帝堯の時代に南方や夏を担当しました)士孫喜(士孫が氏です。『資治通鑑』胡三省注によると、漢代に平陵の士孫張が博士になり、梁丘『易』に通じていました。梁丘『易』は梁丘賀が創始した『易』学です)に江湖の盗賊を掃討させました。
 
北方では匈奴による辺境への侵攻がますますひどくなっています。
そこで王莽は天下の丁男および死罪囚、吏民の奴を大いに募り、「豬突豨勇」と名づけて鋭卒にしました。「豬」も「豨」も「猪(野豚)」です。
 
天下の吏民全てに税をかけて訾(財産)の三十分の一を取りました。縑帛(絹織物)を全て長安に運びます。
公卿以下、郡県の黄綬の官(『資治通鑑』胡三省注によると、四百石三百石二百石が黄綬を持ちます)に至るまで、全てに軍馬を保養させました。『漢書』顔師古注によると、ここでの「保」は馬を死なせてはならないという意味を持ちます。
馬の数は秩によって決められました。しかし官吏はこの任務を全て民に転嫁しました。
 
更に特殊な技術を持っていて匈奴を攻撃できる者を広く募集し、不次の位によって待遇することにしました。「不次の位」というのは秩序を無視した官位という意味で、奇術がある者は経歴に関係なく大抜擢されることになりました。
その結果、便宜(国にとって有利な事)を述べる者が万を数えました。ある者は舟楫を使わなくても川を渡る術があるので、騎馬を連ねて(連馬接騎)百万の師を渡河させることができると言い、ある者は一斗の食糧も持つ必要がなく、薬物を服食すれば三軍が飢えなくなると言い、ある者は空を飛べるので、一日に千里飛んで匈奴を窺えると言いました。
王莽が空を飛べるという者をさっそく試してみると、その者は大鳥の翮(「翮」は本来、羽毛の幹の部分ですが、ここでは恐らく羽、翼の意味です)を両翼とし、頭にも体にも羽毛をつけて飛びました。『王莽伝下』は飛行の方法を「通引環紐」としています。翼に紐をつけて操作したのだと思いますが、具体的にどういう動作なのかは分かりません。翼をつけた者は数百歩で墜落しました。
王莽はこれらに実用性がないことを知っていましたが、その名声(人材を大切にしているという名声)を強く欲したため、全て理軍(官名)に任命し、車馬を下賜して出撃を待たせました。
 
匈奴の右骨都侯須卜当は王昭君の娘を娶り、かつては内附(中国に帰順すること)していました。
そこで王莽は王昭君の兄の子に当たる和親侯王歙を派遣し、須卜当を塞下に誘い出してから脅迫して長安に連れて来ました(ここは『王莽伝下』の記述です。『資治通鑑』は前年に書いています)
王莽は須卜当を強制して須卜善于後安公に立てます。「善于」は匈奴の号で、王莽は帰順した「単于」を「善于」に改名しました。「後安公」は中国の爵です。
 
王莽が須卜当を誘い出そうとした時、大司馬厳尤が諫めて言いました「当(須卜当)匈奴の右部(西部)におり、彼の兵は辺境を侵さず、単于の動静を全て中国に語っているので、一方面(西部)の大助となっています。今、当を迎えて長安槀街(異民族の館舎がある街)に置いても、一胡人に過ぎなくなります。匈奴に留めて益(利)がある方が優っています。」
王莽はこれを聞きませんでした。
 
王莽は須卜当を得てから、厳尤と廉丹を派遣して匈奴を撃たせようとしました。二人に「徵(「懲」に通じます。懲罰の意味です)」という氏を下賜して二徵将軍と号し、単于輿(呼都而尸道皋単于を誅殺して須卜当を立てることを任務にします。
しかし、車(『王莽伝下』『資治通鑑』とも「車」としていますが、恐らく「軍」の誤りです。または下に「横厩」とあるので、「車騎」かもしれません)が城西横厩長安城西の馬厩)を出たのに、遠征を開始しませんでした。
 
厳尤はかねてから智略があり、王莽が四夷(『王莽伝下』は「西夷」としていますが、恐らく「四夷」の誤りです。『資治通鑑』は「四夷」に書き換えています)を攻伐していることにしばしば諫言しましたが、王莽は聞き入れませんでした。そこで古の名将楽毅や白起が用いられなかった教訓や辺境の事について著作し、併せて三篇を上奏して王莽を風諫(婉曲に諫めること)しました。
今回、出撃することになると、厳尤は朝廷での議論で頑なに「匈奴はとりあえず後まわしにできます。先に山東の盗賊を憂いるべきです」と主張しました。
王莽は激怒して厳尤に策書を下し、こう言いました「視事(着任)して四年経つが、蛮夷の猾夏(中華への侵略)を遏絶(根絶)できず、寇賊・姦宄(奸邪)も殄滅(消滅)できず、天威を畏れず、詔命を用いず、頑迷がその顔に表れているのに自らを善とし(原文「皃佷自臧」。『漢書』顔師古注によると、「皃」は「貌」で「貌佷」は「容貌に凶暴で頑固な様子が現れている」という意味です。「臧」は「善」です)、意見を固辞して変えることがなく(持必不移)、懐に異心を抱き、軍議を非沮(誹謗阻害)している。しかし理に到らせるのは(法に基づいて裁くのは)まだ忍びないので、大司馬武建伯の印韍を返上して故郡に帰れ。」
王莽は降符伯董忠を大司馬に任命しました。
 
 
 
次回に続きます。