新更始時代29 新王莽(二十九) 巨毋霸 19年(2)

今回は新王莽天鳳六年の続きです。
 
[] 『資治通鑑』からです。
大司空議曹史代郡の人范升が王邑(大司空)に引見を求めて文書を提出しました「升(私)が聞くに、子は人が父母との間を非難できないことを孝とみなし(原文「子以人不間於其父母為孝」。『論語』の言葉です。孔子の弟子閔子騫は父母に対して孝行だったため、閔子騫と父母の関係を批難する者は誰もいませんでした。「父母との関係を誰にも批難されない態度・行動をとることが孝である」という意味です)、臣は下にいてその君上(君主)を誹謗しないことを忠とみなす(原文「臣以下不非其君上為忠」。主君に過ちがあったら諫言するべきであり、誹謗しないのが忠臣だという意味です)といいます。
今、衆人は全て朝聖(陛下)を称え、皆が公明だと言っています。明者(英明な者)とは見えないことがなく、聖者(神聖な者)とは聞こえないことがないはずです。ところが今は、天下の事は日月より明らかで(昭昭於日月)、雷霆より震動しているのに(震震於雷霆)、朝(朝廷。皇帝)は見えないと言い、公(あなた)は聞こえないと言っています。元元(民衆)はどうやって天に叫べばいいのでしょうか(「元元焉所呼天」。明らかに問題があるのに皇帝も大臣も見てみないふりをしていたら、民衆はどこに助けを求めればいいのでしょうか)。公(あなた)が是(正しい)と判断して言わないのなら(諫言しないのなら)、その過失は小さいものです。しかし(誤りだと)知っていて令に従っているのなら、過失が大きくなります。この二者は公(あなた)にとって免れられるものではありません(二者のどちらかが公に当てはまります)。天下が怨を公(あなた)に帰しているのも当然でしょう。
(皇帝)は遠い者(異民族)が不服なことを至念(最も考慮するべきこと)と為していますが、升(私)は近い者(国内の民衆)が悦ばないことを重憂(重大な憂患)とみなしています。今の動(行動)は時(時宜。時節)から乖離しており、事は道に反しています。覆車の轍(転覆した車の轍)を馳騖し(奔走し)、敗事の後に沿って歩んだら(踵循敗事之後)、後にますます怪とすべきことが現れ、晚くにますます懼れるべきことが発します。今はちょうど春の歳首なのに遠役を動発(発動)しており、藜藿(粗末な食物)すら充たされず、田荒は耕されず、穀價が騰躍(高騰)して一斛が数千銭に及び、吏民は湯火(危険。災難)の中に陥り、国家の民ではなくなっています(国に服従していません)。このままでいたら、胡貊が闕を守り(宮門を包囲し)、青徐の寇が帷帳(宮城)に居ることになります(京師の民も変を為します。または京師が群盗に占領されます)
(私)に一言があり、天下の倒縣(倒懸。逆さ吊り。危難や痛苦)を解いて元元の急(焦慮)を除くことができます。書では伝えられないので、引見を蒙って懐にある考えを述べ尽くすことを願います。」
王邑は范升の意見を却下しました。
 
[] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』と『資治通鑑』からです。
翼平連率田況が上奏し、郡県の訾民(民の財産を計ること)が実情に符合していないと訴えました。
王莽は民からまた財産の三十分の一を税として取り立てることにしました。
忠言憂国を理由に田況の爵位を進めて伯爵にし、銭二百万を下賜します。
衆庶は皆、田況を罵詈しました。
青州や徐州の多くの民が郷里を棄てて流亡しました。老弱の者は道路で死に、壮者は賊の中に入ります。
 
[] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』と『資治通鑑』からです。
夙夜連率韓博が上言しました「一人の竒士(奇士)がおり、身長は一丈、大(太さ)は十囲(十人が抱きかかえるほどの太さ)もあり、臣の府に来ました。彼は胡虜を奮撃することを欲していると言い、自らを巨毋霸と称しました。蓬莱東南、五城西北の昭如海瀕(『漢書』顔師古注によると昭如は海の名です。「海瀕」は「海浜」です)の出身で、軺車(一頭の馬が牽く軽車)でも載せることができず、三馬でも動かすことができません(三馬不能勝)。即日、大車四馬を使い、虎旗を立て、巨毋霸を載せて闕を訪ねさせました。巨毋霸は卧したら鼓を枕にし、鉄の箸を使って食事をします。これは皇天が新室を助けるためにもたらしたのです。陛下が大甲高車と賁育の衣(「賁育」は孟賁と夏育で古代の勇士です。賁育の衣は勇士の服という意味です)を作り、大将一人と虎賁百人を派遣して道で彼を迎えることを願います。京師の門戸で入れない場所は、開いて高大にし、これを百蛮に示して天下を鎮安しましょう。」
 
実は韓博は王莽を風刺するために巨毋霸を推挙しました。
王莽の字は「巨君」というので、「巨毋覇」の「巨」は王莽を指します。「毋覇」は「覇となるべきではない」という意味です。『漢書』の注は「簒奪によって覇を称えてはならない(毋得簒盗而霸)」と解説しています。「巨毋覇」という名は王莽が簒奪によって天下の覇者になったことを批判しています。
 
それを聞いた王莽は巨毋覇の名を嫌いました。巨毋覇はこの時、新豊まで来ていましたが、そこで留まるように命じて、姓を「巨母」氏に改めます。文母太后(王政君)によって霸王の符を得たという意味にするためです(「巨母覇」は「巨君(王莽)は母によって覇した」と解釈できます。母は文母太后を指します)
 
王莽は韓博を召して獄に下し、発言するべきではないことを発言した(非所宜言)という罪で弃市(棄市)に処しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
関東で連年、饑旱が続きました。
刁子都等の党衆がしだいに増え、六、七万に至りました。
 
[] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』からです。
翌年を地皇改元することにしました。三万六千歳暦に従った号です。
 
 
 
次回に続きます。