新更始時代30 新王莽(三十) 軍制変改 20年(1)

今回は新王莽地皇元年です。二回に分けます。
 
新王莽地皇元年
庚辰 20
 
[] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』と『資治通鑑』からです。
春正月乙未(中華書局『白話資治通鑑』は「乙未」を恐らく誤りとしています)、天下に大赦しました。
改元して地皇元年にしました。三万六千歳暦に従った号です。
 
[] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』と『資治通鑑』からです。
王莽が書を下して言いました「出軍行師(出征行軍)の時、敢えて趨讙(走り回ったり騒ぐこと)したり法を犯す者がいたら、全て斬首に処し(論斬)、時を待つ必要はない(毋須時)(この法令は)この年が尽きたら止める(尽歳止)。」
本来、春と夏は生命が誕生して成長する時と考えられていたため、人の命を絶つ死刑は執行されないことになっていました。しかしこの命令が出たため、春も夏も都市で斬刑が行われるようになります。
百姓は震懼(震撼)し、道であっても目で合図するだけで会話をしなくなりました(道路以目)
 
[] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』からです。
二月壬申、正午に太陽が黒くなりました(日正黒)
王莽がこれを嫌って書を下しました「最近、日中に昧(暗黒)が現れ、陰が陽に迫り(陰薄陽)、黒気が変(変異)を為した。百姓でこれを驚怪しない者はいない。(最近)兆域大将軍王匡が吏を派遣して変事を報告した者を考問(追及)し、上の明を覆い隠そうと欲した。そのために天に適(謫。譴責)が現れ、そうすることで理(道理。または法令、法官)によって正し、大異(更に大きな変事)を塞いだのである。」
 
この部分は解釈が困難です。
「兆域大将軍」以下の原文はこうです「兆域大将軍王匡遣吏考問上変事者,欲蔽上之明,是以適見于天,以正于理,塞大異焉。」
兆域大将軍王匡が変事を報告した者を考問して、上の明(皇帝の英明)を覆い隠そうとしたというのは、「変事を報告した者を厳しく取り調べて報告を取り下げさせたため、変事に関する情報が皇帝に入らなくなった」ということを意味しており、「そのために日が黒くなるという天譴が起きて王匡の悪事を明らかにし、皇帝が隠蔽された変事を知ることで大異を防ぐことができた」と解釈できると思いますが、少し無理があるようにも感じます。
あるいは、「上の明を覆い隠そうとした者」は王匡ではなく、変事を報告した者かもしれません。その場合は、「王匡が吏を派遣して変事を報告した者を考問したところ、(変事を報告した者は)上の明を覆い隠そうと欲していた」となり、「妄りに変事を報告して皇帝の英明を誹謗しようとした。これに対して天譴が起きた」という意味になります。
いずれにしても、王莽は日が黒くなった原因を他者の責任とし、天は王莽を助けるために天譴を下したと宣伝しました。
尚、「兆域大将軍」の「兆域」は墓地の意味なので、「兆域」は「北域」等の誤りではないかと思われます。
 
[] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』と『資治通鑑』からです。
王莽は四方の盗賊が多いのを見てまた厭(圧)しようと欲し、書を下しました「予の皇初祖考黄帝が天下を定めた時は、兵を率いて上将軍となり、華蓋(華美な車の傘)を建て、斗献(北斗の形をした装飾。礼器)を立て、内に大将を設け、外に大司馬五人、大将軍二十五人、偏将軍百二十五人、裨将軍千二百五十人、校尉一万二千五百人、司馬三万七千五百人、候十一万二千五百人、当百(『漢書』顔師古注によると、「当百」は官名です)二十二万五千人、士吏四十五万人、士(兵)千三百五十万人を置き(『資治通鑑』は「大将軍から士吏に至る合計は七十三万八千九百人、士は千三百五十万人」と書いていますが、大将軍から士吏の合計は八十三万八千九百人のはずです)、『易』の『弧矢の利(鋭利)によって天下に武威を示す(武力によって天下に威を示す。原文「弧矢之利,以威天下」)』という言葉に応恊(応じて合わせること)した。予は符命の文を受けたので、前人を考察してこれから條備させる(一つ一つ備えさせる)。」
 
王莽は前中大司馬の位を置き(大司馬を五人にしました)、諸州牧に号を下賜して大将軍とし、郡卒正、連帥、大尹を偏将軍に、属令長を裨将軍に、県宰を校尉にしました。
軍制を改めたため、伝(伝馬。伝車)に乗った使者が各地の郡国を通り、毎日十輩(十組)近くに及びました。ところが郡国の倉には朝廷の使者をもてなす穀物がなく、伝に使う車馬も足りなくなったため、道中で車馬を徴用し、民から財物を徴収して任務を行いました(取辦於民)
 
[] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』と『資治通鑑』からです。
七月、大風が王路堂(漢代の未央宮前殿)を破壊しました。
王莽が書を下して言いました「壬午(中華書局『白話資治通鑑』は『壬午』を恐らく誤りとしています)の餔時(晡時。申時。午後三時から五時)に、列風雷雨が屋根を飛ばして樹木を折る(発屋折木)という変があったので、予は甚だ驚懼し(原文「予甚弁焉」。『漢書』顔師古注によると、「弁」は「疾(嫌う)」の意味、または「驚懼」の意味です)、予は甚だ戦慄し(予甚栗焉)、予は甚だ恐れたが(予甚恐焉)、伏して一旬(十日)念じたところ、迷いがやっと解けた(『漢書』顔師古注によると、列風雷雨に遭ったものの迷いが解けたというのは、帝舜の「大麓に入り、列風雷雨に遭ったが迷わなかった(納于大麓,列風雷雨不迷)」という故事に倣っています)。昔、符命の文に『安を立てて新遷王とし、臨は雒陽を国にして統義陽王とする』とあった。当時、予は摂假(摂皇帝假皇帝)におり、謙譲して受け入れられなかったため(謙不敢当)(彼等を)公にした(王安は王莽の第三子です。西漢王莽(孺子)始初元年8年に新挙公になり、翌年、新嘉辟に遷りました。王臨は西漢王莽(孺子)始初元年8年に襃新公になり、翌年、皇太子に立てられました)。その後、金匱の文が至り、議者が皆こう言った『臨が雒陽を国にして統となるというのは、土中(天下の中心。洛陽)を拠点にして新室の統(皇統。後継者)になるという意味です。皇太子にするべきです。』しかしこの後、臨は久しく病を患い、治癒したものの不平(不調)(雖瘳不平)、朝見では茵(敷物)を持って輿にして移動している(原文「挈茵輿行」。敷物を敷いた台を人が持ちあげて、輿(こし)のようにして運んでいるという意味です)。王路堂で朝見する時は、西廂および後閣の更衣中(更衣中室。朝賀の際に服を帰る場所)に幕を張り、また皇后が疾を患ったため、臨は暫く本(本来の住居)を去って舍に就き、妃妾は東永巷に住んでいる(皇后の看病のために太子は太子宮を離れて臨時の部屋に住んでいます。太子の妃妾は東永巷にいます)
壬午の日、列風が王路の西廂および後閣の更衣中室を破壊した。昭寧堂の池の東南にある楡の樹で、大きさ十囲もあるものを東に倒し、東閣を撃った。東閣は東永巷の西垣である。全て破折(破壊切断)され、瓦が壊れ、屋根が飛ばされて木が抜かれたので、予は甚だ驚いた。
また、候官が上奏して『月が心(心宿)の前星を犯した』と言い、この占(予兆)に予は甚だ憂いた。伏して紫閣図文を念じるに、『太一と黄帝はどちらも瑞を得て僊(仙人)になり、後世の襃主(大主)は終南山に登るべきだ』とある。いわゆる新遷王というのは、太一新遷(仙人になった太一。「遷」は「僊」「仙」に通じます)の後(後継者)である。統義陽王とは、五統(五倫。君臣、父子、兄弟、夫婦、朋友の関係における道徳)を用い、礼義によって陽(恐らく終南山を指します。「陽」は山の南を意味します)に登り、上遷(上仙。成仙。仙人になること)した者の後である(原文「用五統以礼義登陽上遷之後」。紫閣図文によると、太一と黄帝は仙人になり、後世の襃主は終南山に登りました。太一は太一新遷になり、その後継者は新遷王で、王安を指します。終南山に登った襃主の後代に当たるのは統義陽王で、王臨を指します。王安が先で、王臨が後です。王莽は王安を太子に立てるために符文を利用しました)。臨は兄がいるのに太子を称したので、名分が正しくない(名不正)。宣尼公孔子はこう言った『名分が正しくなければ言葉が順じなくなり(正しくなくなり)、その結果、刑罰が中正を失って、民が手足を置く場所が無くなる(『論語』に元になる言葉があります。手足を置く場所が無くなるというのは、恐慌のためどうすればいいか分からなくなるという意味です。原文「名不正,則言不順,至於刑罰不中,民無錯手足」)。』即位以来、陰陽が調和せず、風雨が時に応じず、しばしば枯旱蝗螟に遇って災となり、穀稼穀物が鮮耗(欠乏)し、百姓は飢えに苦しみ、蛮夷が猾夏(中華を侵すこと)し、寇賊が姦宄(奸悪)を行い、人民は正営(怔営。恐れて不安な様子)して手足を置く場所もない(無所錯手足)。深くこの咎を考えると、名分が正しくないこと(名不正)に原因がある。よって安を新遷王(太子に当たります)に立てて臨を統義陽王にし、こうすることで二子を保全し、子孫を千億にし、外は四夷を除き(外攘四夷)、内は中国を安んじることを願う。」
 
[] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』と『資治通鑑』からです。
この月、杜陵西漢宣帝陵)便殿の乗輿(皇帝の車や器物)や虎文衣で、廃されて(既に使えなくなって)室内の匣(箱)にしまわれていた物が、外に出て自然に外堂の上に立ちました。久しくして地に倒れます。
吏卒がそれを見て報告しました。
 
王莽がこの出来事を嫌って書を下しました「黄色は宝であり、赤は厮(奴隷。雑用の僕人)である(宝黄厮赤)。よって郎や従官は皆、絳(赤)を衣とさせる。」
黄色は土徳(新)の色、赤は火徳(漢)の色です。
 
 
 
次回に続きます。