新更始時代31 新王莽(三十一) 土功の象 20年(2)

今回は新王莽地皇元年の続きです。
 
[] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』と『資治通鑑』からです。
望気(気の観測)を技能とする者の多くが「土功(土木建築)の象」があると言いました。
王莽も四方の盗賊が多いのを見て、自分自身は安定していて万世の基礎を建てられる者であることを天下に示したいと思い、書を下して言いました「予は命を受けて陽九の戹(厄)、百六の会に遭い、府帑(国庫)が空虚で百姓が匱乏(欠乏)し、宗廟もまだ修められないため(修築できないため)、とりあえず明堂太廟で祫祭(合祀)し、夙夜(朝から夜まで)永く思念して寧息(休息)できなかった。深く思うに、吉昌(吉祥の興隆)が今年より良いことはないので、予が波水の北、郎池の南を卜したところ(波水は川、郎池は池です。『漢書』顔師古注によると、どちらも上林苑にあります)、玉食(美食。占卜の吉兆)であった(惟玉食)。予がまた金水の南、明堂の西を卜したところ、それも玉食だった(亦惟玉食)。よって予が自ら建築しよう。」
こうして長安城南(『漢書』顔師古注によると、金水の南、明堂の西に当たります)で九廟(下述)の建築が始まりました。総面積は百頃に及びます。
 
九月甲申(中華書局『白話資治通鑑』は「甲申」を恐らく誤りとしています)、王莽が車上に立って巡視し、自ら築(土を打つ槌)を挙げて三回地面を打ちました。
司徒王尋、大司空王邑が符節を持ち、侍中常侍執法杜林等の数十人が建築を監督します。
 
崔発と張邯が王莽に言いました「徳が盛んな者は礼節が豊富なので(文縟)、その制度を崇高にして(建設の規模を壮大にして)海内に宣視し、しかも万世の後が再び加えられなくさせるべきです(子孫が手を加えられないほど大規模な建築にするべきです)。」
王莽は天下の工匠による図画(設計図)を広く集め、望法(恐らく測量の方法です)を使って計算しました。
吏民で義によって金銭や穀物を納めて建設を援助する者が道に連なります(駱驛道路)
長安城西の苑中にあった建章、承光、包陽、大台、儲元宮および平楽、当路、陽禄館等(『漢書』顔師古注によると全て上林苑内の宮館です)、合わせて十余個所を破壊撤去し、その木材や瓦を取って九廟を建設しました。
 
この月(九月)から大雨が六十余日も続きました。
 
民に命じて米を納めさせ、六百斛を納めたら郎にしました。元々郎吏の地位にいる者は秩と賜を増やして附城に到らせます。
 
九廟の建設が進みました。
一は黄帝の太初祖廟、二は帝虞(虞帝)の始祖昭廟、三は陳胡王の統祖穆廟、四は斉敬王(田敬王)の世祖昭廟、五は済北愍王の王祖穆廟で、この五廟は祖廟といい、永遠に取り壊さないことになりました。
六は済南伯王(王遂)の尊禰昭廟、七は元城孺王(王賀)の尊禰穆廟、八は陽平頃王(王禁)の戚禰昭廟、九は新都顕王(王曼)の戚禰穆廟で、この四廟は親廟といいます(新王莽始建国元年9年参照)
殿は全て重屋(屋根が二重になっていること。または高層の建物)で、太初祖廟は東西南北各四十丈、高さ十七丈あり、他の廟はその半分です。銅で薄櫨を作り(「薄櫨」は「斗栱」です。柱と梁が結合する部分で組木で装飾されます。王莽は木材の周りに銅を塗りました)、金銀の琱文(彫刻模様)で装飾し、百工の巧を極め尽くします。
廟を高い場所に建立したため、周辺の低地もそれに伴って地形を高くしました(帯高増下)
功費(工費)は数百鉅万(巨万)に及び、卒徒の死者は一万人以上に上りました(九廟は新王莽地皇三年・22年に完成します)
 
[] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』と『資治通鑑』からです。
鉅鹿の男子馬適求(馬適が氏、求が名です)等が燕趙の兵を挙げて王莽を誅殺する計を謀りました。
大司空士王丹がそれを察知して報告します。
王莽は三公大夫に党与を逮捕調査させました。
関連した郡国の豪傑数千人が全て誅殺されます。
王丹は輔国侯に封じられました。
 
[] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』からです。
王莽が時令(時宜)に順じていない法令を打ち立ててから、百姓が怨恨しましたが、王莽はそれでもこの状況に安寧としており、書を下してこう言いました「この壹切(一切。臨時)の法(春夏も死刑を実行するという正月に出した法令を指します)を設けて以来、常安長安や六郷の巨邑(大邑)の都において、警報の太鼓がほとんど鳴らず(枹鼓稀鳴)、盗賊が衰えて少なくなり、百姓が土に安んじ、豊作になった(歳以有年)。これは権(臨時の対策)を立てたおかげである(立権之力)。しかし今は胡虜がまだ滅誅せず、蛮西南夷がまだ絶焚(絶滅)せず、江湖海沢が麻沸(乱麻沸騰。混乱)して盗賊が破殄(破滅。消滅)し尽くしていない。また、宗廟社稷の大作(大建設)を奉じて興したので、民衆が動揺している。よってまた壹切を復してこの令を行い、二年地皇二年。翌年)が尽きたら止めることにする。こうして元元(民衆)を全うし、愚姦を救済する(愚姦の者を悪の道から救済する)。」
 
[] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』からです。
この年、大小銭を廃し、改めて貨布を発行しました。貨布は長さ二寸五分、広さ一寸で、貨銭二十五枚に値します。貨銭は直径一寸、重さ五銖で、一枚が一銭に値します(枚直一)
こうして両品(二種類)が並行することになりました。
 
以上は『王莽伝下』の記述で、本年に大小銭を廃して貨布を発行しています。これに対して『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)は「『漢書食貨志』では貨布を改めて造ったのは天鳳元年14年)だが、『王莽伝』では地皇元年になっている。しかしこれ地皇元年)は大銭が尽きた年のはずだ。地皇元年に至って完全に流通できなくなったのであり、その年に始めて貨布を作ったのではない」と解説しています。
資治通鑑』は『食貨志』に従って新王莽天鳳元年14年)にこう書いています(既述)
「王莽がまた令を下して金、銀、亀、貝の貨幣を回復した。ただし価値を増減して調整し、大小銭を廃して、改めて貨布、貨泉の二品を並行することにした。
大銭が久しく流通していたため、廃止しても民の携帯を禁止できないことを恐れ、民が暫く大銭を使うことを許可し、六年経ったら大銭を携帯できないことにした。
毎回、銭を変えるたびに、民が破産して(民用破業)多くの人が刑に陥ることになった。」
 
漢書王莽伝下(巻九十九下)』に戻ります。
貨幣を勝手に鋳造したり、偏って布貨ばかり使うことを禁止し、伍人(近隣五人組の家族)がそれを知っていながら検挙しなかった場合は全て官の奴婢に落としました。
 
資治通鑑』の記述は『王莽伝下』と少し異なります。以下、『資治通鑑』からです。
王莽は個人で銭を鋳造した者を死刑に処し、宝貨を批判した者を四裔に投じましたが(新王莽始建国二年10年参照)、法を犯す者が多いため、刑罰が間に合いません(不可勝行)
そこで法を改めて軽くしました。泉布(貨幣)を個人で鋳造した者は妻子と共に官の奴婢に落とし、官吏や近隣の伍(五人組)が知っていながら挙告(検挙告発)しなかったら同罪としました。
宝貨を誹謗した者は(非沮宝貨)、民は一年の労役に従事させ(罰作一歳)、官吏は免官することにしました。
 
[十一] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』と『資治通鑑』からです。
太傅平晏が死にました。
予虞唐尊を太傅に任命します。
 
唐尊は「国が空虚になって民が貧困している(国虛民貧)。この咎は奢泰(過度な奢侈)にある」と言い、身には短衣小褏(小褏は半袖です)を着て、牝馬柴車牝馬が牽く装飾が無い車)に乗り(漢が隆盛だった頃は誰もが牡馬に乗り、牝馬に乗ることを恥じとしました。牡馬は贅沢の証です。西漢景帝後三年141年参照)(座臥は)藁を敷き、(食事は)瓦器(粗末な陶器)を使い、またそれを公卿にことごとく贈りました(『漢書』顔師古注は「瓦器に食物を盛って公卿に贈った」と解説しています)
外出した時に男女が道を分けて歩いていないのを見たら、唐尊は自ら車を降りて象刑(象徴としての刑罰。平帝元始五年5年参照)を行い、赭幡(「赭」は赤褐色、「幡」は旗ですが、ここでは赤い水に浸した布です)でその衣服を染めて汚しました。
 
王莽はこれを聞いて悦び、詔を下して公卿を訓戒し、「それ(唐尊)と等しくなることを思え」と言いました(原文「思與厥斉」。『漢書』顔師古注によると、『論語』に「見賢思斉(賢人を見たらその人と同じようになることを思う)」とあり、王莽はこれを真似しました)
唐尊は平化侯に封じられました。
 
[十二] 『資治通鑑』からです。
汝南の人郅惲は天文暦数に明るく、漢が必ず再び命を受けると判断し、上書して王莽にこう言いました「上天が垂戒し(天変によって戒めを下し)、陛下を悟らせて臣位に就かせることを欲しています。これを取るのも天により、還すのも天によることができれば(帝位を得るのも返すのも天に従うことができれば。原文「取之以天,還之以天」)知命(天命を知ること)といえます。」
王莽は激怒して郅惲を詔獄に繋ぎました。
冬を越えて大赦があったため(次の大赦は翌年閏八月に記述があります)、郅惲は釈放されました。
 
[十三] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』からです。
当時、南郡の張霸、江夏の羊牧、王匡等が雲杜の緑林で挙兵し(新王莽天鳳四年17年参照)、下江兵と号しました。それぞれ万余人の衆がいます。
 
漢書』の注は「元は江夏雲杜県で挙兵したが、後に分れて西上し、南郡に入って藍田に駐屯した。そのため下江兵と号した」と解説しています。
しかし『資治通鑑』はこの記述を引用しておらず、『後漢書劉玄劉盆子列伝(巻十一』を元に、新王莽天鳳四年17年)に「王匡、王鳳、馬武、王常、成丹等が挙兵して緑林山に隠れた」と書いています。緑林の勢力は「下江兵」ではなく、「緑林兵」と呼ぶはずです。
また、『後漢書劉玄劉盆子列伝』と『資治通鑑』では、二年後の新王莽地皇三年22年)に「緑林兵」が分かれて「下江兵」と「新市兵」を形成しますが、「下江兵」と号したのは王常、成丹等で、王鳳、王匡、馬武等は北の南陽に入って「新市兵」と号しています。張霸、羊牧の名は見られません。恐らく『王莽伝下』の記述に誤りがあります。
 
[十四] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』からです。
武功(県)中水郷の民の三舍(三家)が陥没して池になりました。
 
 
 
次回に続きます。

新更始時代32 新王莽(三十二) 王臨事件 21年(1)