新更始時代32 新王莽(三十二) 王臨事件 21年(1)

今回は新王莽地皇二年です。三回に分けます。
 
新王莽地皇二年
辛巳 21
 
[] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』からです。
正月、州牧の位を三公と同等にし、怠惰な官員を検挙させました。
また改めて牧監に副を置きました。秩は元士と同等とし、法冠を被り、漢の刺史と同じ任務を行います。
 
[] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』と『資治通鑑』からです。
この月(正月)、王莽の妻が死にました。孝睦皇后という諡号が贈られ、渭陵長寿園西(渭陵は元帝陵、長寿園は王政君の陵園です)に埋葬されます。永遠に文母(王政君)に侍らせ、陵を「億年」と命名しました。
 
以前、王莽が二回も自分の子を殺したため(王獲の死は西漢哀帝元寿元年2年、王宇の死は西漢平帝元始三年3年参照)、妻は涕泣によって失明してしまいました。
王莽は太子王臨を宮中に住ませて母を養わせました(太子を廃される前の事です。前年にも王臨が母の看病をしたという記述がありました)
王莽の妻の傍に侍者原碧という者がおり、王莽の幸を受けました。
後に王臨も原碧と姦通し、事が漏れることを恐れたため、二人で王莽を殺す方法を謀りました。
王臨の妻劉愔は国師劉秀(劉歆)の娘で、星の観測ができました。劉愔が王臨に「もうすぐ宮中で白衣の会があります」と言ったため、王臨は喜んで謀が成功すると信じました。
「白衣」は喪服で、「白衣の会」は葬儀を指します。『資治通鑑』胡三省注によると、木星と金星が重なったら白衣の会があり、土星と金星が重なっても白衣の会があるとされました。宮中というのは星が会った場所から占ったようです。
 
王臨は後に太子を廃されて統義陽王になりました(前年)。宮内から出されて外第(外邸)に住むようになり、ますます憂恐します。
 
王莽の妻の病がひどくなった時(病困)、王臨が母に書を送りました「上(陛下)は子や孫に対して至厳なので、以前、長孫(『資治通鑑』胡三省注によると、王宇の字です)と中孫(同じく、王獲の字です)は共に三十歳で死にました。今、臣臨もちょうど三十なので、一旦にして中室を保てず、死命がどこにあるのか分からなくなることを誠に恐れます。」
この部分の原文は「誠恐一旦不保中室,則不知死命所在」です。『漢書』の注を見ると、李竒は「中室は王臨の母である」とし、晋灼は「長楽宮中殿である」としています。どちらも「王臨の母が死んだら王臨の命も危なくなる」という意味になります。
しかし顔師古はこう解説しています「二説とも非である。中室は室中の意味で、王臨は室中で自分を保全したいと欲しているが、それができなくなると言っている。」
顔師古の解釈では、「王臨は自分の家で安逸に生活して生涯を終えたいと思っているが、父が厳しく、しかも三十歳になったので、一旦にして家を失い、どこで死ぬかも分からなくなることを恐れている」という意味になります。
 
王莽が妻の病を看に行った時に王臨の書を発見しました。王莽は激怒して悪意があるのではないかと疑い、母が死んでも喪に参加できないようにしました。
皇后が死んで埋葬が終わると、王莽は原碧等を捕えて審問しました。原碧は通姦と謀殺の事実を認めます。
王莽はこれを秘密にしようと欲したため、人を送って案事使者(取り調べ担当)を勤めた司命従事(司命の属官)を殺し、獄中に埋めてしまいました。家人でも司命従事の居場所が分からなくなります。
 
王莽が王臨に薬を下賜しました。しかし王臨は飲もうとせず、自分を刺して死にました。
王莽は侍中・票騎将軍同説侯(恐らく元太師・王舜の子・王林です。新王莽地皇四年・玄漢更始元年・23年に触れます)を派遣して魂衣・璽韍を贈り、策書を発してこう言いました「符命の文が臨を統義陽王に立てた。これは新室が即位して三万六千歳後に、臨の後代となった者が、龍が飛翔するように興隆する(当龍陽而起)ことを言っていた。しかし以前、誤って議者の意見を聴き、臨を太子にしたため、列風の変があった。そこで符命に順じて統義陽王に立てた。それ以前もそれ以後も、(臨は)信順(信頼服従せず、その佑(福)を蒙らず、若くして命を落とした(夭年隕命)。ああ、哀しいことだ(嗚呼哀哉)。行跡を考慮して諡号を下賜し、諡して繆王とする(迹行賜謚謚曰繆王)。」
王莽は国師公・劉秀にも詔を下して「臨は本来、星を知らなかった。事は愔から起きたのだ」と言いました。
劉愔も自殺しました。
 
[] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』と『資治通鑑』からです。
この月(正月)、新遷王王安も病死しました。
 
以前、王莽が列侯(新都侯)として封国にいた時(王莽は西漢哀帝建平二年5年に封国に帰され、哀帝元寿元年2年に京師に呼び戻されました)、侍者の増秩、懐能、開明を幸しました。懐能は男児王興を、増秩は男児王匡と女児を、開明は女児王捷を生みます。
しかし出生が明確ではないため(『漢書』顔師古は「侍者は外の人と私通した可能性があるので、生まれた子女の出自を明らかにできない」と解説しています)、三人が生んだ子を全て新都国に留めました。
 
王安の病が重くなった時、王莽は自分の子がいなくなることを悩みました。そこで、王安の替わりに上奏文を作り、王安にこう言わせました「興等の母は微賎ですが、属(関係)はやはり皇子です。棄てるべきではありません。」
王莽は奏章を群公に示しました。
群公が皆言いました「王安は兄弟に対して愛があります(友于兄弟)。春夏になったら(王興等に)封爵を加えるべきです。」
王莽は王車を使って使者を派遣し、王興等を迎え入れました。
王興を功脩公に、王匡を功建公に、王を睦脩任に、王捷を睦逮任に封じます。
 
孫の公明公王寿も病死しました(これは『王莽伝下』の記述です。王寿は王宇の子です。「公明公」は「功明公」の誤りです。新王莽始建国元年9年参照)
 
王莽は旬月(一カ月)で四喪(皇后、王臨、王安、王寿)を経験することになりました。漢の孝武廟と孝昭廟を破壊し、子や孫をそれらの地に分けて埋葬しました。
 
[] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』と『資治通鑑』からです。
魏成大尹(『資治通鑑』胡三省注によると、王莽は魏郡を魏成に改名しました)李焉と卜者王況が謀議し、王況がこう言いました「新室が位に即いて以来、民田(私有地)も奴婢も売買ができなくなり、しばしば銭貨が改められ、徴発も煩数(頻繁)で、軍旅が騒動し、四夷が並んで侵し、百姓が怨恨し、盗賊が並び起きているので、漢家が復興するはずです(漢家当復興)。君の姓は李で、李の音は徵であり、徵は火なので、漢輔(漢室の補佐)になるはずです(君姓李,李音徴,徴火也,当為漢輔)。」
この「徵」は五音の一つで、「李」と近い音にありました。五音は「宮、商、角、徴、羽」で、「徴」は日本語では「ち」と読みます。現代中国語でも、五音の「徴」は「zhi」で、「李li」と子音が同じです。
五音には相応する五徳がありました。宮は土、商は金、角は木、徴は火、羽は水です。
漢朝の火徳なので、「徴」に符合します。
 
王況が李焉のために讖書(預言書)を作って言いました「文帝が発忿し、地下で軍を促して、北は匈奴に告げ、南は越人に告げた。江中の劉信(翟義の挙兵が失敗してから行方が分からなくなっています。西漢王莽(孺子)居摂二年7年参照)が敵を執って(王莽を敵と確定して)怨みに報い(執敵報怨)、再び古先を続け(漢室を継続させ)、四年で軍を発するだろう。また、江湖に盗がおり、自ら樊王(樊崇を指します)を称し、姓を劉氏とし、万人が行(隊)を成し、赦令を受け入れず、秦長安と雒陽を動かそうと欲している。十一年で互いに攻め入り、太白が光を増し(太白揚光)、歳星が東井二十八宿の一つ)に入り、その号(劉信や樊崇等の号令)が行われるだろう。」
 
更に王況は王莽の大臣の吉凶を述べて、それぞれに日期がありました(大臣の死期を預言しました)。これらの文書は合わせて十余万言になります。
 
李焉が官吏にこの文書を書き写させました。ところが官吏は逃亡して朝廷に報告しました。
王莽は使者を派遣して現地で李焉を逮捕し、獄に入れて取り調べを行いました。
李焉も王況も殺されました。
 
[] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』と『資治通鑑』からです。
三輔で盗賊が乱れ起きたため、捕盗都尉官を置き、執法謁者に長安城内の賊を追撃させました。鳴鼓(太鼓)と攻賊幡(賊を攻めることを示す旗)を建てて使者(恐らく「執法謁者」を指します)がその後に続きます。
 
太師犧仲(『資治通鑑』胡三省注によると、太師は春を主管するので、属官として羲仲官を置きました。羲仲は帝堯の時代に東方や春を担当しました)景尚、更始将軍護軍(『資治通鑑』胡三省注によると、諸将軍は皆、護軍を置きました)王党に兵を率いて青州と徐州を撃たせ、国師和仲(『資治通鑑』胡三省注によると、国師は秋を主管するので、属官として和仲官を置きました。和仲は帝堯の時代に西方や秋を担当しました)曹放に郭興を助けて句町を撃たせました。
 
[] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』からです。
王莽が匈奴を撃とうと欲したため、天下の穀幣を西河、五原、朔方、漁陽に輸送させました。それぞれの郡に集められた穀幣は百万を数えます。
 
この「穀幣」は「穀物や貨幣」を指すと思われます。「百万」というのが、百万銭に値する物資という意味なのか、重量容量を意味するのかは分かりません。
 
資治通鑑』も同じ文を引用していますが、「穀幣」を「穀帛」に書き換えています。匈奴遠征のために貨幣を辺境に集める必要はないはずなので、こちらの方が意味が通じるように思えます。
 
以下、『資治通鑑』からです。
この頃、須卜善于後安公須卜当が病死しました。
 
王莽は庶女(正妻以外の妃妾が生んだ娘)を須卜当の子である後安公奢に嫁がせました。
漢書匈奴伝下(九十四下)』によると、王莽の庶女は陸逯任(睦逮任)を指します。陸逯任は王莽の侍者開明が生んだ王捷です。
また、顔師古注は「奢は元々侯だったが(新王莽天鳳二年・15年、骨都侯当が後安公になった時、その子奢も後安侯に封じられました)、王莽が娘を嫁がせたため、爵を進めて公になった」と解説しています。
 
王莽が後安公奢を甚だ厚く尊寵(尊重寵愛)したのは、いずれ兵を出して匈奴単于(善于)に立てることを欲していたからです。
後に王莽が敗れた時、伊墨居次王昭君の娘)と奢も死亡しました。
 
 
 
次回に続きます。

新更始時代33 新王莽(三十三) 相次ぐ挙兵 21年(2)