新更始時代33 新王莽(三十三) 相次ぐ挙兵 21年(2)
今回は新王莽地皇二年の続きです。
秋、霜が降って菽(豆類)を殺しました。
関東を大飢饉が襲い、蝗害も起きました。
王莽が私鋳銭の法(個人による貨幣鋳造を禁止する法)を軽くしたため、法を犯す者が増えてしまいました。
鍾官に入った者は夫婦を換えられ(家族を離すために他の者と再婚させられました)、愁苦のために死んだ者は十分の六七に上りました。
士孫喜(『王莽伝下』は「孫喜」としていますが誤りです)、景尚、曹放等が各地の賊を撃ちましたが、どれも勝てず、逆に軍師(軍隊)が放縦(無秩序)だったため百姓がますます困窮しました。
王莽は王況の讖書に「荊楚が興きて李氏が輔(補佐)となる(荊楚当興,李氏為輔)」と書かれていたため、これを厭(圧)しようと思い、侍中・掌牧大夫・李棽を大将軍・揚州牧に任命しました。「聖」という名を下賜し、兵を指揮して奮撃(奮戦)させます。
顔師古注は「旧名を改めて、聖によって讖に代えた」と書いています。恐らく「棽」の古音が「讖」に近かったため、李棽を選んで名を「聖」に変えたのだと思います。
『説文解字』を見ると、「讖」の発音は「楚蔭切」、「棽」の発音は「丑林切」とありますが、これがどういう音かは残念ながら分かりません。
現代中国語では、「讖」は「chen」の四声、「棽」は「chen」または「shen」の一声です。
王莽は儲夏を中郎に任命して派遣し、瓜田儀が投降して出てくるように説得させました。
瓜田儀は投降の文書を書きましたが、来る前に死んでしまいました。
しかし敢えて投降する者はいませんでした。
そこで王莽は中散大夫(『資治通鑑』胡三省注によると、中散大夫は秩六百石です。当時は司中に属しています)と謁者各四十五人を天下に分けて巡行させ、郷里で尊崇されており、家に淑女がいる者を広く選んでその名を提出させました。
王莽が夢で長楽宮の銅人五体が起ちあがるのを見ました。
この夢を嫌った王莽は、銅人の銘に「皇帝が初めて天下を兼併する(皇帝初兼天下)」という文が書かれていることを思い出し、すぐに尚方の工人を送って夢で見た銅人の膺文(胸に書かれた文字)を鐫滅(削り取ること)させました。
王莽が漢高廟の神霊を感じたため(『漢書』顔師古注は「夢で譴責を見た」と書いています)、虎賁武士を送って高廟に入らせ、剣を抜いて四面を提撃(激しく切りつけること)させたり、斧で戸牖(戸や窓)を破壊させたり、壁に桃湯(桃を煮て作った汁。古代は魔除けの効果があるとされました)をかけさせたり、赭鞭(赤い鞭)で打たせました。
中軍北塁に関して、『漢書』顔師古注は「北軍塁の兵士を高廟寝中に移して屯居させた」と書いています。『漢書・百官公卿表上』を見ると、「中塁校尉は北軍塁門内を管理した」とあるので、「中軍北塁」は誤りで、北軍を管理する「中塁校尉」が正しいかもしれません。
ある人が「黄帝の時は華蓋(車につける豪勢な傘)を建てて登仙した」と言ったため、王莽も九重の華蓋を造りました。高さ八丈一尺で、傘の骨になる部分を黄金で加工し、羽毛で傘を造り(金瑵羽葆)、内部に祕機(外から見えない機械)がついた四輪車の上にそれを載せ(原文「載以祕機四輪車」。『漢書』の注で服虔が「蓋(傘)の高さが八丈あり、その杠(支柱)には屈膝(膝のように折り曲げる部分)がついていて、上下に屈伸できた」と書いています。これを見ると「祕機」は傘の高さを調整する機械のようです。顔師古は「祕機」について「外から見えないので祕機という」としか書いておらず、機能には触れていません)、六頭の馬が車を牽き、力士三百人が黄色い衣幘(衣服と頭巾)をつけて護衛し、車上の人が鼓を撃ち、輓者(車を牽く者)が皆「登僊(登仙)」と叫びます。
王莽が外出する時は王莽の前を進ませました(華蓋車は王莽の馬車ではありません。行列の先頭を進みます。翌年に述べます)。
百官は秘かに「これは輭車に似ている。僊(仙人)の物ではない」と言いました。
平原の女子・遲昭平(『資治通鑑』胡三省注によると、遲氏は孔子の弟子・樊須、字は子遲の子孫です。字が氏になりました。または古の賢人・遲任の子孫ともいいます)は経の解説ができて博では八投しました(能説経博以八投)。
この部分は理解が困難です。『漢書』の注によると、「経」は「博奕経」を指します。「博奕」は将棋や双六のような遊戯なので、「博奕経」は「遊戯を解説した書」のようです。
「博」は通常は「六博」といい、六枚の「箸(細長いサイコロのようなもの)」を投げて、出た目に合わせて駒を進め、相手の駒を攻める遊戯です。「箸」は「箭」ともいいました。「八投」について、『漢書』の注が「八箭を投げた」と解説しているので、遲昭平は特殊な遊び方をしていたようです。博に精通していたため人気があったのかもしれません。
王莽が群臣を召して賊を捕える方略を問うと、皆こう言いました「これは天の囚人、歩く死体なので(天囚行尸)、命は漏刻にあります(長生きできません)。」
元左将軍・公孫禄も招きに応じて議論に参加しました。
公孫禄が言いました「太史令・宗宣(『資治通鑑』胡三省注によると、宗氏は晋の伯宗の後代です。伯宗は宋桓公から出ています)は星暦を典じ(管理し)、気変を候じて(観測して)いますが、凶を吉とし、天文を乱し、朝廷を誤らせています。太傅・平化侯(唐尊)は虚偽を飾って名声と地位を盗んでおり(媮名位)、『人の子弟を害している(原文「賊夫人之子」。『論語』の言葉です)』というものです。国師・嘉信公(恐らく「嘉新公」の誤りです。劉秀です)は五経を顛倒(転倒)させ、師法を壊し(毀師法)、学士を疑惑(惑乱)させています。明学男・張邯、地理侯・孫陽は井田を造って民に土業(農地開拓)を棄てさせました。犧和・魯匡は六筦を設けて工商を困窮させました。説符侯・崔発は阿諛して安全を求め(阿諛取容)、下の状況を上に通じなくしています。この数子(数人)を誅して天下を慰めるべきです。」
諫言に怒った王莽は虎賁に命じて公孫禄を連れ出させました。
しかしその言を一部採用して魯匡を五原卒正に左遷しました。百姓が(六筦を)怨んでいたからです。六筦は魯匡一人で作った制度ではありませんが、王莽は大衆の意を満たすために魯匡を外に出しました。
元々、四方の民は飢寒窮愁のために起ちあがって盗賊になり、徐々に集団になりましたが、常に豊作になったら郷里に帰ることができると思っていました。万を越える集団になっても大号(天子や将軍の号)を名乗らず、巨人、従事、三老、祭酒と称すだけで、城邑を攻略しようともせず、転々と食を求めて略奪し、その日暮らしをするだけでした(日闋而已)。
新の諸長吏や牧守で命を落とす者もいましたが、皆、乱闘の中で負傷して命を落としたのであって、賊が敢えて殺そうとしたわけではありません。
しかし王莽はこれらの事情を理解しませんでした。
次回に続きます。