新更始時代33 新王莽(三十三) 相次ぐ挙兵 21年(2)

今回は新王莽地皇二年の続きです。
 
[] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』と『資治通鑑』からです。
秋、霜が降って菽(豆類)を殺しました。
関東を大飢饉が襲い、蝗害も起きました。
 
[] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』と『資治通鑑』からです。
王莽が私鋳銭の法(個人による貨幣鋳造を禁止する法)を軽くしたため、法を犯す者が増えてしまいました。
発覚したら伍人(伍人組)連座し、官の奴婢に落とされます。男子は檻車、児女子(女子供)は徒歩で、鉄鎖を首に繋げて鍾官(貨幣を鋳造する官です)に連れていかれました。その数は十万を数えます。
鍾官に入った者は夫婦を換えられ(家族を離すために他の者と再婚させられました)、愁苦のために死んだ者は十分の六七に上りました。
 
[] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』と『資治通鑑』からです。
士孫喜(『王莽伝下』は「孫喜」としていますが誤りです)、景尚、曹放等が各地の賊を撃ちましたが、どれも勝てず、逆に軍師(軍隊)が放縦(無秩序)だったため百姓がますます困窮しました。

[] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』からです。
王莽は王況の讖書に「荊楚が興きて李氏が輔(補佐)となる(荊楚当興,李氏為輔)」と書かれていたため、これを厭(圧)しようと思い、侍中掌牧大夫李棽を大将軍揚州牧に任命しました。「聖」という名を下賜し、兵を指揮して奮撃(奮戦)させます。
 
顔師古注は「旧名を改めて、聖によって讖に代えた」と書いています。恐らく「棽」の古音が「讖」に近かったため、李棽を選んで名を「聖」に変えたのだと思います。
説文解字』を見ると、「讖」の発音は「楚蔭切」、「棽」の発音は「丑林切」とありますが、これがどういう音かは残念ながら分かりません。
現代中国語では、「讖」は「chen」の四声、「棽」は「chen」または「shen」の一声です。
 
[十一] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』と『資治通鑑』からです。
上谷の人儲夏(『資治通鑑』胡三省注によると、「儲夏」は姓名です。戦国時代の斉に儲子がいました)が瓜田儀(新王莽天鳳四年17年参照)を説得することを願い出ました。
王莽は儲夏を中郎に任命して派遣し、瓜田儀が投降して出てくるように説得させました。
瓜田儀は投降の文書を書きましたが、来る前に死んでしまいました。
王莽はその死体を求めて埋葬し、冢(墓)や祠室(祠)を造り、瓜寧殤男という諡号を贈りました。こうすることで他の者も招きに応じることを期待します。
しかし敢えて投降する者はいませんでした。
 
[十二] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』と『資治通鑑』からです。
閏月丙辰(中華書局『白話資治通鑑』は「閏八月」としています。「丙辰」は二十七日です)、天下に大赦しました。
 
天下の大服(皇后の喪。本年一月に皇后が死に、喪に服していました)と民の私服(個人的な喪)大赦の)詔書以前から始めていたものは全て解除させました。
 
[十三] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』と『資治通鑑』からです。
郎官陽成脩(陽成が氏、脩が名です)が符命を献上し、王莽に再び民の母(皇后)を立てるべきだ(継立民母)と勧めました。また、「黄帝は百二十女によって神僊(神仙)に到りました」と言いました。
資治通鑑』胡三省注によると、漢の儒者は「天子には(皇后の下に)三夫人、九嬪、二十七世婦、八十一御妻がいる」と考えていました。合わせて百二十人になります。
 
そこで王莽は中散大夫(『資治通鑑』胡三省注によると、中散大夫は秩六百石です。当時は司中に属しています)と謁者各四十五人を天下に分けて巡行させ、郷里で尊崇されており、家に淑女がいる者を広く選んでその名を提出させました。
 
[十四] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』からです。
王莽が夢で長楽宮の銅人五体が起ちあがるのを見ました。
始皇帝の時代、十二人の長人(大人。巨人)が臨洮に現れたため、始皇帝が十二体の銅人を造りました。漢代になって銅人は長楽宮の門前に置かれました(秦始皇帝二十六年221年参照)
 
この夢を嫌った王莽は、銅人の銘に「皇帝が初めて天下を兼併する(皇帝初兼天下)」という文が書かれていることを思い出し、すぐに尚方の工人を送って夢で見た銅人の膺文(胸に書かれた文字)を鐫滅(削り取ること)させました。
 
次は『漢書王莽伝下(巻九十九下)』と『資治通鑑』からです。
王莽が漢高廟の神霊を感じたため(『漢書』顔師古注は「夢で譴責を見た」と書いています)、虎賁武士を送って高廟に入らせ、剣を抜いて四面を提撃(激しく切りつけること)させたり、斧で戸牖(戸や窓)を破壊させたり、壁に桃湯(桃を煮て作った汁。古代は魔除けの効果があるとされました)をかけさせたり、赭鞭(赤い鞭)で打たせました。
車校(『資治通鑑』胡三省注によると、漢代は虎賁校尉が軽車を管理しました。この軽車校尉は王莽が置いた官です)を高廟の中に住ませ、中軍北塁を高寝(高帝陵の宮殿)に住ませます。
中軍北塁に関して、『漢書』顔師古注は「北軍塁の兵士を高廟寝中に移して屯居させた」と書いています。『漢書百官公卿表上』を見ると、「中塁校尉は北軍塁門内を管理した」とあるので、「中軍北塁」は誤りで、北軍を管理する「中塁校尉」が正しいかもしれません。
 
次は『漢書王莽伝下(巻九十九下)』からです。『資治通鑑』は翌年に引用しています。
ある人が「黄帝の時は華蓋(車につける豪勢な傘)を建てて登仙した」と言ったため、王莽も九重の華蓋を造りました。高さ八丈一尺で、傘の骨になる部分を黄金で加工し、羽毛で傘を造り(金羽葆)、内部に祕機(外から見えない機械)がついた四輪車の上にそれを載せ(原文「載以祕機四輪車」。『漢書』の注で服虔が「蓋(傘)の高さが八丈あり、その杠(支柱)には屈膝(膝のように折り曲げる部分)がついていて、上下に屈伸できた」と書いています。これを見ると「祕機」は傘の高さを調整する機械のようです。顔師古は「祕機」について「外から見えないので祕機という」としか書いておらず、機能には触れていません)、六頭の馬が車を牽き、力士三百人が黄色い衣幘(衣服と頭巾)をつけて護衛し、車上の人が鼓を撃ち、輓者(車を牽く者)が皆「登僊(登仙)」と叫びます。
王莽が外出する時は王莽の前を進ませました(華蓋車は王莽の馬車ではありません。行列の先頭を進みます。翌年に述べます)
百官は秘かに「これは輭車に似ている。僊(仙人)の物ではない」と言いました。
漢書』顔師古注によると、「輭車」は喪(霊柩)を載せる車です。
 
[十五] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』と『資治通鑑』からです。
この年、南郡の人秦豊が一万人近い衆を集めました。
 
平原の女子遲昭平(『資治通鑑』胡三省注によると、遲氏は孔子の弟子樊須、字は子遲の子孫です。字が氏になりました。または古の賢人遲任の子孫ともいいます)は経の解説ができて博では八投しました(能説経博以八投)
この部分は理解が困難です。『漢書』の注によると、「経」は「博奕経」を指します。「博奕」は将棋や双六のような遊戯なので、「博奕経」は「遊戯を解説した書」のようです。
「博」は通常は「六博」といい、六枚の「箸(細長いサイコロのようなもの」を投げて、出た目に合わせて駒を進め、相手の駒を攻める遊戯です。「箸」は「箭」ともいいました。「八投」について、『漢書』の注が「八箭を投げた」と解説しているので、遲昭平は特殊な遊び方をしていたようです。博に精通していたため人気があったのかもしれません。
 
この遲昭平も河阻黄河の険阻な地)の中で数千人を集めました。
 
王莽が群臣を召して賊を捕える方略を問うと、皆こう言いました「これは天の囚人、歩く死体なので(天囚行尸)、命は漏刻にあります(長生きできません)。」
元左将軍公孫禄も招きに応じて議論に参加しました。
公孫禄が言いました「太史令宗宣(『資治通鑑』胡三省注によると、宗氏は晋の伯宗の後代です。伯宗は宋桓公から出ています)は星暦を典じ(管理し)、気変を候じて(観測して)いますが、凶を吉とし、天文を乱し、朝廷を誤らせています。太傅平化侯(唐尊)は虚偽を飾って名声と地位を盗んでおり名位)、『人の子弟を害している(原文「賊夫人之子」。『論語』の言葉です)』というものです。国師嘉信公(恐らく「嘉新公」の誤りです。劉秀です)五経を顛倒(転倒)させ、師法を壊し(毀師法)、学士を疑惑(惑乱)させています。明学男張邯、地理侯孫陽は井田を造って民に土業(農地開拓)を棄てさせました。犧和魯匡は六筦を設けて工商を困窮させました。説符侯崔発は阿諛して安全を求め(阿諛取容)、下の状況を上に通じなくしています。この数子(数人)を誅して天下を慰めるべきです。」
またこう言いました「匈奴は攻めてはならず、和親するべきです。臣が恐れるに、新室の憂は匈奴にはなく、封域の中にあります。」
諫言に怒った王莽は虎賁に命じて公孫禄を連れ出させました。
しかしその言を一部採用して魯匡を五原卒正に左遷しました。百姓が(六筦を)怨んでいたからです。六筦は魯匡一人で作った制度ではありませんが、王莽は大衆の意を満たすために魯匡を外に出しました。
 
元々、四方の民は飢寒窮愁のために起ちあがって盗賊になり、徐々に集団になりましたが、常に豊作になったら郷里に帰ることができると思っていました。万を越える集団になっても大号(天子や将軍の号)を名乗らず、巨人、従事、三老、祭酒と称すだけで、城邑を攻略しようともせず、転々と食を求めて略奪し、その日暮らしをするだけでした(日闋而已)
新の諸長吏や牧守で命を落とす者もいましたが、皆、乱闘の中で負傷して命を落としたのであって、賊が敢えて殺そうとしたわけではありません。
しかし王莽はこれらの事情を理解しませんでした。
 
 
 
次回に続きます。

新更始時代34 新王莽(三十四) 田況 21年(3)