新更始時代34 新王莽(三十四) 田況 21年(3)

今回で新王莽地皇二年が終わります。
 
[十六] 『後漢書劉玄劉盆子列伝(巻十一』と『資治通鑑』からです。
この年、荊州(姓名が伝わっていないため、史書は「某」としています)が奔命二万人を動員して緑林賊(緑林兵)を討伐しました。
しかし賊帥王匡等がそれぞれ部衆を率いて雲杜で迎撃し、荊州牧の軍を大破します。数千人を殺して輜重を全て奪いました。
 
荊州牧は北に帰ろうとしましたが、馬武等が再び遮撃(迎撃。道を遮って撃つこと)し、荊州牧の車の屛泥(車の前にある泥をよける板)に鈎をかけて驂乗(同乗する者)を刺殺しました。但し、荊州牧を殺そうとはしませんでした。
その後、賊は竟陵を攻めて攻略し、転じて雲杜、安陸を撃ちました。多数の婦女を奪ってから還って緑林に入ります。緑林兵は五万余口の勢力となり(元は七、八千人でした)、州郡が抑制できなくなりました。
 
[十七] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』と『資治通鑑』からです。
この年、大司馬士が豫州で按章(「章」は奏章です。「按章」は上奏された内容に基づいて任務を行うことです)した時に、賊に捕えられてしまいましたが、賊は大司馬士を県に送り帰しました。
朝廷に還った大司馬士が上書して捕まってから釈放されるまでの状況を報告すると、王莽は激怒して誣罔(欺瞞)とみなし、獄に下しました。
 
王莽が書を下して七公(四輔三公)を譴責しました「吏とは理(治理。管理)である。徳を宣揚して恩を明らかにし、こうすることで民を牧養するのが仁の道である。強を抑えて姦を督(監察)し、盗賊を捕えて誅すのが義の節である。しかし今はそうではない。盗が発してもすぐに得られず(賊が起きてもすぐに捕えられず)、群党を成すに至り、伝に乗る宰士を遮略している(道を塞いで略奪している)。ところが脱することができた士はまた妄りに自分からこう発言している『私が賊の罪を並べて譴責し(責数賊)、「なぜこのようにするのだ(何故為是)」と聞いたところ、賊は「ただ貧窮が原因になっているだけです」と言いました。賊は私を護って出しました(釈放しました)。』今、俗人で議している者も、多数がこのようである。思うに貧困飢寒が原因で法を犯して非を成す場合、大きなものは群盗、小さなものは偸穴(盗人。「穴」は壁に穴を開けて盗みを働くという意味です)となるだけで、この二科(二種類)に過ぎない。しかし今は結謀して党を連ねること千百を数えており、これは逆乱の大きなものである。これでも飢寒が原因だというのか(原文「豈飢寒之謂邪」。群盗は飢寒が原因でやむなく起ったのではなく、叛逆が目的である)。よって七公は卿大夫、卒正、連率、庶尹を厳敕し(厳しく訓戒し)、謹んで善民を牧養し、急いで盗賊を捕殄(捕獲殲滅)せよ。同心になって力を合わせようとせず、悪を憎んで賊を除く(疾悪黜賊)こともせず、妄りに飢寒が為したと言う者がいたら、全て捕えて繋ぎ、その罪を請え(その者の裁きを求めよ。原文「請其罪」)。」
この後、群下はますます恐れ、敢えて賊の真相を述べる者がいなくなりました。しかも自由に兵を発することもできないため、賊は完全に制御できなくなります。
 
しかし翼平連率田況だけはかねてから果敢だったため、十八歳以上の民四万余人を動員し、庫兵(府庫の兵器)を与え、共に石に刻んで約としました(石に刻んで軍令を明らかにしました。または、兵と共に石に盟約を刻みました)
それを聞いた赤糜(赤眉。樊崇等です。『漢書』の注によると、古字において「糜」は「眉」に通じます)は敢えて境界に侵入しなくなりました。
 
田況は勝手に兵を動かししたため、自分を弾劾する上奏をしました。
王莽が田況を譴責して言いました「まだ虎符を賜っていないのに勝手に兵を発した(擅発兵)。これは弄兵(兵を弄ぶこと)であり、この辠(罪)は乏興(軍事行動や物資の調達輸送に遅れたりそれを妨害する罪)に当たる。しかし田況は必ず賊を捕えて滅ぼすことを自分の責任としたので(以況自詭必禽滅賊)、暫くこれを治めない(裁かない)ことにする。」
 
後に田況が自ら境界を出て賊を撃つことを請い、向かう所で全ての敵を破りました。
王莽は璽書詔書によって田況に青州徐州の牧の政務を兼任させました領青徐二州牧事)
 
田況が上言しました「盗賊が発したばかりの時は、その原(源。基礎)は甚だ微弱で、部吏、伍人でも捕えられます(この部分は『資治通鑑』を元にしました。原文は「部吏伍人所能禽也」です。『漢書王莽伝下』は「非部吏、伍人所能禽也」としており、「部吏、伍人では捕えられない」となりますが、意味が通じません。恐らく『漢書』の「非」は余分です。『資治通鑑』胡三省注によると、部吏は「部盗賊之吏(盗賊を管理する吏)」で、郡の賊曹、県の游徼、郷の亭長等を指します。伍人は伍人組です)。咎(罪。問題)は長吏がそれを意と為さず(重視せず)、県がその郡を欺き、郡が朝廷を欺き、実は百なのに言を十とし、実は千なのに言を百としていることにあります(民衆の反発が小さい時に手を打たず、上に対して過少に報告していることが問題です)。朝廷はこれを忽略(おろそかにすること。軽視すること)して、すぐに督責せず、(賊が)州を連ねて延曼(蔓延)してから、やっと将率(将帥)を派遣し、多数の使者を発して繰り返し互いに監趣(監督催促)させています。郡県は尽力して上官(中央や州の使者)に仕え、詰対(詰問)に応塞(応答)し、酒食を提供して資用を具え、こうすることで自分を断斬(死刑)から救っており(以救断斬)、これ以上、盗賊治官(政務)の事を憂いる余裕がありません(郡県は朝廷や州から来た使者の対応に追われて賊を撃つことも政務を行うこともできません)。将率もまた自ら吏士を率いることができず、戦ったら賊に破られ、吏の気(士気)がしだいに損なわれ(濅傷)、いたずらに百姓(の財)を費やしています。また、幸いにも以前、赦令を蒙り、賊が解散を欲しても、あるいは逆に遮擊(途中で撃つこと)され、恐れて山谷に入り、それを互いに告げ語っているため、郡県で既に降った賊も皆、更に驚駭(恐慌)し、詐滅(欺かれて滅ぼされること)に遭うことを恐れています。しかも飢饉のために(人心が)動じ易くなっているので、旬日(十日)の間にまた十余万人になります。これが盗賊が多くなる原因です。
今、雒陽以東は米一石が二千銭に値します。詔書を窺い見るに、太師と更始将軍を派遣しようとしていますが、二人は爪牙の重臣なので、多くの人衆を従える必要があり、そうなったら道上が空竭(涸渇)します(財を使い果たして酒食物資を供給できなくなります)。しかし(人衆が)少なかったら威を遠方に示すことができません。急いで牧尹以下の者を選び、その賞罰を明らかにし、離郷(分散した郷聚)を收合させるべきです。小国(『資治通鑑』胡三省注によると、諸列侯国です)で城郭がないものは、その老弱を大城の中に遷し、穀食を積藏(貯蔵)し、力を合わせて固守します。そうすれば賊が来て城を攻めても下せず、通った場所には(略奪できる)食物がなく、(賊が)群聚(群衆)になれない形勢ができます。このようであれば、招けば必ず降り、撃てば必ず滅ぼせます。今、再びいたずらに多くの将率を出したら、郡県がこれに苦しみ、逆に賊よりひどくなります(反甚於賊)。伝に乗る諸使者を全て徴集して還らせ、こうすることで郡県を休息させるべきです。二州の盗賊を臣況に委任すれば、必ずこれを平定します。」
 
王莽は田況を畏れ嫌っていたため、秘かに代わりの者を送り、使者を派遣して田況に璽書詔書を下賜しました。
使者が到着して田況に会うと、王莽の令によって代わりの者に兵を監督させ、田況を西の京師に向かわせました。
朝廷に還った田況は師尉大夫に任命されます。
 
田況が去ってから斉地も敗れることになりました。
 
 
 
次回に続きます。