新更始時代35 新王莽(三十五) 赤眉 22年(1)

今回は新王莽地皇三年です。五回に分けます。
 
新王莽地皇三年
壬午 22
 
[] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』からです。
正月、九廟がほぼ完成して神主(牌位)を納めました。
王莽が廟を謁見します。大駕(帝王の儀仗で最大の規模のものです。儀仗には大駕、法駕、小駕があります)を率いて六馬が牽く車に乗り、五采の毛で龍文衣(龍の模様の衣服)を作り、長三尺の角をつけました(『漢書』顔師古注が「馬上をおおった」と注釈しているので、龍文衣と角は六頭の馬に用いられたようです)。華蓋車(豪華な傘をつけた車。前年及び下記『資治通鑑』の記述参照)と元戎(大型の戦車)十乗が前を進みます。
廟を建設した司徒(大司徒)、大司空にそれぞれ銭千万を下賜し、侍中、中常侍以下を全て封爵しました。
また、都匠(大匠)仇延(人名)を邯淡里附城に封じました。
 
この事を『資治通鑑』は『王莽伝下』の前年の記述と合わせて書いています。以下、『資治通鑑』からです。
春正月、九廟が完成したため神主を納めました。王莽が謁見します。
大駕を率いて六馬が牽く車に乗り、五采の毛で龍文衣を作り、長さ三尺の角をつけました。
また、九重(九層)の華蓋(『資治通鑑』胡三省注によると、黄帝が蚩尤と涿鹿の野で戦った時に作りました)は高さ八丈一尺あり、四輪車に載せられました。輓者(車を牽く者)が皆、「登仙」と叫び、王莽が外出する時は前を進ませます。
しかし百官は秘かに「これは輀車(輭車。喪(霊柩)を載せる車)に似ている。仙物ではない」と言いました。
 
[] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』からです。
二月、霸橋で火災があり、数千人が水をかけて消火しようとしましたが、消えませんでした。
王莽がこれを嫌って書を下しました「三皇は春を象徴し、五帝は夏を象徴し、三王は秋を象徴し、五伯(覇)は冬を象徴する。皇王三皇五帝から三王)は徳運だが、伯は空を継いで乏を続け(帝王の空位を受け継いで。原文「継空続乏」)、そうすることで暦数をなしたので、その道は駮(不純)である。
思うに常安長安の御道(帝王が通る道)は多くが近くから名を取っている。最近二月癸巳の夜から甲午の辰(朝)にかけて火が霸橋を焼き、東方から西に向かい、甲午の夕に至って橋が尽きて火が滅した。大司空が巡行審問したところ(行視考問)、ある者が言うには寒民が橋の下に留まって住んでいるので、火で暖を取ったことが原因でこの災が起きた疑いがある(疑以火自燎為此災也)。その明旦(翌日)は乙未であり、立春の日に当たる。予は神明聖祖黄虞黄帝と帝舜)の遺統(後継者)として命を受け、地皇四年で十五年になる。正に地皇三年の終冬(冬の終わり)に霸駮の橋(不純な覇者を象徴する橋)を絶滅したというのは、それによって新室による統壹(統一)と長存の道を興して成すことを欲しているのである。また、この橋が東方の道を空にしていること(東方に通じる道がないこと)を戒めている(橋が東から西に燃えたのは、東に向かう道が開けていなかったことを戒めている。東に向かう道を開かなければならない。原文「戒此橋空東方之道」)。今、東方は歳荒(不作)のため民が飢えており、道路も不通である。東岳太師(王匡)は急いで制度を定め(亟科條)、東方の諸倉を開き、窮乏を賑貸(救済)して仁道を施せ。これからは霸館を改名して長存館とし、霸橋を長存橋とする。」
 
[] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』と『資治通鑑』からです。
この月(二月)、赤眉(樊崇等)が新の太師犧仲景尚(前年参照)を殺しました。
 
[] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』と『資治通鑑』からです。
関東を大飢饉が襲いました。
 
[] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』と『資治通鑑』からです。
夏四月、王莽が太師王匡、更始将軍廉丹を東に向かわせました。都門の外で祖(餞別の祭祀と酒宴)を行いましたが、大雨が降って衣服を濡らしたため止めました。
長老が嘆いて言いました「これは泣軍を為しているのだ(大雨が降ったのは軍のために泣いているのだ)。」
 
王莽が言いました「思うに陽九の阸(厄)が害気と会うのは去年に究められている(陽九の厄災と害気が遇うのは昨年で終わっている)。しかし枯旱(旱害)蝗によって飢饉がいまだに至り、百姓が困乏して道路で流離し、春が最も甚だしかったので、予はこれをとても悼んでいる。今、東岳太師特進襃新侯(王匡)に東方の諸倉を開かせ、窮乏を賑貸(救済)することにした。また、太師公が通らない道には大夫と謁者を分遣して諸倉を同時に開き、こうして元元(民衆)を全うする。太師公はこれを機に大使五威司命位右大司馬更始将軍平均侯廉丹(『漢書王莽伝下』の原文は「廉丹大使五威司命位右大司馬更始将軍平均侯」ですが、廉丹は平均侯の後に置かれるはずです。「位右大司馬」は「右大司馬」です。王莽は新王莽地皇元年・20年に前中大司馬を置きました)と共に兗州に向かい、管轄下の者を鎮撫せよ(填撫所掌)。青徐に及んでは以前から法に従わない盗賊(故不軌盗賊)がまだ解散し尽くしておらず、また、後に再び屯聚した者もいるので、全て完全に消滅させて(皆清潔之)、兆黎(民衆)を安んじることを期待する。」
こうして太師王匡と更始将軍廉丹が東征に向かいました。
 
当時の東方には樊崇等の勢力がいました。『後漢書劉玄劉盆子列伝(巻十一)』と『資治通鑑』からです。
樊崇等は青州徐州一帯で移動しながら略奪を繰り返していましたが、引き返して太山に至り、南城に駐屯しました。
これ以前の樊崇等は困窮のために寇(略奪)を為すだけで、城を攻めたり領地を占領する計はありませんでした。
しかししだいに勢力を拡大したため、簡単な法を作り、互いにこう約束しました「人を殺した者は死ぬ。人を傷つけた者は傷害の罪を償う(殺人者死,傷人者償創)。」
但し樊崇等は言辞による約束を設けるだけで、文書は作らず、旌旗、部曲、号令もありませんでした。
集団の中で最大の尊号を三老(樊崇です)とし、次は従事、次は卒吏(『後漢書』では「卒吏」、『資治通鑑』では「卒史」です)と決めました。お互いには「臣人」と称します。
樊崇等の集団が領袖を「三老、従事、卒史」と称すだけで大号(帝王や将軍の号)を使わなかったことに関して、天下を狙うつもりがなかったから敢えて大号を称さなかったとする説がありますが(前年参照)、『資治通鑑』胡三省注はこう書いています「三老、従事、卒史は全て郡県の史(吏)である。樊崇等は民伍から起きたので、その知識はここで止まっている。後に党衆が日々盛んになり、気勢が日々張るようになると、長安を攻めて劉盆子を(天子に)立てた。(後には天子まで立てているのだから)開始時に敢えて大号を為さなかったのではない(三老、従事、卒史程度の官名しか知らなかったからだ。原文「非其初不為大号也」)。」
また、「卒吏」と「臣人」に関しては、『後漢書』の注がそれぞれ「卒史」と「巨人」が正しいとしています。
 
本文に戻ります。
新の太師と更始将軍が討伐に来たと聞き、樊崇等は戦いを望みました。しかし自軍の衆と王莽の兵が混乱する恐れがあるため、皆、眉に朱(丹砂等の顔料)を塗って識別しました。ここから「赤眉」と号すようになります(今までも便宜上「赤眉」の名称を使ってきましたが、正式にはここから「赤眉」を名乗ります)
 
以下、『漢書王莽伝下(巻九十九下)』と『資治通鑑』からです。
東方に向かった新の太師と更始将軍は合わせて鋭士十余万人を率いています。ところが通った場所で好き勝手に振る舞ったため、東方の人々はこう言いました「赤眉に逢ったとしても、太師には逢うな。太師はまだいいが、更始将軍は我々を殺害する(寧逢赤眉,不逢太師。太師尚可,更始殺我)。」
前年、田況が語った通り、朝廷が大臣を派遣した事が逆に民衆の苦しみになってしまいました。
 
[] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』と『資治通鑑』からです。
王莽が多数の大夫と謁者を派遣し、各地に分けて民に「酪」という食物を教えました。
 
漢書王莽伝下(巻九十九下)』と『資治通鑑』は「草木を煮た物」、『漢書食貨志上』は「木を煮た物」と書いています。
『食貨志上』の注を見ると、服虔は「木の実を煮た。または餌朮(蒼朮。植物の根の一種で薬に使います)の類」としています。如淳は「杏酪(杏仁の汁や粥)の類」としており、顔師古は「如淳の説が正しい」と判断しています。
 
王莽が民に教えた「酪」は食べられた物ではなく、しかも逆に手間と浪費を重ねることになりました。
 
王莽が書を下しました「民の困乏を思うと、たとえ諸倉を遍く開いて賑贍(救済)したとしても、まだ足りないことを恐れる。よって暫く天下山沢の防(禁令。六筦に山沢の産物に関する規定があります)を開き、山沢で採取できる物でしかも月令に順じている場合は(季節に合った産物なら)、全て(民の)自由にし(其恣聴之)、税を出させないことにする(山沢の産物で季節に合っている物なら自由に採取することを許可し、税も取らないことにする)地皇三十年に至ったら元に戻す。これ地皇三十年)は王光上戊の六年である(『漢書』の注は「戊は土を表す。王莽が作った暦の名である」と解説しています。「王光上戊」は未来に予定している年号、または「王光」が年号で、「上戊」は暦の名だと思われます。王莽は六年ごとに改元するという決まりを作りました(新王莽天鳳六年19年参照)。本年は地皇三年です)。もし豪吏や猾民に独占させて(原文「辜而攉之」。『漢書』顔師古注によると、「辜攉」は利を独占するという意味です)、小民が(利を)蒙らなくなるとしたら、それは予の意ではない。『易』はこう言っているではないか『上を減らして下を増やせば、民の悦びが無限になる(損上益下,民説無疆)。』また、『書(『漢書』顔師古注は「『洪範』の言」としていますが、恐らく『尚書大伝(第三)洪範五行伝』の言葉です)』はこう言っている『言っても従わない、これを不治という(言之不従,是謂不艾)。』ああ(咨虖)、群公よ、政令が徹底できないことを)憂いずにいられるか(可不憂哉)。」
 
 
 
次回に続きます。