新更始時代37 新王莽(三十七) 劉秀登場 22年(3)

今回も新王莽地皇三年の続きです。
 
[十三] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』と『資治通鑑』からです。
冬、無鹽の人索盧恢(『資治通鑑』胡三省注によると、索盧が姓、恢が名です。『呂氏春秋』で、禽滑釐の門人に索盧参がいます)等が挙兵し、城を拠点にして賊(反乱軍)に附きました。
 
新の廉丹と王匡がこれを攻めて攻略し、斬った首は一万余級に上りました。
王莽は中郎将を派遣し、璽書を奉じて廉丹と王匡を慰労させ、爵を公に進めました。功績を立てて封爵された吏士も十余人いました。
 
この時、赤眉の別校(別部隊の長)董憲等が率いる衆数万人が梁郡にいました。
王匡が梁郡への進撃を欲しましたが、廉丹は城(無鹽)を攻略したばかりで(士卒が)疲労しているので、暫く士を休めて威を養うべきだと考えました。
しかし王匡はこれを聴かず、兵を率いて単独で進みます。
廉丹も結局それに従いました。
 
両軍は成昌(地名)で合戦しましたが、新軍が敗れて王匡は逃走しました。
廉丹は官吏に自分の印韍と符節を渡して王匡に届けさせ、「小児は走ってもいいが、わしはならない(小児可走,吾不可)」と言ってその場に留まりました。
廉丹は戦死します。
 
校尉汝雲(汝が姓です。『資治通鑑』胡三省注によると、晋の大夫に女斉がいました。この「女」は「汝」と同音です)、王隆等二十余人は別々に戦っていましたが、廉丹が死んだと聞くと「廉公が既に死んだ。私は誰のために生きるのだ(吾誰為生)」と言い、賊軍に向かって奔走しました。
二十余人とも戦死します。
 
王莽はこれを痛んで書を下しました「思うに公は多くの選士精兵を擁し、衆郡の駿馬倉穀帑藏(財物の倉庫)を全て自調(自由に調達すること)できたのに、詔書をおろそかにし(忽於詔策)、その威節から離れ(印韍と符節を王匡に送ったことを指します)、騎馬して呵譟(喚声を上げること)し、狂刃に害されることになった。ああ、哀しいことだ(烏呼哀哉)諡号を下賜して果公とする。」
 
後漢書劉玄劉盆子列伝(巻十一』はこの戦いをこう書いています。
「赤眉が廉丹、王匡の軍を大破して万余人を殺し、追撃して無鹽に至った。廉丹は戦死し、王匡は逃走した。」
元々、無鹽が挙兵したため、廉丹と王匡が無鹽を攻略し、更に成昌で赤眉と戦いました。しかし新軍は破れて退却し、勝った赤眉が新軍を無鹽まで追撃したようです。
但し、『後漢書劉玄劉盆子列伝(巻十一』はこの後に「樊崇(赤眉)はまた兵十余万を率いて引き返し、莒を包囲した」と書いているので、無鹽は再攻略しなかったようです。
 
資治通鑑』は廉丹等を破った後の樊崇の動きを省略しているので、ここで『後漢書・劉玄劉盆子列伝(巻十一)』を元にまとめて書きます。
樊崇はその兵十余万を率いて莒を包囲しましたが、数カ月経っても下せませんでした。
ある人が樊崇に言いました「莒は父母の国です。どうしてこれを攻めるのですか?」
樊崇は包囲を解いて去りました。
この時、呂母は病死しており、その衆は分れて赤眉、青犢、銅馬の勢力に入りました。
赤眉は東海を侵して王莽の沂平大尹(『後漢書』の注によると王莽が東海郡を沂平に改めました)と戦いましたが、敗れて数千人の死者が出たため、引き返して楚、沛、汝南、潁川の地を侵し、戻って陳留に入りました。
魯城を攻略してから転じて濮陽に至ります。
 
漢書・王莽伝下(巻九十九下)』と『資治通鑑』に戻ります。
国将哀章が王莽に言いました「皇祖考黄帝の時は中黄直(人名。中黄が氏、直が名です)を将にして、蚩尤を破って殺しました。今、臣は中黄直の位に居るので、山東の平定を願います。」
王莽は哀章を東に駆けさせて、太師匡に協力させました。
また、大将軍陽浚に敖倉を守らせ、司徒王尋に十余万の兵で雒陽に駐屯して南宮を鎮守させ、大司馬董忠に中軍北塁(『資治通鑑』胡三省注は「恐らく北軍中塁」の誤りとしています)で士を養って射術を習わせ、大司空王邑に三公の職を兼任させました。
 
司徒尋は長安を発ったばかりの時、霸昌厩(『漢書』の注によると霸昌観の馬厩です)に泊まりました。そこで黄鉞をなくしてしまいます。
王尋の士房揚はかねてから狂直(度を過ぎた実直)だったため、哭泣してこう言いました「これは経が言う『斉斧を失う(喪其斉斧)』というものです。」
漢書』の注によると、「喪其斉斧」は『易』の言葉で、「斉」は「利(鋭利)」に通じます。鋭利な斧を失って断斬できなくなったことを意味します。
 
房揚は自らを弾劾して去りました。
王莽は房揚を撃殺しました。
 
[十四] 『資治通鑑』からです。
かつて西漢景帝の子長沙定王劉発西漢武帝元朔元年・前128年参照)舂陵節侯買を生み、劉買が戴侯熊渠を生み、劉熊渠が考侯仁を生みました。
劉仁の代に、南方が卑湿(低地で湿度が高いこと)だったため、封地南陽の白水郷に換えられ、宗族と共に家を遷しました。
資治通鑑』胡三省注によると、西漢元帝時代に南陽に遷りましたが、その後も舂陵侯を号しました。
 
劉仁の死後、子の劉敞が継ぎましたが、ちょうど王莽の帝位簒奪の時期に当たり、国を廃されました。
 
節侯劉買には劉外という少子がおり、鬱林太守になりました。
劉外は鉅鹿都尉回を生み、劉回は南頓令欽を生みました。
劉欽は湖陽の樊重の娘を娶り、三男を生みました。劉縯、劉仲、劉秀といいます。
三兄弟は早くに孤児となり、叔父の劉良に養われました(『後漢書光武帝紀上』によると、劉秀が九歳の時に父を失いました)
 
劉縯は性格が剛毅で、慷慨(正気に満ちて意気が盛んなこと)としていて大節がありました。
王莽が漢の帝位を簒奪してからは常に憤憤としており、社稷を回復する考えを心中に抱いていました。家人の居業(産業。家業)に従事せず、身を傾けて破産するほど財産を投じ(傾身破産)、天下の雄俊と結んで交流します。
一方の劉秀は隆準日角(『資治通鑑』胡三省注によると、「隆準」は鼻が高いこと、「日角」は額の骨が盛り上がっている相です)という容貌で、性格は勤勉で農耕に励みました(性勤稼穡)
劉縯はそれを見ていつも劉秀を非笑(嘲笑)し、高祖の兄劉仲(郃陽侯劉喜)に喩えました西漢高帝劉邦の兄劉仲は家業に勤めて父に認められていましたが、天下を取ったのは家業を疎かにしていた劉邦でした。劉仲は劉邦によって封侯されました)
 
劉秀の姉劉元は新野の鄧晨に嫁ぎました。
劉秀はかつて鄧晨と一緒に穰の人蔡少公を訪ねたことがありました。蔡少公は図讖を学んで精通しています。その蔡少公が言いました「劉秀が天子になるだろう。」
ある人が「それは国師劉秀(劉歆)ではないか」と問いました。
すると劉秀が戯れて言いました「どうして私ではないと分かるのだ(何用知非僕邪)。」
その場に坐っていた者は皆、大笑しましたが、鄧晨だけは心中で喜びました。
 
以下、『後漢書光武帝紀上』からです。
王莽の天鳳年間、劉秀は長安に行き、『尚書』の教えを受けておおよその道理に通じました(略通大義
『東観漢記(巻一)』によると、劉秀は九歳の時に南頓君(父劉欽の尊称です)が死んだため、叔父に従って蕭で生活し、小学に入りました。後に長安に行って中大夫廬江の人許子威から『尚書』の教えを授かりました。しかし資用(費用)が乏しくなったため、同舍生の韓子と銭を合わせて驢馬を買い、従者を使って貸し出させました。その収入で諸公費をまかないます。
尚書』の大義をおおよそ学ぶと(原文「大義略挙」。「挙」は「学」の誤りかもしれません)、これを機に世事も学びました。朝政が下されるたびに必ず先に聞いて知り、同舍の者に詳しく解説します。
高才好学でしたが、遊俠や闘鶏走馬(競馬)も楽しみ、閭里の姦邪や吏治の得失を深く理解しました。
 
後漢書光武帝紀上』に戻ります。
王莽の末年、天下が連年の災蝗(災害蝗害)に襲われ、寇盗が鋒起(蜂起)しました。
地皇三年(本年。22年)南陽が荒饑(飢饉。『後漢書』の注によると、一穀が実らないことを歉、二穀が実らないことを饑、三穀が実らないことを饉、四穀が実らないことを荒、五穀が実らないことを大侵といいます)に襲われ、諸家の賓客の多くが小盗になりました。
劉秀は吏を避けて新野に入ります。
後漢書』の注(元は『続漢書』)によると、劉伯升(劉縯)の賓客が劫人(強盗)したため、劉秀は吏を避けて新野の鄧晨の家に行きました。
 
劉秀はその後、宛で穀物を売って生活しました。
『東観漢記(巻一)』は「当時、南陽は旱饑に襲われたが、劉秀の田だけは収穫があった」と書いています。
新野も宛も南陽郡に属します。
 
 
 
次回に続きます。

新更始時代38 新王莽(三十八) 劉縯兄弟の挙兵 22年(4)