新更始時代37 新王莽(三十七) 劉秀登場 22年(3)
今回も新王莽地皇三年の続きです。
新の廉丹と王匡がこれを攻めて攻略し、斬った首は一万余級に上りました。
王莽は中郎将を派遣し、璽書を奉じて廉丹と王匡を慰労させ、爵を公に進めました。功績を立てて封爵された吏士も十余人いました。
この時、赤眉の別校(別部隊の長)・董憲等が率いる衆数万人が梁郡にいました。
しかし王匡はこれを聴かず、兵を率いて単独で進みます。
廉丹も結局それに従いました。
両軍は成昌(地名)で合戦しましたが、新軍が敗れて王匡は逃走しました。
廉丹は官吏に自分の印韍と符節を渡して王匡に届けさせ、「小児は走ってもいいが、わしはならない(小児可走,吾不可)」と言ってその場に留まりました。
廉丹は戦死します。
校尉・汝雲(汝が姓です。『資治通鑑』胡三省注によると、晋の大夫に女斉がいました。この「女」は「汝」と同音です)、王隆等二十余人は別々に戦っていましたが、廉丹が死んだと聞くと「廉公が既に死んだ。私は誰のために生きるのだ(吾誰為生)」と言い、賊軍に向かって奔走しました。
二十余人とも戦死します。
王莽はこれを痛んで書を下しました「思うに公は多くの選士精兵を擁し、衆郡の駿馬・倉穀・帑藏(財物の倉庫)を全て自調(自由に調達すること)できたのに、詔書をおろそかにし(忽於詔策)、その威節から離れ(印韍と符節を王匡に送ったことを指します)、騎馬して呵譟(喚声を上げること)し、狂刃に害されることになった。ああ、哀しいことだ(烏呼哀哉)。諡号を下賜して果公とする。」
「赤眉が廉丹、王匡の軍を大破して万余人を殺し、追撃して無鹽に至った。廉丹は戦死し、王匡は逃走した。」
元々、無鹽が挙兵したため、廉丹と王匡が無鹽を攻略し、更に成昌で赤眉と戦いました。しかし新軍は破れて退却し、勝った赤眉が新軍を無鹽まで追撃したようです。
樊崇はその兵十余万を率いて莒を包囲しましたが、数カ月経っても下せませんでした。
ある人が樊崇に言いました「莒は父母の国です。どうしてこれを攻めるのですか?」
樊崇は包囲を解いて去りました。
この時、呂母は病死しており、その衆は分れて赤眉、青犢、銅馬の勢力に入りました。
魯城を攻略してから転じて濮陽に至ります。
王莽は哀章を東に駆けさせて、太師・王匡に協力させました。
また、大将軍・陽浚に敖倉を守らせ、司徒・王尋に十余万の兵で雒陽に駐屯して南宮を鎮守させ、大司馬・董忠に中軍北塁(『資治通鑑』胡三省注は「恐らく北軍中塁」の誤りとしています)で士を養って射術を習わせ、大司空・王邑に三公の職を兼任させました。
王尋の士・房揚はかねてから狂直(度を過ぎた実直)だったため、哭泣してこう言いました「これは経が言う『斉斧を失う(喪其斉斧)』というものです。」
房揚は自らを弾劾して去りました。
王莽は房揚を撃殺しました。
劉仁の死後、子の劉敞が継ぎましたが、ちょうど王莽の帝位簒奪の時期に当たり、国を廃されました。
節侯・劉買には劉外という少子がおり、鬱林太守になりました。
劉外は鉅鹿都尉・劉回を生み、劉回は南頓令・劉欽を生みました。
劉欽は湖陽の樊重の娘を娶り、三男を生みました。劉縯、劉仲、劉秀といいます。
劉縯は性格が剛毅で、慷慨(正気に満ちて意気が盛んなこと)としていて大節がありました。
王莽が漢の帝位を簒奪してからは常に憤憤としており、社稷を回復する考えを心中に抱いていました。家人の居業(産業。家業)に従事せず、身を傾けて破産するほど財産を投じ(傾身破産)、天下の雄俊と結んで交流します。
劉縯はそれを見ていつも劉秀を非笑(嘲笑)し、高祖の兄・劉仲(郃陽侯・劉喜)に喩えました(西漢高帝・劉邦の兄・劉仲は家業に勤めて父に認められていましたが、天下を取ったのは家業を疎かにしていた劉邦でした。劉仲は劉邦によって封侯されました)。
劉秀の姉・劉元は新野の鄧晨に嫁ぎました。
劉秀はかつて鄧晨と一緒に穰の人・蔡少公を訪ねたことがありました。蔡少公は図讖を学んで精通しています。その蔡少公が言いました「劉秀が天子になるだろう。」
すると劉秀が戯れて言いました「どうして私ではないと分かるのだ(何用知非僕邪)。」
その場に坐っていた者は皆、大笑しましたが、鄧晨だけは心中で喜びました。
『東観漢記(巻一)』によると、劉秀は九歳の時に南頓君(父・劉欽の尊称です)が死んだため、叔父に従って蕭で生活し、小学に入りました。後に長安に行って中大夫・廬江の人・許子威から『尚書』の教えを授かりました。しかし資用(費用)が乏しくなったため、同舍生の韓子と銭を合わせて驢馬を買い、従者を使って貸し出させました。その収入で諸公費をまかないます。
高才好学でしたが、遊俠や闘鶏・走馬(競馬)も楽しみ、閭里の姦邪や吏治の得失を深く理解しました。
王莽の末年、天下が連年の災蝗(災害・蝗害)に襲われ、寇盗が鋒起(蜂起)しました。
地皇三年(本年。22年)、南陽が荒饑(飢饉。『後漢書』の注によると、一穀が実らないことを歉、二穀が実らないことを饑、三穀が実らないことを饉、四穀が実らないことを荒、五穀が実らないことを大侵といいます)に襲われ、諸家の賓客の多くが小盗になりました。
劉秀は吏を避けて新野に入ります。
劉秀はその後、宛で穀物を売って生活しました。
新野も宛も南陽郡に属します。
次回に続きます。