新更始時代39 新王莽(三十九) 小長安の敗戦 22年(5)

今回で新王莽地皇三年が終わります。
 
[十六] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』と『資治通鑑』からです。
十一月、孛星(彗星の一種)が張(星宿)に現れました。東南に移動して五日で見えなくなります。
王莽はしばしば太史令宗宣を召して意見を求めました。
術数家(方術家)達は皆、虚偽の回答をして「天文は安善(平安良好)であり、群賊は間もなく滅びます」と言いました。
王莽はわずかながら心を落ち着かせました(差以自安)
 
後漢書光武帝紀上』の注はこう書いています。
「張(宿)は周の地に当たる。星孛(孛星)が張に現れて東南に行けば、翼軫の分(分野。領域)になる。翼と軫は楚の地に当たるので、これは楚の地で兵乱が起きることを意味する、後一年(翌年)正月、光武帝が舂陵で兵を起こし(実際には既に挙兵しています)南陽を攻めて甄阜、梁丘賜等を斬り、その士衆数万人を殺した。その後、光武帝は雒陽を都とし、周の地に住んだ。これは穢れを除いて新しい局面を布く象(除穢布新之象)である。」
 
[十七] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
劉縯が宛に進攻しようとしました。
長安(『資治通鑑』胡三省注によると、宛県の南三十七里に小長安があります)で王莽の前隊大夫甄阜、属正梁丘賜と戦います。
この時、天を密霧が覆い、漢軍(劉縯軍)が大敗しました。劉秀は単馬で走りましたが、途中で妹の劉伯姫に出会ったため、二人で馬に乗って奔走します。
更に前に進むと、姉の劉元に遇いました。劉秀が急いで馬に乗るように言いましたが、劉元は手を振って「行きなさい(行矣)(あなた達は私を)救うことはできません不能相救)。両者とも没することになってはなりません(無為両没也)」と言いました。
やがて追兵が来て劉元と三人の娘が全て殺されました。劉縯の弟劉仲を始め、宗従(宗族)の死者は数十人を数えます。
劉縯は再び兵衆を集めて引き返し、棘陽を守りました。
 
以下、『資治通鑑』からです。
甄阜と梁丘賜は藍郷に輜重を留め、勝ちに乗じて精兵十万を率いて潢淳(『資治通鑑』胡三省注によると、棘陽県の潢淳聚を流れる川です)を南に渡りました。沘水に臨み、両川(後ろの潢淳と前の沘水)の間の地形を利用して営を築いてから、後方の橋を落として帰還する心がないことを示します。
新市と平林の兵は漢兵がしばしば敗戦し、しかも甄阜と梁丘賜の大軍が至るのを見て、それぞれ解散して去ることを欲しました。劉縯は甚だこれを患います。
 
ちょうどこの時、下江兵五千余人が宜秋に至りました。
劉縯はすぐに劉秀および李通と共に下江兵の営壁を訪ね、こう伝えました「下江の一賢将に会い、大事を議すことを願います。」
下江の衆は王常を推しました。
劉縯は王常に会って合従(連合)の利を説きます。
王常が大いに悟って言いました「王莽は残虐なので百姓が漢を思っています。今、劉氏が復興したら、真主になります。誠に身を出して(身を挺して)用いられ、大功を成就する手助けをしたいと思います(誠思出身為用輔成大功)。」
劉縯が言いました「もし事が成ったら、どうして一人でそれを享受できるでしょう。」
劉縯は王常と深く結んで還りました。
 
王常が戻ってから他の将の成丹、張卬に詳しく状況を語りました。
しかし成丹と張卬は強大な兵力を自負していたため、こう言いました「大丈夫が既に起ったのなら、それぞれが自ら主になるべきだ。なぜ人の制を受けるのだ。」
王常はゆっくりと将帥を諭して言いました「王莽は苛酷なので繰り返し百姓の心を失ってきた。民が謳吟(歌唱)して漢を思うのは一日の事ではない。だから吾属(我々)でもそれを利用して起つことができたのだ。民が怨む者は天が除くものだ(夫民所怨者天所去也)。民が思う者は天が興すものだ(民所思者天所興也)。大事を挙げたら必ず下は民心に順じ、上は天意に符合しなければならず、そうすれば功が成就できる。もし強盛を自負して勇猛に頼り(負強恃勇)、情(欲情)を動かして欲を恣にしたら(觸情恣欲)、たとえ天下を得ても必ずまたこれを失ってしまう。秦や項項羽の勢があっても、なお夷覆(滅亡)に至ったのだ。今、布衣(庶民)が草沢に集まって、そのように行動したら、なおさら滅亡の道となるだろう。最近、南陽の諸劉が挙兵したが、議論に来た者を観ると、皆に深計大慮があり、王公の才だった。彼等と併合すれば、必ず大功が成就する。これは天が吾属(我々)を助けたのである(祐吾属也)。」
下江の諸将は屈強でしたが見識が少なかったため、かねてから王常を尊敬していました。そこで皆が謝って言いました「王将軍がいなかったら、吾属(我々)は不義に陥るところでした。」
王常等はすぐに兵を率いて漢軍、新市、平林の兵と合流しました。こうして諸部が心を一つにして協力し、鋭気がますます盛んになります。
劉縯は軍士を大饗(酒食で労うこと)し、盟約を設け、士卒を三日間休ませてから、六部に分けました。
 
十二月晦、潜師(秘かに組織した軍)が夜に行動を開始し、藍郷を襲って占拠しました。新軍の輜重を全て奪います。
 
 
 
次回に続きます。

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