新更始時代41 新王莽(四十一) 王莽の皇后 23年(2)

今回は新王莽地皇四年の続きです。
 
[] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』と資治通鑑』からです。
更始帝の即位を聞いた王莽はますます恐れましたが、自分の安定と健在を外に示そうと欲して須髪(鬚と髪)を染めました。
 
また、天下から集めた淑女の中から杜陵の人史諶の娘を選んで皇后に立てました。聘結納金として黄金三万斤を与え、その他に下賜した車馬奴婢珍宝も巨万を数えます。
王莽は自ら前殿両側の階段の間まで迎えに行きました。西堂で同牢の礼(新婚夫婦が一緒に食事をする儀式)を成立させます。
 
皇后の下には、和嬪・美御・和人の三人を置いて位を公と同等とみなし、嬪人を九人置いて卿と同等とみなし、美人(世婦)を二十七人置いて大夫と同等とみなし、御人(御妻)を八十一人置いて元士と同等とみなしました(『資治通鑑』胡三省注によると、三夫人は三公とみなし、九嬪は九卿とみなし、二十七世婦は二十七大夫とみなし、八十一御妻は八十一元士とみなしました)。合わせて百二十人になります。
皆、印韍を佩して弓(弓袋)を持ちました。
漢書』の注によると、後宮の妃嬪に弓を帯びさせて弓矢を中に入れるという儀式が行われました。弓に弓矢を入れるというのは、子宝に恵まれること象徴しています。
 
以下、『漢書・王莽伝下』からです。
王莽は皇后の父史諶を和平侯に封じて寧始将軍に任命し(「寧始将軍」は「更始将軍」の誤りです。これ以前の更始将軍は廉丹で、前年に赤眉と戦って殺されました)、史諶の子二人を侍中にしました。
 
この日、大風が吹いて家屋を飛ばし、木を折りました。
群臣が王莽に祝賀して(群臣上寿)言いました「最近、庚子に雨水が道を洗い流し、辛丑には清靚(清潔)になって塵もなくなりました。その夕(夜)は穀風(谷風。東風)が迅疾(迅速)になり、東北から吹いてきました。辛丑は巽の宮日です(「巽」は八卦のひとつです。八卦にはそれぞれ季節、月、日が当てはめられていました。「辛丑は巽の宮日(辛丑,巽之宮日也)」の詳しい意味は分かりません。「辛丑は巽の日に当たる」ということだと思います)。巽は風であり、順(従順)であります。后(皇后)の誼(義)が明らかで、母の道が得られ、恩和慈恵であることの現れです(后誼明母道得恩和慈恵之化也)。『易』にはこうあります『この大きな福を授け、王母に与える(王母に大きな福を与える。原文「受玆介福,于其王母」)。』また、『礼』にはこうあります『天の慶(福)を受け入れて、万福が無限になる(承天之慶,万福無疆)。』
廃漢火劉(火徳の劉氏による既に廃された漢朝)に頼ろうと欲する者は皆、洗浄してきれいに除かれ(原文「沃灌雪除」。「沃」は水で手を洗うこと、「灌」は盥で洗うこと、「雪除」は掃除してきれいにすることです)、殄滅(殲滅)して余雑(残余。残り)がなくなりました。百穀が豊かに茂り、庶草(各種の草)が蕃殖(繁殖)し、元元(民衆)が驩喜歓喜し、兆民(万民)が福に頼り、天下は幸甚です。」
 
王莽は方士で涿郡の人昭君等と後宮で方術(ここでは房中術を指します)を研究し、日々淫楽をほしいままにしました。
 
[] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』と『資治通鑑』からです。
王莽が天下に大赦しましたが、詔を発してこう言いました「旧漢氏舂陵侯の群子(恐らく分家の意味です)劉伯升(劉縯)とその族人婚姻(婚姻関係にある者)党与は妄りに流言して衆を惑わせ、天命に悖畔(背反)し、更始将軍廉丹、前隊大夫甄阜、属正梁丘賜をその手で害するに及んだ(実際に廉丹を殺したのは赤眉です)。これ以外にも、北狄胡虜匈奴の逆輿(輿は単于の名です)および南の虜若豆、孟遷にはこの書を用いない(劉縯勢力と匈奴や南で叛した者には大赦令を適用しない)。これらの人を捕えられる者がいたら、全て上公に封じ、食邑を万戸にして宝貨五千万を下賜する。」
 
王莽がまた詔を発しました「太師・王匡、国将哀章、司命孔仁、兗州牧寿良、卒正王閎、揚州牧李聖は速やかに管轄する州郡の兵合わせて三十万の衆を進め、青徐の盗賊に迫措(逼迫)せよ。納言将軍厳尤、秩宗将軍陳茂、車騎将軍王巡、左隊大夫王呉は急いで管轄する州郡の兵合わせて十万の衆を進め、前隊の醜虜に迫措せよ。生活丹青の信(「生活」は生きて投降した者は殺さないという意味です。「丹青」は赤と青の顔料で、「丹青の信」は明確にされた約束です。「生活丹青の信」は「投降すれば赦すという明確な約束」を意味します)を明らかに告げ、まだ迷い惑って解散しない者がいたら(復迷惑不解散)、皆が并力(協力)合撃してこれを殄滅(殲滅)せよ。大司空隆新公(王邑)は宗室戚属であり(『後漢書光武帝紀上』の注によると、王邑は王商の子で、王莽の親族です)、以前、虎牙将軍として東に向かったら反虜が破壊され、西を撃ったら逆賊が靡碎(粉砕)した。これは新室の威宝の臣である。もし黠賊(狡猾な賊)が解散しないようなら、大司空を派遣し、百万の師を率いてこれを征伐(絶滅)させる。」
 
以下、『漢書王莽伝下』からです。『資治通鑑』は引用していません。
王莽は七公幹士(幹士は七公の属官です)隗囂等七十二人を各地に分けて派遣し、赦令を下して民衆に告知させました。
しかし隗囂等は京師を出ると逃亡してしまいました。
 
隗囂について、『後漢書隗囂公孫述列伝(巻十三)』にはこう書かれています「隗囂は字を季孟といい、天水成紀の人である。若い時に州郡に仕えた。王莽の国師劉歆(劉秀)が隗囂を招いて士(属官。『漢書王莽伝下』の「幹士」に当たります)にしたが、劉歆が死んでから、隗囂は郷里に還った。」
劉歆(劉秀)が自殺するのは本年七月の事です。『漢書王莽伝下』がいうように、各地に派遣されてから逃亡したのか、『後漢書隗囂公孫述列伝』がいうように、劉秀が自殺してから去ったのかは分かりません。
あるいは、各地に派遣されてから劉秀が自殺したと聞いて、逃亡して故郷に帰ったのかもしれません。
 
 
 
次回に続きます。