新更始時代42 新王莽(四十二) 王莽の反撃 23年(3)
今回も新王莽地皇四年の続きです。
三月、更始政権の王鳳と太常偏将軍・劉秀等が昆陽、定陵、郾を巡って全て降しました(これは『資治通鑑』の記述です。『漢書・王莽伝下』は「四月、世祖(光武帝・劉秀)と王常等が別れて潁川を攻撃し、昆陽、郾、定陵を下した」、『後漢書・光武帝紀上』は「三月、光武が別れて諸将と共に昆陽、定陵、郾を巡り、全て下した」としています。更始帝・劉玄や劉縯等の本隊は宛を攻撃しています)。
これを聞いた王莽はますます恐れ(この部分は『漢書・王莽伝下』の記述です。『資治通鑑』は「王莽は厳尤、陳茂が敗戦したと聞いて」と書いていますが、厳尤と陳茂の敗戦に関する詳しい記述はありません。厳尤と陳茂は左隊大夫・王呉と共に前隊(南陽)に向かっています。潁川は左隊なので、『資治通鑑』は劉秀等が潁川で連勝したことを「厳尤、陳茂の敗戦」と解釈したようです。『後漢書・光武帝紀上』は「王莾は甄阜と梁丘賜が死に、漢帝が立ったと聞いて大いに懼れた」と書いています)、大司空・王邑を伝(伝馬。伝車)で洛陽に駆けさせ、大司徒・王尋(洛陽を守っています)と共に兵を発して山東を平定するように命じました。郡兵百万を動員して「虎牙五威兵」と号します。
王邑は封爵を自由に行う権限を与えられ、政事も王邑によって裁決されることになりました。
王莽は兵法六十三家に明るい者数百人を徴集しました。それぞれ図書(地図や戸口簿。または図讖)を持たせ、器械(武器)を授けて軍吏に任命します。
王邑が洛陽に至りました。
州郡がそれぞれ精兵を選び、牧守が自ら指揮します。集合した者は四十二万人おり、百万と号しました。その他にも武衛を選んで訓練し、猛士を招募し、それらの者が道に連なりました。旌旗や輜重が千里に並んで絶えることなく、車甲・士馬の盛んな様子は古からの出師において前例がなかったほどです(『漢書・王莽伝下』は「古からの出師(自古出師)」としており、『後漢書・光武帝紀上』は「秦・漢の出師(秦漢出師)」としています)。
『後漢書・光武帝紀上』では、王尋と王邑が率いた兵は百万、その甲士(甲冑を着た戦士)は四十二万人としています。これを見ると、百万と号したのではなく、輜重部隊等を合わせた総兵数が百万で、その内の実戦部隊が四十二万だったとも考えられます。
途中、潁川を南に出て昆陽に至ります。
この時、昆陽は既に漢に降っており(上述)、漢兵が城を守っていました。
王邑と王尋の二公はまず厳尤、陳茂と合流しました。
以前、劉秀が舂陵侯の家のために逋租を訴えたことがありました(原文「訟逋租」。「逋」は違えることで、「逋租」は田租が期日になっても納められないことを意味します。劉秀は佃農(小作人)が田租を納めないことを訴えたようです)。訴えを届けた相手は厳尤で、厳尤は劉秀を見て尋常ではないと思いました。
この出来事に関して、『後漢書』の注が『東観漢記』の記述を引用しています。
この時、宛の人・朱福(朱祜)も自分の舅(母の兄弟。または妻の父や兄弟)に代わって厳尤に田租について訴えました。
厳尤は車を止めて劉秀だけと話をし、朱福には目も向けませんでした。
劉秀は帰ってから戯れて朱福に「厳公がどうして卿を視ることがあるか(厳公寧視卿邪)」と言いました。
『東観漢記』が明記している通り、この出来事は王莽の新代に起きたはずです。「元舂陵侯」は王莽に廃された劉敞を指します。
『東観漢記』は劉敞を劉秀の季父(叔父)としていますが、実際は劉秀の父の世代の親族であって、直接、叔父の関係にあるわけではありません。
『欽定四庫全書・東観漢記(巻一)』にもこの記述がありますが少し異なります。
かつて劉秀が季父である元舂陵侯のために、大司馬・厳尤に逋租の訴えをしました。
厳尤は劉秀を視て尋常ではないと思いました。
この時、宛の人・朱祐(朱祜)も自分の舅に代わって厳尤に田租について訴えました。
厳尤は車を止めて劉秀だけと話をし、朱祐には目も向けませんでした。
劉秀は帰ってから戯れて朱祐に「厳公がどうして卿を視ることがあるか」と言いました。
いずれにしても、劉秀はかつて田租の未納入に関する訴えをしたことがあり、厳尤と面識がありました。
王邑と王尋が昆陽で厳尤と合流した時、城から出て厳尤に降った者が、劉秀は財物を取らず、ただ兵を集めて策を計っているだけだと語りました。
厳尤が笑って言いました「それは美須眉の者(鬚と眉が美しい者。劉秀)か?どうしてそのようであるのだ(かつては田租のために訴えたのだから、財物を取ろうとしないはずがない。原文「是美須眉者邪,何為乃如是」)?」
劉秀は数千の兵を率いて陽関で新軍を迎えました。
昆陽周辺にいた漢軍の諸将は王尋と王邑の兵が盛んな様子を見て、全て逃げ帰り、昆陽城内に入りました。恐慌して不安になり、妻子を念じて憂愁し、解散して諸城(各地の城。故郷)に帰ることを欲します。
それを見て劉秀が意見を述べました「今、兵穀(兵と食糧)が既に少なく、外寇(外敵)が強大なので、力を合わせて防御すれば、まだ功を立てられるかもしれないが、もし分散を欲したら、全てを保てなくなる(勢無俱全)。それに、宛城をまだ攻略していないので(劉縯等が宛を包囲しています)、互いに援けることもできない。昆陽が抜かれたら、一日の間で諸部(各軍)も滅ぶことになってしまう。今、心膽を同じくして共に功名を挙げることなく、逆に妻子・財物を守ることを欲するのか。」
諸将が憤怒して言いました「劉将軍はなぜ敢えてそのようにするのだ(なぜそのような事を言うのだ。劉将軍が口出しすることではない。原文「劉将軍何敢如是」)。」
劉秀は笑って立ちあがりました(退席しました)。
ちょうど候騎が還って言いました「大兵がもうすぐ城北に至ります。軍陣は数百里に及び、後ろが見えません。」
諸将は以前から劉秀を軽視していましたが、緊急事態に迫られたため、互いに急いで「改めて劉将軍にこれを計ることを請おう(計を定めてもらおう)」と言いました。
劉秀が再び勝敗を謀って説明すると、諸将は皆、憂いと焦りを抱いたまま「分かりました(諾)」と応えました。
この時、城中には八九千人しかいませんでした。
劉秀は成国上公・王鳳と廷尉大将軍・王常に昆陽を守らせ、夜の間に驃騎大将軍・宗佻、五威将軍・李軼等十三騎と共に南門から城を出ました。昆陽城外で兵を集めるためです。
既に城下に迫っていた王莽の兵は十万人近くおり、劉秀等は危うく脱出できないところでした。
『資治通鑑』胡三省注によると、王莽が五威将軍を置き、五方の色によって衣服の色を決めて、天下に威を示しました。李軼が挙兵したばかりの時もこれを真似て五威将軍の号を使いました。太常偏将軍、廷尉大将軍等も王莽の納言大将軍、秩宗大将軍等と同じで、官命に将軍号がつけられました。劉玄が設けた九卿将軍に含まれます。
次回に続きます。