新更始時代44 新王莽(四十四) 劉縯の死 23年(5)

今回も新王莽地皇四年の続きです。
 
[] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』と資治通鑑』からです。
王莽は漢兵が「王莽が孝平皇帝を鴆殺した」と宣伝しているのを聞きました。
そこで、公卿以下群臣を王路堂に集め、平帝のために命請いをした金縢の策(平帝元始五年5年参照)を開き、泣いてそれを群臣に示しました。
 
[] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』からです。
王莽が明学男張邯に命じて王莽の徳と符命について述べさせました。
王莽がそれを機にこう言いました「『易』にはこうある『莽(草むら)に戎(兵)を伏し、その高陵に昇り(顔師古注によると、「高陵に昇って眺望するだけで前進できない」という意味です)、三歳で興起しなくなる(伏戎于莽,升其高陵,三歳不興)。』『莽』は皇帝の名であり、『升』は劉伯升(劉縯)を指す。『高陵』は高陵侯の子翟義である。これは劉升(劉伯升)と翟義が新皇帝の世において埋伏した兵になること(劉升、翟義の兵は新皇帝王莽の世に伏すことになる。原文「劉升、翟義為伏戎之兵於新皇帝世」)を言っているのであり、結局、殄滅(全滅)して興隆できない。」
群臣は皆、万歳を唱えました。
 
また東方に命じて檻車で数人を京師に送らせて、「これは劉伯升等だ。皆に大戮(死刑)を行う」と言いました。
しかし民はそれが嘘だと知っていました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
劉秀が更に潁川を巡って父城(県名)を攻めましたが、降せませんでした。巾車郷(父城境界)に駐軍します。
 
五つの県を監督していた潁川郡掾馮異が漢兵に捕えられました。
馮異が言いました「異(私)には老母がおり、父城に住んでいるので、帰ることを願います。五城によって功を立てて徳に報います(拠五城以效功報徳)。」
劉秀はこれに同意しました。
馮異は帰ってから父城長(県長)苗萌にこう言いました「諸将の多くは暴横(横暴)だが、劉将軍だけは至った場所で虜略(略奪)を行わず、その言語挙止(挙動)を観ると、庸人(凡人)ではない。」
馮異は苗萌と共に五県を率いて投降しました。
 
[十一] 『後漢書光武帝紀上』『後漢書劉玄劉盆子列伝(巻十一)』と『資治通鑑』からです。
新市、平林の諸将は劉縯兄弟の威名が盛んになったため、更始帝に秘かに進言し、劉縯兄弟を除くことを勧めました。
それを察した劉秀が劉縯に言いました「事は不善を欲しています(善くない陰謀があります。原文「事欲不善」)。」
しかし劉縯は笑って「いつもと同じだ(常如是耳)」と言いました。
 
更始帝が諸将を大集合させました。その席で劉縯に宝剣を提出させて観賞します。
綉衣御史申徒建(「申屠建」とも書きます。『資治通鑑』胡三省注によると、申徒と申屠は同じです)がそれに合わせて玉玦(円形で一部が欠けた玉器)を献上しました。「玦」は「決」に通じ、劉縯暗殺を決断するように促しています。
しかし更始帝は実行できませんでした。
劉縯の舅(母の兄弟)樊宏が劉縯に言いました「申徒建には范増の意(范増は鴻門の会で項羽劉邦殺害を勧めました。秦王子嬰元年西楚覇王元年漢王元年206年参照)があったのではないか?」
劉縯は応えませんでした。
 
当初、李軼は劉縯兄弟と仲良くしていましたが、後に新貴(新しく尊貴になった者。『資治通鑑』胡三省注は「朱鮪等」としています)に媚びて仕えるようになったため、劉秀が劉縯を戒めて「彼は今後、信用するべきではありません(此人不可復信)」と言いました。
しかし劉縯はこれにも従いませんでした。
 
劉縯の部将劉稷はその勇が三軍(全軍)の筆頭になりました(勇冠三軍)
劉稷は更始帝が即位したと聞いた時、怒ってこう言いました「元々兵を起こして大事を図ったのは伯升(劉縯)兄弟だ。今まで更始は何を為したのだ(今更始何為者邪)。」
後に更始帝が劉稷を抗威将軍に任命しましたが、劉稷は拝命しませんでした。
そこで更始帝は諸将と共に数千人の兵を布陣し、まず劉稷を捕らえました。
更始帝が劉稷を誅殺しようとすると、劉縯が強く反対して止めに入ります。
李軼と朱鮪は更始帝に劉縯を捕えるように勧め、即日殺してしまいました。
 
更始帝は族兄の光禄勳劉賜を劉縯の代わりに大司徒に任命しました。
資治通鑑』胡三省注によると、劉賜は更始帝劉玄と同じく蒼梧太守劉利の孫です。
本来、「族兄」は、曾祖父が兄弟の関係にある親戚で年上の者を指します。例えば劉玄の曾祖父劉熊渠と劉秀の曾祖父劉外は兄弟で、劉玄が年上なので、劉玄は劉秀の族兄になります。
しかし劉玄と劉賜はどちらも祖父が蒼梧太守劉利なので、この「族兄」は本来の意味ではなく、「親族の関係にあって年長の者」を指します。
 
劉縯殺害の情報を聞いた劉秀は父城から宛に駆けて謝罪しました。
これは『資治通鑑』の記述です。『後漢書光武帝紀上』は「光武(劉秀)(新軍に勝った勢いに乗じて)更に潁陽を巡って下した。しかしちょうど伯升(劉縯)が更始に害されたため、光武は父城から宛に駆けて謝罪した」と書いています。
後漢書』の注は潁陽を県名としていますが、潁水の陽(北部)という広い意味かもしれません。
また、『中国歴史地図集(第二冊)』を見ると潁陽県は父城県から離れているので、潁川(郡)の誤りかもしれません。潁陽県も父城県も潁川郡に属します。
 
本文に戻ります。
司徒の官属(劉縯の官属。劉縯は大司徒でした)が劉秀を迎え入れて弔いましたが、劉秀は私語を交えず、ただ自分の過失を引責するだけでした。昆陽の功績を誇ったこともなく、劉縯のために喪服を着ようともせず、普段と同じように飲食したり談笑します。
更始帝はそれを見て慚愧し、劉秀を破虜大将軍に任命して武信侯に封じました。
 
 
 
次回に続きます。

新更始時代45 新王莽(四十五) 董忠事件 23年(6)