新更始時代45 新王莽(四十五) 董忠事件 23年(6)

今回も新王莽地皇四年の続きです。
 
[十二] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』と資治通鑑』からです。
新の衛将軍王渉(『資治通鑑』胡三省注によると、曲陽侯王根の子です)は以前から道士西門君恵(西門が姓です)を養っていました。
君恵は天文讖記を好み、王渉にこう言いました「星孛(彗星の一種)が宮室を掃きました。讖文によると劉氏が復興することになっています。国師公の姓名がそれです。」
国師公は劉秀ですが、元は劉歆と言いました。「歆」と「興」は中国語では近い発音です。
 
王渉はこの言を信じて大司馬董忠に語りました。
二人はしばしば共に殿中の国師の廬(宿泊する部屋)を訪ね、星宿について語りましたが、国師公は応じませんでした。
後に王渉が特にこの件で国師に会いに行き、涙を流して劉歆(劉秀)に言いました「誠に公(あなた)と共に宗族を安定させることを欲しています。なぜ渉(私)を信じないのですか。」
劉歆は天文人事について語り、自分ではなく東方の勢力が必ず成功すると言いました。
王渉が言いました「新都哀侯(王莽の父王曼です。王曼は漢代に哀侯という諡号を追尊され、王莽が帝位に即いてから新都顕王に改められました)は若い頃から病を被り(王曼は早死しました)、功顕君(王莽の母です)は元から酒を愛していたので(耆酒)、帝(王莽)が本当は我が家の子ではないのではないかと疑っています(「王莽の父は体が弱く、母は酒が好きだったので、王莽は母の淫逸によってできた子であり、王氏の子ではないのではないか」という意味です)。董公は中軍の精兵を主管し、渉(私)は宮衛を領し(管理し)、伊休侯は殿中を主管しているので、もし同心になって合謀し、共に帝を強制して(共劫持帝)東の南陽天子(劉玄)に降れば、宗族を全うすることができます。そうしなければそろって夷滅(族滅)されるでしょう。」
伊休侯は劉歆の長子で劉疊といいます。侍中五官中郎将を勤めており、かねてから王莽に愛されていました。
 
劉歆は王莽が自分の三子(劉棻、劉泳、劉愔)を殺したことを怨んでおり、また、大禍が訪れることを恐れたため、ついに王渉、董忠と謀り、政変を欲するようになりました。
劉歆は「太白星が出るのを待つべきだ。それからなら成功できる(迺可)」と言いました。
 
董忠は司中大贅起武侯孫伋も兵を管理していたため、政変について謀りました。
孫伋は家に帰ってから顔色を変えて食事もできなくなります。
妻が怪しんで問うと、孫伋は詳しく事情を話しました。
妻はこれを弟に当たる雲陽の人陳邯に告げました。陳邯は董忠等の告発を欲します。
 
七月(『漢書王莽伝下』『資治通鑑』とも「七月」です。恐らく新暦です)、孫伋と陳邯が共に劉歆等の陰謀を告発しました。
王莽は使者を分けて派遣し、董忠等を招きます。
この時、董忠は講兵(武事の講習)都肄(大訓練)をしていました。
護軍王咸が董忠に「謀が久しいのに発しなかったら漏泄(漏洩)する恐れがあります。すぐに使者を斬り、兵を率いて入るべきです」と言いましたが、董忠はこれを聞かず、劉歆、王渉と省戸(官署または皇宮の門)の下で合流しました。
 
王莽はが姓です)に命じて責問させました。劉歆等は皆、罪に服します。
中黄門がそれぞれ刃を抜いて董忠等を廬(殿中の宿泊用の部屋)に送りました。
董忠は剣を抜いて自刎しようとしましたが、侍中王望が「大司馬(董忠)が反した」と伝えた(告げた)ため、黄門が剣を持って共に董忠を格殺(撃殺)しました。
 
省中(宮内)が驚いて互いに情報を伝え、官員が兵を率いて郎署(官署)に集まりました。皆、刃を抜いて弩を引いています。
更始将軍史諶が諸署を巡視し、郎吏に「大司馬には狂病があり、それが発したため既に誅した」と告げて皆の武器を解かせました。
 
王莽は董忠を使って凶を厭(圧)しようと欲したため、虎賁(武士)を派遣して斬馬剣で董忠の死体を切り刻ませ、それを竹器に盛り、「反虜が出た(現れた)」と宣伝しました。
書を下して大司馬の官属吏士で董忠のために過ちを犯した者、造反を謀ってもまだ発覚していない者は赦すことを告げます。
但し董忠の宗族は逮捕し、醇醯(純粋な酢)、毒薬や一尺の白刃、叢棘(荊)と一緒に一つの穴に埋めました。
 
劉歆と王渉は自殺しました。
王莽は王渉が骨肉で劉秀が旧臣だったため、内部の崩壊を嫌い、敢えて誅殺を公開しませんでした。
 
伊休侯劉疊はかねてから謹直で、劉歆も今まで陰謀について劉疊に話していなかったため、劉疊は侍中中郎将を免じて中散大夫に遷されただけでした。
 
以下、『漢書王莽伝下』からです。
後日、殿中にある鉤盾土山(鉤盾は官署です。鉤盾が管轄する土山です)の僊人掌(仙人掌。承露盤。西漢武帝元鼎二年115年参照)の傍に青衣を着た白頭公(白頭の老人。青衣は卑賎な者が着る服です)が現れました。
それを見た郎吏は秘かに「国師(劉歆)だ」と言いました。
 
衍功侯王喜は以前から卦を得意としていました。そこで王莽が筮で占わせました。
衍功侯は王莽の兄の子王永が封じられましたが、すぐに自殺し、子の王嘉が継ぎました西漢王莽(孺子)始初元年8年参照)。この「王喜」は恐らく「王嘉」の誤りです。あるいは下に「小児」とあるので、王喜は王嘉の子かもしれません。
 
王喜が青衣を着た白頭公について占い、こう言いました「兵火を憂います(兵火の憂いがあります。原文「憂兵火」)。」
王莽が言いました「小児にどうしてこのような左道(邪道な方術)ができるか(小児安得此左道)。これは予の皇祖叔父子僑(王子僑。伝説の仙人です。同じ王氏なので皇祖叔父と称したようです)がわしを迎えに来ようと欲しているのだ。」
 
[十三] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』と『資治通鑑』からです。
王莽は軍師(軍隊)が外で敗れ、大臣が内で叛したため、左右に信用できる者がいなくなり、また遠い郡国の状況を考えることもできなくなったので、王邑を呼び戻して計議しようとしました。
すると崔発がこう言いました「王邑はもとから小心です。今、大衆を失ったのに召したら、節を守って自殺する(執節引決)恐れがあります。彼の意を大いに慰める方法が必要です(宜有以大慰其意)。」
そこで王莽は崔発を駆けさせて王邑を説諭し、こう伝えました「わしは年老いたのに適子(嫡子)がいないから、天下を王邑に伝えようと欲している。よって、謝罪してはならず、会っても再び(敗戦について)語らないことを命じる(敕亡得謝見勿復道)。」
王邑が到着すると大司馬に任命しました。
 
また、大長秋張邯を大司徒に、崔発を大司空に、司中寿容(「寿容」は恐らく侯名です。「侯」の字が抜けているようです)苗訢を国師に、同説侯林を衛将軍にしました。
 
同説侯林は恐らく元太師王舜の子です。
漢書王莽伝上』によると、西漢王莽(孺子)居摂元年6年)に王舜の子王匡が同心侯に、王林が説徳侯に封じられました(私の通史では触れていません)
新王莽始建国三年11年)に太師王舜が死ぬと、王莽は王舜の子王延に父爵を継がせて安新公にしました。この時、王延の弟である「襃新侯王匡」が太師将軍に任命されているので、王匡は「同心侯」から「襃新侯」に改められたようです(具体的な時間はわかりません)。同じように、王林も「説徳侯」から「同説侯」に改められたのだと思われます。
 
王莽は憂懣(憂愁不安)のため食事もできなくなり、ただ酒を飲み、鰒魚(鮑)を食べる生活を送りました。軍書を読んで疲れたらそのまま几(机)にもたれて眠り、枕に就くこともなくなります。
 
以下、『漢書王莽伝下』からです。
王莽の性格は時日小数(日時の吉凶を占う方術)を好み、事が切迫するとただ厭勝(神秘な力で相手を制圧する呪術の一種)を為すだけでした。
使者を送って渭陵西漢元帝陵)や延陵西漢成帝陵)の園門の罘(門外に設けられた屏)を破壊し、「民にまた(漢の皇帝を)思わせてはならない」と言ったり、墨でその周垣(周囲の壁)を塗って汚しました。
 
『王莽伝下』はこの後に「将至を号して歳宿といい、申水を助将軍といい、右庚を刻木校尉といい、前丙を燿金都尉といった」と書いています。
王莽は各方面の敵を圧するために、方位に「歳宿」「助将軍」「刻木校尉」「燿金都尉」という名称をつけたようです。
「右庚」の「庚」は西を指し、南面する皇帝にとって西は右になるので、「右庚」は西を指すと思われます。西は五行で金に当たり、金は木に克つので「刻木校尉」としました。
「前丙」の「丙」は南を指し、皇帝にとっては南が前になるので、「前丙」は「南」を指すと思われます。南は五行で火に当たり、火は金に克ちます。「燿金都尉」の「燿金」は恐らく「爍金(金属を溶かすこと)」の意味です。
「将至」は「間もなく至る」という意味で、自分より後ろを指すと思われます。南向きの皇帝にとって後ろは北なので、「将至」は恐らく「北」を指します。「歳宿」は「太歳木星が宿る」という意味だと思います。太歳は吉凶を左右する星とされました。
「申水」はわかりません。「申」は西南を指し、「水」は五行説では北に当たります。「申」が「甲」の誤りだとしたら、「甲」は東を指すので東西南北がそろいますが、やはり「水」が分かりません。東に対応する文字として考えられるのは「左」ですが、「水」と「左」は少しかけ離れているようにも思います。
 
王莽はこうも言いました「大斧を持って枯木を伐る。大水を流して発火を滅す(執大斧伐枯木。流大水滅発火)。」
木は土に克つとされていたため、土徳の王莽は木を嫌ったようです。
火は漢王朝の徳です。
 
このような例は記述しきれないほど多数ありました。
 
[十四] 『漢書王莽伝下巻九十九下)』からです。
この秋、太白星が流れて太微に入り、月光のように地を照らしました。
 
 
 
次回に続きます。