新更始時代46 新王莽(四十六) 隗囂・公孫述・劉望 23年(7)

今回も新王莽地皇四年の続きです。
 
[十五] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』と『資治通鑑』からです。
成紀の隗崔と隗義、上邽の楊広、冀の人周宗が同時に兵を挙げて漢に応じました。
資治通鑑』胡三省注によると、成紀県は天水郡に属します。隗姓は赤狄から生まれた姓です。
上邽県は隴西郡に属します。かつては邽戎(戎族の一つ)の邑でした。
冀県も天水郡に属します。秦武公が冀戎を討伐して県にしました。東周荘王九年(前688年)に記述があります。
 
隗崔等は平襄を攻めて王莽が置いた鎮戎大尹李育を殺しました。
資治通鑑』胡三省注によると、平襄県も天水郡に属します。王莽は天水郡を鎮戎に改名しました。
また、『後漢書隗囂公孫述列伝(巻十三)』は「李育を殺した」と書いており、『資治通鑑』はそれに倣っていますが、『漢書王莽伝下』は「成紀の隗崔兄弟が共に大尹李育を脅した(共劫大尹李育)」としています。
 
隗崔の兄の子隗囂はかねてから名声があり、経書を愛しました。隗崔等は共に隗囂を上将軍に推します。隗崔は白虎将軍に、隗義は左将軍になりました。
資治通鑑』胡三省注によると、隗崔は自ら右将軍になりましたが、白虎は右におり(左は青龍、前は朱雀、後ろは玄武です)、挙兵した場所も西方で白虎が主宰するため(東は青龍、南は朱雀、北は玄武です)、右将軍の号を白虎将軍に改めました。
また、『後漢書隗囂公孫述列伝』は隗囂を「上将軍」としており、『資治通鑑』はそれに倣っていますが、『漢書王莽伝下』では「大将軍」です。
 
隗囂は使者を送って平陵西漢昭帝陵がある県です)の人方望を招き、軍師にしました。
資治通鑑』胡三省注によると、西周武王が紂を討伐した時に太公呂尚を師尚父とし、田単が即墨を守った時には一卒を神師とし、韓信が趙を破った時は李左車に師事しました。これらは全て「軍師」です。後に「軍師」は官称になりました。
 
方望は隗囂を説得して平襄邑の東に高廟(漢高帝廟)を建てさせました。
七月己巳(二十二日)、高祖(高帝)、太宗(文帝)、世宗(武帝)を祀り、隗囂等は皆、臣と称して儀式を行いました(称臣執事)。馬を殺して同盟し、奮起して劉氏宗室を援けること(興輔劉宗)を誓います。
 
その後、檄文を郡国に送って王莽の罪悪が桀・紂に匹敵すると弾劾し、兵十万を統率して雍州牧陳慶、安定大尹王向を撃殺しました。これらの衆も吸収します。
更に諸将を分けて隴西、武都、金城、武威、張掖、酒泉、敦煌を攻略させ、全て降しました。
 
資治通鑑』胡三省注によると、王莽が漢の涼州を雍州に改めました。安定大尹王向は平阿侯王譚の子です。『漢書王莽伝下』では「安定卒正王旬」、袁宏の『後漢紀』では「太守王向」としていますが、『資治通鑑』は范瞱の『後漢書(隗囂公孫述列伝)』に従っています。
 
[十六] 『資治通鑑』からです。
以前、茂陵の人公孫述が清水長になりました。その能力によって名が知られます。
後に導江卒正に昇進して臨邛を治所にしました。
資治通鑑』胡三省注によると、清水県は天水郡に属します。また、王莽が蜀郡を導江に改めました。
 
漢兵が起きると南陽の人宗成、商(弘農郡の県名です)の人王岑も兵を起こして漢中を攻略し、漢に呼応しました。王莽が置いた庸部牧宋遵を殺し、その衆は合わせて数万人になります。
公孫述は使者を送って宗成等を迎え入れました。
ところが宗成等は成都(蜀郡の県です)に入ると虜掠暴横(略奪横暴)を行いました。
公孫述は郡中の豪傑を招いてこう言いました「天下が共に新室を苦とし、劉氏を思って久しくなる。だから漢の将軍が来たと聞いて、道路に馳せて迎えたが、今、百姓は無辜(無罪)なのに婦子が係獲(捕獲)されている。これは寇賊であり、義兵ではない。」
公孫述は部下に漢の使者を偽らせ、公孫述に輔漢将軍蜀郡太守兼益州牧の印綬を授けさせました。
その後、精兵を選んで西に向かい、宗成等を撃って殺しました。その衆は公孫述に吸収されます。
資治通鑑』胡三省注はこう書いています「臨邛は成都の西南にある。公孫述の兵は臨邛から出て宗成等を迎撃したので、西に向かったのではない。『資治通鑑』は范瞱の『後漢書』の誤りをそのまま引用している。」
 
[十七] 『後漢書劉玄劉盆子列伝(巻十一)』と『資治通鑑』からです。
元鍾武侯劉望も汝南で挙兵して占拠しました。
 
漢書王子侯表下』を見ると、長沙頃王の子劉度が宣帝時代に鍾武侯に封じられています。これを節侯といいます。長沙頃王は劉附といい、その父は戴王劉庸、その父は定王劉発なので(『漢書諸侯王表』参照)、劉望は劉秀や劉玄と同じ先祖をもちます。
 
鍾武節侯劉度の後は孝侯劉宣と哀侯劉覇が継ぎましたが、後継者がいないため一度途絶えました。
しかし成帝の時代に哀侯劉覇の叔父劉則(孝侯劉宣の弟)が鐘武侯を継ぎました。『王子侯表下』は劉則の諡号を「節侯」としていますが、劉則の父に当たる劉度諡号も「節侯」なので、恐らく誤りです。
『王子侯表下』は劉則の後を書いていません。今回挙兵した劉望は劉則の子だと思われます。
 
尚、『資治通鑑』胡三省注は「鍾武節侯劉度は長沙定王の孫」としていますが、「曾孫」の誤りです。
また、「劉望」は『後漢書劉玄劉盆子列伝(巻十一)』の記述で、『漢書王莽伝下(巻九十九下)』では「劉聖」としています。『資治通鑑』は『後漢書』に従っています。
 
昆陽で劉秀に敗れて逃走した新の納言将軍・厳尤と秩宗将軍・陳茂が劉望に帰順しました。
八月、劉望が皇帝の位に即き、厳尤を大司馬に、陳茂を丞相に任命しました(再述します)
 
[十八] 『後漢書劉玄劉盆子列伝(巻十一)』と『資治通鑑』からです。
王莽が太師王匡、国将哀章を派遣して洛陽を守らせました。
資治通鑑』胡三省注によると、「哀章」は「襃章」と書くこともあります。
 
更始帝が定国上公王匡を送って洛陽を攻めさせ、西屛大将軍申屠建、丞相司直李松を送って武関を攻めさせました。
資治通鑑』胡三省注によると、李松は李通の従弟です。
更始勢力が近畿に迫ったため、三輔が震動しました。
 
後漢書劉玄劉盆子列伝(巻十一)』はここで「この時、海内の豪桀が一斉に呼応し(翕然響応)、各地で牧守を殺して将軍を自称した。彼等は漢の年号を使って詔命を待ち、(こうした動きは)旬月(一カ月)の間に天下に拡がった」と書いています。『資治通鑑』は劉秀が昆陽で新軍に大勝した後にこの記述を引用しています(既述)
 
 
 
次回に続きます。