新更始時代47 新王莽(四十七) 九虎将 23年(8)

今回も新王莽地皇四年の続きです。
 
[十九] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』と『資治通鑑』からです。
(『漢書王莽伝下』は「この月」としていますが、何月かはっきりしません。『資治通鑑』は八月に書いています)析の人鄧曄と于匡が南郷で百余人の兵を挙げて漢(更始勢力)に応じました。
 
当時、新の析宰(析県の宰)が兵数千を率いて亭に駐留し、武関の守りに備えていました。
鄧曄と于匡が析宰に言いました「劉帝が既に立ったのに、君はなぜ命を知らないのだ。」
析宰は投降を請い、鄧曄等はその衆を全て得ました。
 
鄧曄は輔漢左将軍を、于匡は右将軍を自称し、析や丹水周辺を攻略して武関を攻めました。武関都尉朱萌は投降します。
更に進軍して右隊大夫宋綱を攻撃し、これを殺しました。その後、西に向かって湖県を攻略します。
右隊は元弘農郡で、湖県は弘農郡の県です。かつては京兆に属していました。
 
王莽はますます憂慮しましたが、策がありませんでした。
そこで崔発が王莽に言いました「『周礼』および『春秋左氏(左伝)』によると、古の国に大災があったら、哭してそれを厭(圧)したものです。だから『易』は『先に大哭して後に笑う(先号咷後笑)』と言っています。呼嗟(呼号哀嘆)によって天に告げることで救いを求めるべきです。」
資治通鑑』胡三省注によると、周の春官に属す女巫の職責は、邦(国)に大災があったら歌哭して(天に救いを)請うことでした。「哭」とは「哀を告げること」です。また、春秋時代に楚が鄭を包囲した時、鄭人は大臨(集まって哀哭すること)し、城壁を守る者も皆哭しました。崔発の進言はこれらの故事が元になっています。
 
王莽は自らも敗れつつあることを知り、群臣を率いて南郊に至りました。符命の本末を述べてから天を仰いで「皇天が既に命を臣莽に授けたのに、なぜ衆賊を殄滅(殲滅)しないのだ!もしも臣莽が正しくないのなら(非是)、雷霆を下して臣莽を誅すことを願う!」と言い、胸を叩いて大哭しました。気が尽きると伏して叩頭します。
また、天に告げる千余言(字)の策書を作って自ら今までの功労を述べました。
 
諸生儒者。学者)小民(庶民)も旦夕(朝夜)に集まって哭し、そのために餐粥(粥等の食事)を設けました。悲哀が特に激しい者や策文を唱えることができた者は郎に任命したため、郎の数が五千余人に上りました。惲がそれを統率します。
 
王莽は九人を将軍に任命し、それぞれ虎を号にして「九虎」と呼びました(これを「虎将」といいます)。九虎に北軍の精兵数万人を率いて東に向かわせ、その妻子を人質として宮中に入れました。
当時、省中(禁中)には万斤の黄金が入った匱(箱)がまだ六十匱あり、黄門、鉤盾、臧府、中尚方の各所にもそれぞれ数匱が残されていました(合わせて六十余万斤の黄金がありました)。長楽御府、中御府および都内(国庫を管理する官署)や平準帑藏に貯蔵された銭帛・珠玉・財物も黄金に並ぶほどの数があります。
しかし王莽はますます財物を惜しみ、九虎の士に一人当たり四千銭しか与えませんでした。衆将兵は怨みを重ねて闘意(闘志)を失います。
 
九虎は華陰の回谿に至り、険阻な地形を利用して守りを固めました。(防御線は)北は河黄河南岸)から南は山(恐らく崤山)に至ります。
「谿」は「谷」です。『資治通鑑』胡三省注によると、回谿は長さ四里、広さ二丈、深さ二丈五尺の谷です。
 
于匡が数千弩を率い、堆(高地)に乗じて戦いを挑みました。
鄧曄は二万余人を指揮して閿郷から南の棗街、作姑に出撃し、王莽軍の一部を破ってから北に回り、九虎の後ろに出て攻撃しました。
九虎のうち六虎が敗走し、史熊、王況の二虎が宮闕を訪ねて死に帰します(原文「帰死」。罪を認めて死刑を受け入れるという意味です)。王莽が使者を送って「死んだ者はどこに居るのか(自殺を促す言葉です。原文「死者安在」)」と責めさせたため、二人とも自殺しました。
他の四虎は逃亡しました。四虎の名は伝わっていません。
 
残った郭欽、陳翬、成重の三虎は散卒を集めて渭口の京師倉を守りました。
 
鄧曄が武関を開いて漢兵(更始勢力)を迎え入れました。
丞相司直李松が二千余人(『漢書王莽伝下』では「二千余人」ですが、『資治通鑑』は「三千余人」としています)を率いて湖に至り、鄧曄等と共に京師倉を攻めましたが攻略できませんでした。
鄧曄は弘農掾王憲を校尉に任命し、数百人を率いて渭水を北に渡りました。左馮翊界内に入って城を降し、その地を占領します。
李松は偏将軍韓臣等を派遣し、直接、西進して新豊に到らせました。韓臣等は王莽の波水将軍と戦い、波水将軍は敗走します。
韓臣等は敗走する兵を追って長門宮に至りました。
資治通鑑』胡三省注によると、波水将軍は竇融といいます(後に漢に仕えます)。波水は長安の南に位置します。
 
王憲は北に向かって頻陽に至りました。通過する場所で人々が王憲軍を迎え入れて投降し、櫟陽の人申碭、下邽の人王大といった大姓がそれぞれ衆を率いて王憲に従いました。
また、属県(『漢書』の注によると三輔の諸県)でも斄(県名)の厳春、茂陵の董喜、藍田の王孟、槐里の汝臣、厔の王扶、陽陵の厳本、杜陵の屠門少(『漢書』の注によると屠門が氏です)等がそれぞれ数千人の衆を擁して自ら漢将を号しました。
 
この時、李松と鄧曄は京師の小さな倉(京師倉)も攻略できていなかったため、長安城の攻略は更に困難だと思い、更始帝の大軍が到着するのを待つべきだと判断しました。そこで軍を率いて華陰に至り、攻城の道具を準備します。
しかし長安の周辺で挙兵した者達は城下の四方で集結しており、天水の隗氏もすぐに到着すると聞いたため、皆、先を争って入城しようとしました。王莽を誅殺するという大功を立てて、しかも他の勢力に先んじて鹵掠(略奪)するという二つの利を貪るためです。
 
王莽は使者を分けて派遣し、城中諸獄の囚徒を釈放して全てに兵器を与えました。豨(野豚)を殺してその血を飲み、皆に誓って「新室のために尽力しない者は、社鬼(土地神)がこれを記憶する(有不為新室者,社鬼記之)」と宣言します。
王莽は更始将軍史諶に彼等を指揮させましたが、渭橋を渡ると全て離散逃走してしまいました。
史諶は単身で引き還しました(空還)
 
衆兵は王莽の妻子や父祖の冢(墓)を掘り起こし、それらの棺椁や王莽が建てた九廟、明堂、辟雍を焼きました。火が城中を照らします。
 
ある人が王莽に言いました「城門の卒(兵)は東方の人なので信用できません。」
王莽は改めて越騎士(越人の騎士)を動員して衛兵にしました。門ごとに六百人を置き、それぞれに校尉一人がつきます。
 
 
 
次回に続きます。