新更始時代48 新王莽(四十八) 王莽の死 23年(9)

今回も新王莽地皇四年の続きです。
 
[十九(続き)] 九月戊申朔(『漢書王莽伝下』では「十月戊申朔」です)長安周辺に集まった兵達が宣平城門長安城東の北側第一門)から進入しました。民間では「都門」と呼ばれている門です。
城門を巡行していた張邯が兵に遭遇して殺されました。
 
王邑、王林、王巡、惲等が分かれて兵を指揮し、北闕の下で迎撃しました。
この時、漢兵(反王莽軍)で莽封(王莽を獲た褒賞として与えられる封爵)を貪るために力戦する者は七百余人いました。
ちょうど日が暮れる時で、官府や邸第(邸宅)にいた者は全て逃走しました。
 
己酉(初二日)、城中の少年(若者)朱弟、張魚等が鹵掠(略奪)に遭うことを恐れ、走ったり喚声を上げながら集団になりました(趨讙並和)。作室門(『資治通鑑』胡三省注によると、作室は未央宮西北に位置する織室や暴室を指します。尚方の工徒が作業を行う場所です。作室門は工徒が出入りする門で、未央宮の便門(副門)です)を焼き、敬法闥(敬法は宮殿の名、闥は小門です)を斧で破壊し、「反虜王莽、なぜ投降しない(何不出降)!」と叫びます。
火は掖庭後宮の宮女が住む場所)から承明殿に及びました。承明殿には黄皇室主が住んでいます。
黄皇室主は「何の面目があって漢家(漢の人)に会えるでしょう」と言うと、火の中に身を投じて死にました。
 
黄皇室主は王莽の娘です。
西漢平帝元始四年4年)に十三歳で平帝と結婚し、翌年、平帝が死にました。
新王莽始建国元年9年)には十八歳で定安太后となり、翌年に黄皇室主に改められました。
本年、自殺した時は三十二歳でした。
 
王莽は火を避けて宣室前殿に移りました。
火はすぐ後に続きます。
宮人や婦女が泣いて「どうすればいいのですか(当奈何)!」と叫びました。
 
王莽は紺袀服(紺色で統一された服)を身にまとい、璽韍を帯び、虞帝匕首を持ちました(『資治通鑑』胡三省注は「虞帝が匕首を持っていたはずがない。王莽が人を愚弄するために自分で作ったのだろう(蓋莽自為之以愚夫人)」と解説しています)
天文郎が王莽の前で式(栻。式盤。暦数や吉凶を占う道具)を使って占いました。
漢書王莽伝下』には「日時加某(日時に某を加えた)」とあります。式を使った占いの方法だと思いますが「某」の意味が分かりません。あるいは「某」は姓名の意味で、「王莽の姓名を日時に符合させて吉凶を占った」という意味かもしれません。
 
王莽は席を回して斗柄が指した方角(式盤には斗柄がついており、吉となる方角を指します)を向いて坐り、「天は予に徳を生んだのだ。漢兵が予に何をできるか」と言いました。
王莽の言葉の原文は「天生徳於予,漢兵其如予何」で、孔子が「天生徳於予,桓魋其如予何(『論語』)」と言ったのを真似してます。
 
この時、王莽は食事もせず、気(精神)が少し衰えていました(少気困矣)。
 
庚戌(初三日)の明け方、群臣が王莽を腋に抱えて前殿から椒除(宮殿の階段。陛道)を南に下り、西に向かって白虎門を出ました。和新公王揖が門外で車を準備して待機しています。
王莽は車に乗って漸台に向かいました。
資治通鑑』胡三省注によると、この漸台は未央宮の台です。未央漸台は滄池の中にあり、建章漸台は太液池の中にありました。漸台に移ったのは池の水で身を守るためです。
 
王莽はこの時も符命と威斗を抱きかかえていました。
公卿大夫や侍中、黄門郎等の従官で王莽に従う者は千余人います。
 
王邑は昼も夜も戦って疲労が極まり、士卒もほぼ全て死傷し尽くしたため、走って宮内に入りました。転々と行ったり来たりしながらやっと漸台に至ります(間関至漸台)
そこで子の侍中王睦が衣冠を解いて逃走しようとしているのを見つけました。王邑は叱責して王睦を戻らせ、父子共に王莽を守りました。
 
軍人(兵士)が殿中に入り、「反虜王莽はどこだ!」と叫びました。
一人の美人が房(部屋)から出て「漸台にいます」と言ったため、衆兵は王莽を追い、数百重に包囲しました。
台上ではまだ弓弩を射て抵抗しており、包囲している兵をわずか倒しましたが(または「わずかに退けましたが」。原文「稍稍落去」)、やがて矢が尽きて弓弩を射ることができなくなったため、短兵で接戦しました。
王邑父子と惲、王巡が戦死します。
王莽は室内に入りました。
 
下餔の時(晡時(午後三時から五時)の後。夕方)、衆兵が台を登り始めました。
王揖、趙博、苗訢、唐尊、王盛や中常侍王参等が全て台上で死にました。
 
商の人杜呉が王莽を殺してその綬を奪いました。
校尉で東海の人公賓就(公賓が氏、就が名です。『資治通鑑』胡三省注によると、魯大夫公賓庚の後代です)は元大行治礼(大行治礼丞。儀礼を治める官です)だったため(杜呉が持っていた綬に気づき)、杜呉に綬の持ち主がどこにいるか問いました。
杜呉は「室内の西北の陬間(部屋の隅の空いた場所)です」と答えます。
公賓就は死体が王莽だと確認してから首を斬りました。
軍人が王莽の体を細かく切り刻み、戦功を争って殺し合う者が数十人もいました(軍人分裂莽身支節肌骨臠分,争相殺者数十人)
 
資治通鑑』胡三省注によると、王莽は五十一歳で居摂し、五十四歳で帝位に上り、六十八歳で誅死しました。
 
公賓就が王莽の首を持って王憲を訪ねました。
王莽を滅ぼした王憲は漢大将軍を自称しました。城中の兵数十万が全て王憲に属します。
王憲は東宮に宿泊して王莽の後宮の妃嬪を妻にし、王莽の車服(車馬や衣服、器物)を使いました。
 
癸丑(初六日)、李松と鄧曄が長安に入りました。
将軍趙萌と申屠建も到着します。
王憲が璽綬を手に入れて提出しようとせず、多数の宮女を私有し、天子の鼓旗を立てていたため、捕えて斬首しました。
 
王莽の首は宛に送って市に掲げられました。百姓は共に提撃(打擲。打撃)し、王莽の舌を切って食べる者もいました(憎しみを表す行為です)
 
以下、『後漢書劉玄劉盆子列伝(巻十一)』からです。
長安中が兵を起こして未央宮を攻め、九月、東海の人公賓就が漸台で王莽を斬りました。璽綬を回収して首を宛に送ります。
更始帝はこの時、黄堂でくつろいで坐っていました(便坐)
更始帝は王莽の首を取って見ると、喜んでこう言いました「王莽もこのようにしなかったら、霍光と等しくなったはずだ。」
寵姫の韓夫人が笑って言いました「もしこのようにしなかったら、帝はどうしてこれを得られたでしょう(焉得之乎)?」
更始帝は愉快になり、王莽の首を宛の城市に掲げました。
 
漢書王莽伝下』で班固が王莽に対する長い評価を書いており、『資治通鑑』が抜粋して紹介しています。以下、『資治通鑑』から王莽の評価を引用します。
「王莽は外戚として起ちあがり、節を折って(腰を低くして)力行(努力)することで名誉を求めた。高位に就いて輔政するようになると、国家のために勤労し、直道(正道)を進んだ。これは『色(表面)は仁を取りながら(実際の)行動は違えた(原文「色取仁而行違」。『論語』の言葉が元になっています)』というものではないか。王莽は元から不仁であり、しかも佞邪の材(才)があり、また四父(王鳳、王音、王商、王根)の歴世の権に乗じ、漢の中微(半路における衰退)に遭い、国統が三絶し(成帝、哀帝、平帝には後嗣ができませんでした)、そのうえ、太后が寿考(長寿)によって宗主になったので、姦慝(奸悪)をほしいままにし、簒盗の禍を成してしまった。これらの事から推して言うなら、これも天時(天と時。天命)であり、人力がもたらしたことではない。
帝位を盗んで南面してからは、顛覆(転覆。滅亡)の形勢が桀紂よりも険しくなった。しかし王莽は晏然(安寧)として自分が黄帝と虞帝(舜)の復出(再生)だと信じ、恣睢(放縦)になってその威詐(武威と詐術)を奮った。毒が諸夏(中華)に流れ、乱が蛮貉に蔓延したのに、まだその欲を満たすには足りなかった。そのため四海の内が囂然(憂愁の様子)として生を楽しむ心を失い、中外が憤怨し、遠近が共に(兵を)発した。城池を守れなくなり、支体が分裂し、ついに天下の城邑を廃墟とさせ、害が遍く生民を覆った。書伝が記載する乱臣賊子からその禍敗を考察しても、王莽のように甚だしい者は未だにいなかった。昔、秦は『詩』『書』を焼くことで私議(正道ではない個人の考え。ここでは秦が推進した法家の思想を指します)を立て、王莽は『六芸』を誦して(そらんじて)姦言を粉飾した。両者は路は違っても帰するところは同じで(同帰殊塗)、共にそれらを用いて滅亡することになった。皆、聖王に駆除される対象になっただけである(皆聖王之駆除云爾)。」
 
 
 
次回に続きます。

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