新更始時代48 新王莽(四十八) 王莽の死 23年(9)
今回も新王莽地皇四年の続きです。
城門を巡行していた張邯が兵に遭遇して殺されました。
この時、漢兵(反王莽軍)で莽封(王莽を獲た褒賞として与えられる封爵)を貪るために力戦する者は七百余人いました。
ちょうど日が暮れる時で、官府や邸第(邸宅)にいた者は全て逃走しました。
己酉(初二日)、城中の少年(若者)・朱弟、張魚等が鹵掠(略奪)に遭うことを恐れ、走ったり喚声を上げながら集団になりました(趨讙並和)。作室門(『資治通鑑』胡三省注によると、作室は未央宮西北に位置する織室や暴室を指します。尚方の工徒が作業を行う場所です。作室門は工徒が出入りする門で、未央宮の便門(副門)です)を焼き、敬法闥(敬法は宮殿の名、闥は小門です)を斧で破壊し、「反虜王莽、なぜ投降しない(何不出降)!」と叫びます。
黄皇室主は「何の面目があって漢家(漢の人)に会えるでしょう」と言うと、火の中に身を投じて死にました。
黄皇室主は王莽の娘です。
本年、自殺した時は三十二歳でした。
王莽は火を避けて宣室前殿に移りました。
火はすぐ後に続きます。
宮人や婦女が泣いて「どうすればいいのですか(当奈何)!」と叫びました。
王莽は紺袀服(紺色で統一された服)を身にまとい、璽韍を帯び、虞帝匕首を持ちました(『資治通鑑』胡三省注は「虞帝が匕首を持っていたはずがない。王莽が人を愚弄するために自分で作ったのだろう(蓋莽自為之以愚夫人)」と解説しています)。
天文郎が王莽の前で式(栻。式盤。暦数や吉凶を占う道具)を使って占いました。
『漢書・王莽伝下』には「日時加某(日時に某を加えた)」とあります。式を使った占いの方法だと思いますが「某」の意味が分かりません。あるいは「某」は姓名の意味で、「王莽の姓名を日時に符合させて吉凶を占った」という意味かもしれません。
王莽は席を回して斗柄が指した方角(式盤には斗柄がついており、吉となる方角を指します)を向いて坐り、「天は予に徳を生んだのだ。漢兵が予に何をできるか」と言いました。
この時、王莽は食事もせず、気(精神)が少し衰えていました(少気困矣)。
庚戌(初三日)の明け方、群臣が王莽を腋に抱えて前殿から椒除(宮殿の階段。陛道)を南に下り、西に向かって白虎門を出ました。和新公・王揖が門外で車を準備して待機しています。
王莽は車に乗って漸台に向かいました。
『資治通鑑』胡三省注によると、この漸台は未央宮の台です。未央漸台は滄池の中にあり、建章漸台は太液池の中にありました。漸台に移ったのは池の水で身を守るためです。
王莽はこの時も符命と威斗を抱きかかえていました。
公卿大夫や侍中、黄門郎等の従官で王莽に従う者は千余人います。
そこで子の侍中・王睦が衣冠を解いて逃走しようとしているのを見つけました。王邑は叱責して王睦を戻らせ、父子共に王莽を守りました。
軍人(兵士)が殿中に入り、「反虜・王莽はどこだ!」と叫びました。
一人の美人が房(部屋)から出て「漸台にいます」と言ったため、衆兵は王莽を追い、数百重に包囲しました。
台上ではまだ弓弩を射て抵抗しており、包囲している兵をわずか倒しましたが(または「わずかに退けましたが」。原文「稍稍落去」)、やがて矢が尽きて弓弩を射ることができなくなったため、短兵で接戦しました。
王邑父子と䠠惲、王巡が戦死します。
王莽は室内に入りました。
下餔の時(晡時(午後三時から五時)の後。夕方)、衆兵が台を登り始めました。
商の人・杜呉が王莽を殺してその綬を奪いました。
校尉で東海の人・公賓就(公賓が氏、就が名です。『資治通鑑』胡三省注によると、魯大夫・公賓庚の後代です)は元大行治礼(大行治礼丞。儀礼を治める官です)だったため(杜呉が持っていた綬に気づき)、杜呉に綬の持ち主がどこにいるか問いました。
杜呉は「室内の西北の陬間(部屋の隅の空いた場所)です」と答えます。
公賓就は死体が王莽だと確認してから首を斬りました。
軍人が王莽の体を細かく切り刻み、戦功を争って殺し合う者が数十人もいました(軍人分裂莽身支節肌骨臠分,争相殺者数十人)。
『資治通鑑』胡三省注によると、王莽は五十一歳で居摂し、五十四歳で帝位に上り、六十八歳で誅死しました。
公賓就が王莽の首を持って王憲を訪ねました。
王莽を滅ぼした王憲は漢大将軍を自称しました。城中の兵数十万が全て王憲に属します。
将軍・趙萌と申屠建も到着します。
王憲が璽綬を手に入れて提出しようとせず、多数の宮女を私有し、天子の鼓旗を立てていたため、捕えて斬首しました。
王莽の首は宛に送って市に掲げられました。百姓は共に提撃(打擲。打撃)し、王莽の舌を切って食べる者もいました(憎しみを表す行為です)。
更始帝は王莽の首を取って見ると、喜んでこう言いました「王莽もこのようにしなかったら、霍光と等しくなったはずだ。」
寵姫の韓夫人が笑って言いました「もしこのようにしなかったら、帝はどうしてこれを得られたでしょう(焉得之乎)?」
更始帝は愉快になり、王莽の首を宛の城市に掲げました。
「王莽は外戚として起ちあがり、節を折って(腰を低くして)力行(努力)することで名誉を求めた。高位に就いて輔政するようになると、国家のために勤労し、直道(正道)を進んだ。これは『色(表面)は仁を取りながら(実際の)行動は違えた(原文「色取仁而行違」。『論語』の言葉が元になっています)』というものではないか。王莽は元から不仁であり、しかも佞邪の材(才)があり、また四父(王鳳、王音、王商、王根)の歴世の権に乗じ、漢の中微(半路における衰退)に遭い、国統が三絶し(成帝、哀帝、平帝には後嗣ができませんでした)、そのうえ、太后が寿考(長寿)によって宗主になったので、姦慝(奸悪)をほしいままにし、簒盗の禍を成してしまった。これらの事から推して言うなら、これも天時(天と時。天命)であり、人力がもたらしたことではない。
帝位を盗んで南面してからは、顛覆(転覆。滅亡)の形勢が桀・紂よりも険しくなった。しかし王莽は晏然(安寧)として自分が黄帝と虞帝(舜)の復出(再生)だと信じ、恣睢(放縦)になってその威詐(武威と詐術)を奮った。毒が諸夏(中華)に流れ、乱が蛮貉に蔓延したのに、まだその欲を満たすには足りなかった。そのため四海の内が囂然(憂愁の様子)として生を楽しむ心を失い、中外が憤怨し、遠近が共に(兵を)発した。城池を守れなくなり、支体が分裂し、ついに天下の城邑を廃墟とさせ、害が遍く生民を覆った。書伝が記載する乱臣賊子からその禍敗を考察しても、王莽のように甚だしい者は未だにいなかった。昔、秦は『詩』『書』を焼くことで私議(正道ではない個人の考え。ここでは秦が推進した法家の思想を指します)を立て、王莽は『六芸』を誦して(そらんじて)姦言を粉飾した。両者は路は違っても帰するところは同じで(同帰殊塗)、共にそれらを用いて滅亡することになった。皆、聖王に駆除される対象になっただけである(皆聖王之駆除云爾)。」
次回に続きます。