新更始時代49 更始劉玄(一) 更始政権の拡大 23年(10)

前回で王莽が死んだので、今回から更始時代とします。
 
劉玄
劉玄は字を聖公といい、東漢光武帝の族兄に当たります。
西漢舂陵戴侯・劉熊渠が蒼梧太守・劉利を生み、劉利が劉子張を生み、劉子張が劉玄を生みました。
劉玄は帝位に即いてから更始に改元したため、更始帝と呼ばれています。また、劉玄の政権を中国では「玄漢」といいます。
劉玄は後に敗れて赤眉に降り、光武帝が詔を発して淮陽王に封じました(玄漢劉玄更始三年・東漢光武帝建武元年・25年)。そのため『資治通鑑』は本年から「淮陽王」の時代としています。
 
 
以下、新王莽地皇四年・玄漢劉玄更始元年23年)の続きです。
 
[二十] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』からです。
王莽が派遣した揚州牧李聖と司命孔仁の兵が山東で敗れました。李聖は格死(戦死)します。
孔仁はその衆を率いて投降しましたが、その後、嘆息して「人の食(俸禄)を食した者はその事(仕えた人の事業)のために死ぬ(食人食者死其事)と聞いている」と言い、剣を抜いて自分を刺して死にました。
 
『王莽伝下』では李聖と孔仁が誰に敗れたのかが分かりません。
後漢書馮岑賈列伝(巻十七)』にこうあります「岑彭は伯升(劉縯)の下に配属され、伯升が殺害されてからは、大司馬朱鮪の校尉になった。朱鮪に従って王莽の揚州牧李聖を撃ち、これを殺して淮陽城を平定した。」
ここから李聖は朱鮪・岑彭の軍に敗れたと分かります。但し、孔仁が李聖と行動を共にしていたのか、別の場所で漢軍に降ったのかははっきりしません。
 
『王莽伝下』に戻ります。
曹部監杜普、陳定大尹沈意、九江連率賈萌は皆、郡を守って降らず、漢兵に誅殺されました。
賞都大尹王欽と郭欽(郭欽は虎将の一人です)は京師倉を守っていましたが、王莽の死を聞いて降りました。
更始帝は二人の義を認めて封侯しました。
 
[二十一] 『漢書王莽伝下巻九十九下)』『後漢書劉玄劉盆子列伝(巻十一)』と『資治通鑑』からです。
更始政権の定国上公王匡が洛陽を攻略し、王莽の太師王匡や哀章を生け捕りにしました。どちらも宛に送られてから斬首されます。
 
[二十二] 『後漢書劉玄劉盆子列伝(巻十一)』と『資治通鑑』からです。
冬十月、奮威大将軍劉信が汝南の劉望を撃って殺しました。厳尤、陳茂も併せて誅殺し、郡県が全て降りました。
資治通鑑』胡三省注によると、劉信は大司徒劉賜の兄劉顕の子です。
 
漢書王莽伝下(巻九十九下)』はこう書いています。
新の厳尤と陳茂は昆陽で敗れてから沛郡の譙に走り、漢将を自称して吏民を招集しました。
厳尤は王莽が位を簒奪したものの、天と時によって亡ぼされることになり、代わって聖漢が復興したという状況を吏民に説いて語りました。陳茂は伏して涕泣します。
後に元漢の鍾武侯劉聖(『資治通鑑』では「劉望」)が衆を集めて汝南で尊号を称したと聞き、二人とも劉望に降りました。
劉聖は厳尤を大司馬に、陳茂を丞相に任命します(既述)
しかし十余日で(更始軍に)敗れて厳尤、陳茂とも死にました。
郡県が全て城を挙げて降り、天下が全て漢に帰します。
 
後漢書劉玄劉盆子列伝(巻十一)』と『資治通鑑』では、八月に劉望が帝位に即いて厳尤と陳茂を大司馬と丞相に任命しており、十月に敗亡しています。
漢書王莽伝下』は劉聖(劉望)が厳尤と陳茂を大司馬と丞相に任命してから十余日で敗れたとしています。
どちらかの記述に誤りがあるようです。
 
[二十三] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
更始帝が北の洛陽に都を建てることにしました(これまでの都は宛です)
劉秀に司隸校尉の職務を代行させ(行司隸校尉)、あらかじめ洛陽に派遣して宮府を修築させます。
後漢書』の注によると、司隷校尉西漢武帝が置きました。符節を持ち、中都官徒(京師の諸官署が設けた牢獄の囚徒)千二百人を指揮して大姦猾(奸悪狡猾な者)を取り締まりましたが、後に兵権(囚徒に対する指揮権)を廃され、三輔と三河、弘農を監督することになりました。秩は比二千石です。「徒隷(囚徒奴隷。身分が賎しい者)を掌管して巡察したため司隷(隷を司る官)とよばれた」ともいいます。
 
劉秀はまず自分の僚属を置き、所属の県に文書を送り、従事(事務。政務を処理すること)司察(監察)を全て旧章西漢の制度)に戻しました(一如旧章)
後半部分の原文は「従事司察,一如旧章」です。「従事」は「従事史」という官名かもしれません。『後漢書』の注によると、司隸には「従事史」が十二人置かれました。秩は百石で、文書を管理したり非法の者を検挙します。
「従事」が官名だとしたら「従事(従事史)(諸属の県を)司察(監察)し、全て旧章西漢の制度)に戻した」という意味になります。
 
本文に戻ります。
三輔の吏士が東に出て更始帝を迎えました。
更始軍の諸将が通過しましたが、皆、幘を被り(「幘」は頭巾です。『後漢書』の注によると、卑賎で冠を被らない者が幘で頭を覆いました)、婦人の衣服や諸于(女性が羽織る服。女性用の長袍)(刺繍がされた女性用の半袖の上着を着ていたため、それを見て笑わない者はいませんでした。中には畏れて逃げ出す者もいます。
後漢書』の注は「見識ある者はこれを見て、服が適切でなければ身の災いとなる(服之不中,身之災也)と考え、災禍を避けるために周辺の郡に奔った。これは服妖である。この後、更始は赤眉に殺されることになる」と書いています。
 
しかし司隸(劉秀)の僚属が通るのを見ると、皆、歓喜を抑えることができなくなり、老吏の中には涙を流して「今日、再び漢官の威儀を見られるとは思いもしなかった(不図今日復見漢官威儀)」と言う者もいました。
ここから見識がある者は劉秀に帰心しました。
 
[二十四] 『資治通鑑』からです。
更始帝は北の洛陽に都を定めると、使者を各地に送って郡国を巡行させ、こう告げました「先に降った者は爵位を復す(封爵と官位をそのままにする。原文「先降者復爵位」)。」
 
使者が上谷郡に至りました。
上谷太守で扶風の人耿況が使者を迎え入れて印綬を献上し、使者がそれを受け取ります。
ところが、一宿しても使者は印綬を耿況に返そうとしません。
そこで功曹寇恂(『資治通鑑』胡三省注によると、蘇忿生が西周武王の司寇になり、その後代が官名から寇氏を名乗りました。郡功曹は主に官署で功労(業績)を考察する官(人事の官)で、諸曹の上になります)が兵を率いて使者に会いに行き、印綬を請いました。
使者はやはり印綬を与えず、こう言いました「天王の使者を功曹が脅かすのか!」
寇恂が言いました「使君(使者に対する敬称)を脅かそうというのではありません。心中で(あなたの)計が周到ではないことを惜しんでいるのです(竊傷計之不詳也)。今は天下が定まったばかりで、使君が節を立てて命を奉じているので(使君建節銜命)、郡国では頸(首)を延ばして耳を傾けない者がいません。今回、上谷に至ったばかりなのに、真っ先に大信を失墜してしまったら、何をもってまた他の郡に号令できるでしょう。」
使者が応えないため、寇恂は使者の左右に従う者を叱咤し、使者の命と称して耿況を招かせました。
耿況が来ると、寇恂は進み出て使者から印綬を奪い、耿況に帯びさせました。
使者はやむなく皇帝の命に則って詔を下します(承制詔之)
耿況は太守の任命を受け入れて帰りました。
 
[二十五] 『資治通鑑』からです。
宛の人彭寵と呉漢が漁陽に亡命していました。
同郷の人韓鴻が更始帝の使者になって北方の州を巡行し、皇帝の命によって(承制)彭寵を偏将軍行漁陽太守事(漁陽太守代理)に、呉漢を安楽令に任命しました。
資治通鑑』胡三省注によると、安楽県は漁陽郡に属します。
 
[二十六] 後漢書・劉玄劉盆子列伝(巻十一)』と資治通鑑』からです。
更始帝が使者を送って赤眉兵を投降させようとしました。
樊崇等は漢室が復興したと聞き、その兵を留めて、渠帥二十余人だけを率いて使者と共に洛陽に入りました。
樊崇等は更始帝に降り、全て列侯に封じられます。
しかし樊崇等はまだ国邑がなく、待機している衆人の中から離叛する者も出始めたため、赤眉の営に逃げ帰りました。
資治通鑑』胡三省注によると、樊崇等の営は濮陽にあります。
 
[二十七] 『資治通鑑』からです。
王莽が任命した廬江連率潁川の人李憲が郡を拠点に守りを固め、淮南王を称しました。
 
[二十八] 『資治通鑑』からです。
元梁王劉立の子劉永が洛陽を訪ねました。
 
劉立は西漢文帝の子劉武(梁孝王)の子孫です。西漢平帝元始四年4年)、平帝の母衛氏の一族と繋がりがあったとして国を廃され、自殺しました。
 
更始帝劉永を梁王に封じました。都は睢陽です。
 
 
 
次回に続きます。