新更始時代49 更始劉玄(一) 更始政権の拡大 23年(10)
前回で王莽が死んだので、今回から更始時代とします。
劉玄
西漢舂陵戴侯・劉熊渠が蒼梧太守・劉利を生み、劉利が劉子張を生み、劉子張が劉玄を生みました。
孔仁はその衆を率いて投降しましたが、その後、嘆息して「人の食(俸禄)を食した者はその事(仕えた人の事業)のために死ぬ(食人食者死其事)と聞いている」と言い、剣を抜いて自分を刺して死にました。
『王莽伝下』では李聖と孔仁が誰に敗れたのかが分かりません。
『後漢書・馮岑賈列伝(巻十七)』にこうあります「岑彭は伯升(劉縯)の下に配属され、伯升が殺害されてからは、大司馬・朱鮪の校尉になった。朱鮪に従って王莽の揚州牧・李聖を撃ち、これを殺して淮陽城を平定した。」
ここから李聖は朱鮪・岑彭の軍に敗れたと分かります。但し、孔仁が李聖と行動を共にしていたのか、別の場所で漢軍に降ったのかははっきりしません。
『王莽伝下』に戻ります。
曹部監・杜普、陳定大尹・沈意、九江連率・賈萌は皆、郡を守って降らず、漢兵に誅殺されました。
賞都大尹・王欽と郭欽(郭欽は虎将の一人です)は京師倉を守っていましたが、王莽の死を聞いて降りました。
更始帝は二人の義を認めて封侯しました。
更始政権の定国上公・王匡が洛陽を攻略し、王莽の太師・王匡や哀章を生け捕りにしました。どちらも宛に送られてから斬首されます。
冬十月、奮威大将軍・劉信が汝南の劉望を撃って殺しました。厳尤、陳茂も併せて誅殺し、郡県が全て降りました。
新の厳尤と陳茂は昆陽で敗れてから沛郡の譙に走り、漢将を自称して吏民を招集しました。
厳尤は王莽が位を簒奪したものの、天と時によって亡ぼされることになり、代わって聖漢が復興したという状況を吏民に説いて語りました。陳茂は伏して涕泣します。
劉聖は厳尤を大司馬に、陳茂を丞相に任命します(既述)。
しかし十余日で(更始軍に)敗れて厳尤、陳茂とも死にました。
郡県が全て城を挙げて降り、天下が全て漢に帰します。
どちらかの記述に誤りがあるようです。
『後漢書』の注によると、司隷校尉は西漢武帝が置きました。符節を持ち、中都官徒(京師の諸官署が設けた牢獄の囚徒)千二百人を指揮して大姦猾(奸悪狡猾な者)を取り締まりましたが、後に兵権(囚徒に対する指揮権)を廃され、三輔と三河、弘農を監督することになりました。秩は比二千石です。「徒隷(囚徒奴隷。身分が賎しい者)を掌管して巡察したため司隷(隷を司る官)とよばれた」ともいいます。
後半部分の原文は「従事司察,一如旧章」です。「従事」は「従事史」という官名かもしれません。『後漢書』の注によると、司隸には「従事史」が十二人置かれました。秩は百石で、文書を管理したり非法の者を検挙します。
本文に戻ります。
三輔の吏士が東に出て更始帝を迎えました。
更始軍の諸将が通過しましたが、皆、幘を被り(「幘」は頭巾です。『後漢書』の注によると、卑賎で冠を被らない者が幘で頭を覆いました)、婦人の衣服や諸于(女性が羽織る服。女性用の長袍)・繡镼(刺繍がされた女性用の半袖の上着)を着ていたため、それを見て笑わない者はいませんでした。中には畏れて逃げ出す者もいます。
『後漢書』の注は「見識ある者はこれを見て、服が適切でなければ身の災いとなる(服之不中,身之災也)と考え、災禍を避けるために周辺の郡に奔った。これは服妖である。この後、更始は赤眉に殺されることになる」と書いています。
ここから見識がある者は劉秀に帰心しました。
使者が上谷郡に至りました。
ところが、一宿しても使者は印綬を耿況に返そうとしません。
そこで功曹・寇恂(『資治通鑑』胡三省注によると、蘇忿生が西周武王の司寇になり、その後代が官名から寇氏を名乗りました。郡功曹は主に官署で功労(業績)を考察する官(人事の官)で、諸曹の上になります)が兵を率いて使者に会いに行き、印綬を請いました。
使者はやはり印綬を与えず、こう言いました「天王の使者を功曹が脅かすのか!」
寇恂が言いました「使君(使者に対する敬称)を脅かそうというのではありません。心中で(あなたの)計が周到ではないことを惜しんでいるのです(竊傷計之不詳也)。今は天下が定まったばかりで、使君が節を立てて命を奉じているので(使君建節銜命)、郡国では頸(首)を延ばして耳を傾けない者がいません。今回、上谷に至ったばかりなのに、真っ先に大信を失墜してしまったら、何をもってまた他の郡に号令できるでしょう。」
使者が応えないため、寇恂は使者の左右に従う者を叱咤し、使者の命と称して耿況を招かせました。
耿況が来ると、寇恂は進み出て使者から印綬を奪い、耿況に帯びさせました。
使者はやむなく皇帝の命に則って詔を下します(承制詔之)。
耿況は太守の任命を受け入れて帰りました。
宛の人・彭寵と呉漢が漁陽に亡命していました。
『資治通鑑』胡三省注によると、安楽県は漁陽郡に属します。
更始帝が使者を送って赤眉兵を投降させようとしました。
樊崇等は漢室が復興したと聞き、その兵を留めて、渠帥二十余人だけを率いて使者と共に洛陽に入りました。
樊崇等は更始帝に降り、全て列侯に封じられます。
しかし樊崇等はまだ国邑がなく、待機している衆人の中から離叛する者も出始めたため、赤眉の営に逃げ帰りました。
『資治通鑑』胡三省注によると、樊崇等の営は濮陽にあります。
王莽が任命した廬江連率・潁川の人・李憲が郡を拠点に守りを固め、淮南王を称しました。
次回に続きます。