新更始時代51 更始劉玄(三) 王郎即位 23年(12)
今回で新王莽地皇四年・玄漢劉玄更始元年が終わります。
劉秀が邯鄲に入ってから、かつての趙繆王の子・劉林が劉秀に進言し、列人(県名)を決壊させて河水を赤眉に注ぐように勧めました。
劉林はまず劉秀に「赤眉を破ることができます」と言いました。劉秀がその理由を問うと、こう答えました「赤眉は今、河東におり、河水は列人から北に流れています。もし河水を決壊させてそこに注げば、百万の衆を魚にさせることができます。」
劉秀がこれに答えず、意見を採用しなかったため、劉林は真定に去りました。
劉林はかねてから趙・魏の間で任俠の行動がありました。
この頃、邯鄲の卜者・王郎がこの事件を利用して自分が真の劉子輿だと偽り、こう言いました「私の母は成帝の元謳者(歌女)で、かつて黄気が上から下るのを見て、すぐに任身(妊娠)した。趙后(趙飛燕)がこれを害そうと欲したが、偽って他人の子と換えたので保全できた。」
劉林等はこれを信じ、趙国の大豪・李育、張参等と共に王郎の擁立を謀りました(この部分は『資治通鑑』の記述で、『後漢書・王劉張李彭盧列伝(巻十二)』が元になっています。『後漢書・光武帝紀上』では「劉林が卜者・王郎を成帝の子・劉子輿だと偽った」と書いています)。
ちょうど民間で「赤眉がもうすぐ河を渡る」という噂が流れたため、劉林等はこれを機に「赤眉が劉子輿を立てる(赤眉が黄河を渡ってくるのは劉子輿を立てるためだ。原文「赤眉当立劉子輿」)」と宣言して衆心を観察しました。
その結果、百姓の多くがこれを信じました。
『後漢書・孝武帝紀上』と『資治通鑑』は劉林を「趙繆王の子」としており、『後漢書』の注が「繆王は景帝の七代孫で名を元という。『前書(漢書)』によると、殺人の罪に坐して大鴻臚に上奏された」「『東観記』では『林』を『臨』としている」と解説しています。しかしこの記述には恐らく誤りがあります。
趙彭祖の後、頃王・劉昌、懐王・劉尊と継ぎましたが、劉尊に後嗣がいなかったため一時途絶えました。
しかし宣帝が劉尊の弟・劉高を改めて趙王に封じました。これを哀王といいます。その後、共王・劉充が継ぎ、劉充の跡を劉隠が継ぎましたが、王莽の時代に廃されました。
このように、繆王・劉元は趙王ではなく平干王で、劉彭祖の孫、景帝の曾孫に当たります。また、宣帝五鳳二年(前56年)に死んでいるので、劉林が劉元の子というのも年齢が合わないようです(本年は紀元後23年です)。
本文に戻ります。
十二月、劉林等が車騎数百人を率いて早朝に邯鄲城に入り、王宮(元趙王の宮殿)に住みました。そこで王郎を天子に立てます(邯鄲が都になります)。
趙国以北から遼東以西に及ぶ地が皆、噂を聞いて王郎に呼応しました(望風響応)。
[三十三] この頃、東海で挙兵して徐州・兗州一帯で六七万の勢力を持つようになった力子都(刁子都。新王莽天鳳五年・18年参照)が更始帝に降りました(翌年春に劉秀が力子都勢力に頼ろうとします。力子都が更始帝に降るのはそれ以降の事かもしれません)。以下、『任李萬邳劉耿列伝(巻二十一)』からです。
更始帝は即位してから使者を派遣して力子都を下し、徐州牧に任命しました。
しかし力子都は自分の部曲の者に殺されてしまいます。
その後、余党がまた集まって檀郷で諸賊と一緒になりました。そのため檀郷と号します。
これらの出来事が具体的にいつ起きたのかは分かりません。
次回に続きます。