新更始時代51 更始劉玄(三) 王郎即位 23年(12)

今回で新王莽地皇四年・玄漢劉玄更始元年が終わります。
 
[三十二] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
劉秀が邯鄲に入ってから、かつての趙繆王の子劉林が劉秀に進言し、列人(県名)を決壊させて河水を赤眉に注ぐように勧めました。
資治通鑑』胡三省注が『続漢書』から劉林の言を紹介しています。
劉林はまず劉秀に「赤眉を破ることができます」と言いました。劉秀がその理由を問うと、こう答えました「赤眉は今、河東におり、河水は列人から北に流れています。もし河水を決壊させてそこに注げば、百万の衆を魚にさせることができます。」
劉秀がこれに答えず、意見を採用しなかったため、劉林は真定に去りました。
劉林はかねてから趙魏の間で任俠の行動がありました。
 
王莽の時代、長安で成帝の子劉子輿を自称する者がおり、王莽に殺されました(新王莽始建国二年10年)
この頃、邯鄲の卜者王郎がこの事件を利用して自分が真の劉子輿だと偽り、こう言いました「私の母は成帝の元謳者(歌女)で、かつて黄気が上から下るのを見て、すぐに任身(妊娠)した。趙后(趙飛燕)がこれを害そうと欲したが、偽って他人の子と換えたので保全できた。」
劉林等はこれを信じ、趙国の大豪李育、張参等と共に王郎の擁立を謀りました(この部分は『資治通鑑』の記述で、『後漢書王劉張李彭盧列伝(巻十二)』が元になっています。『後漢書光武帝紀上』では「劉林が卜者王郎を成帝の子子輿だと偽った」と書いています)
 
ちょうど民間で「赤眉がもうすぐ河を渡る」という噂が流れたため、劉林等はこれを機に「赤眉が劉子輿を立てる(赤眉が黄河を渡ってくるのは劉子輿を立てるためだ。原文「赤眉当立劉子輿」)」と宣言して衆心を観察しました。
その結果、百姓の多くがこれを信じました。
 
後漢書武帝紀上』と『資治通鑑』は劉林を「趙繆王の子」としており、『後漢書』の注が「繆王は景帝の七代孫で名を元という。『前書漢書』によると、殺人の罪に坐して大鴻臚に上奏された」「『東観記』では『林』を『臨』としている」と解説しています。しかしこの記述には恐らく誤りがあります。
以下、『漢書景十三王列伝(巻五十三)』と『漢書諸侯王表』からです。
まず、西漢景帝の子劉彭祖が広川王に封じられ、後に趙王に遷されました。これを敬粛王といいます。
趙彭祖の後、頃王劉昌、懐王劉尊と継ぎましたが、劉尊に後嗣がいなかったため一時途絶えました。
しかし宣帝が劉尊の弟劉高を改めて趙王に封じました。これを哀王といいます。その後、共王劉充が継ぎ、劉充の跡を劉隠が継ぎましたが、王莽の時代に廃されました。
趙王とは別に、武帝に時代に劉彭祖の少子劉偃が平干王に封じられました西漢武帝征和二年91年)。これを頃王といいます。
頃王は在位十一年で死にました。その子が繆王劉元です。劉元は西漢宣帝五鳳二年(前56年)に死に、「暴虐不道」だったため国を廃されました。
このように、繆王劉元は趙王ではなく平干王で、劉彭祖の孫、景帝の曾孫に当たります。また、宣帝五鳳二年(前56年)に死んでいるので、劉林が劉元の子というのも年齢が合わないようです(本年は紀元後23年です)
 
本文に戻ります。
十二月、劉林等が車騎数百人を率いて早朝に邯鄲城に入り、王宮(元趙王の宮殿)に住みました。そこで王郎を天子に立てます(邯鄲が都になります)
将帥を分けて派遣し、幽州冀州一帯を巡行しながら郡国を帰順させました。また、各地の州郡に檄文を飛ばします。
趙国以北から遼東以西に及ぶ地が皆、噂を聞いて王郎に呼応しました(望風響応)
 
[三十三] この頃、東海で挙兵して徐州兗州一帯で六七万の勢力を持つようになった力子都(刁子都。新王莽天鳳五年18年参照)更始帝に降りました(翌年春に劉秀が力子都勢力に頼ろうとします。力子都が更始帝に降るのはそれ以降の事かもしれません)。以下、『任李萬邳劉耿列伝(巻二十一)』からです。
更始帝は即位してから使者を派遣して力子都を下し、徐州牧に任命しました。
しかし力子都は自分の部曲の者に殺されてしまいます。
その後、余党がまた集まって檀郷で諸賊と一緒になりました。そのため檀郷と号します。
檀郷の渠帥董次仲は茌平で挙兵し、黄河を渡って魏郡、清河に入りました。五校(他の勢力の一つ)と合流して衆十余万の勢力になります。
 
これらの出来事が具体的にいつ起きたのかは分かりません。
 
 
 
次回に続きます。