新更始時代52 更始劉玄(四) 長安遷都 24年(1)

今回は玄漢劉玄更始二年です。
 
玄漢劉玄更始二年
甲申 24
 
[] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
春正月、王郎が新たに隆盛したため、更始政権の大司馬劉秀が北徇(北巡)して薊県に入りました。
 
[] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』と資治通鑑』からです。
先に長安に入っていた申屠建と李松が更始帝の遷都を迎え入れました。
二月、更始帝が洛陽を発ちます。
 
以前、申屠建は崔発に師事して『詩』を習いました。
そのため、申屠建が長安に入ると(前年)、崔発は申屠建に降りました。
しかし後に崔発がまた(王莽の事を)宣揚したため(原文「復称説」。『漢書』顔師古注は「妄りに符命を語り、漢に対して従順ではなかった」と解説しています)、申屠建は丞相劉賜に崔発を斬らせて見せしめにしました。
 
新の史諶、王延、王林、王呉、趙閎も降りましたが、全て殺されました
 
三輔の豪傑で号を借りて(漢の将軍号を名乗って)兵を挙げ、王莽を誅殺した者達は、皆、封侯を望んでいました。
しかし申屠建が王憲を斬り(前年)、しかも声を揚げて「三輔児(近畿の男児は大黠(大いに狡猾)で、共にその主を殺した」と言ったため、吏民が恐慌しました。
属県が集まって守りを固め、申屠建等では平定できなくなったため、申屠建は部下を駆けさせて更始帝に報告します。
 
更始帝長安に入ると詔を下して大赦を行い、王莽の子以外は全てその罪を除くことにしました。旧王氏の宗族は安全を保たれ、三輔がやっとことごとく安定します。
 
後漢書劉玄劉盆子列伝(巻十一)』によると、更始帝が洛陽を発って西に向かった時、李松が先導しました。
出発したばかりの時、馬が驚いて奔りだし、北宮の鉄柱にぶつかって三馬が死にました。
後漢書』の注は「馬の禍は、当時、更始が道を失っており、間もなく敗亡することの徵(兆)である」と書いています。
 
以下、『後漢書劉玄劉盆子列伝(巻十一)』と『資治通鑑』からです。
王莽が敗れた時、長安の未央宮だけが焼失され、その他の宮館は一カ所も損なっていませんでした。
宮女数千人が後庭後宮に備わっており、宮室、鍾鼓、帷帳(供帳帷幕)、輿輦、器服、太倉、武庫、官府は全て無事で、市里も以前から変わっていません。
更始帝長安に入ってから長楽宮に住みました。
 
漢書王莽伝下(巻九十九下)』は遷都以後の長安の状況もまとめてこう書いています。
更始帝長安を都にして長楽宮に住みました。府臧(藏)は全て備わっています。未央宮だけが王莽を三日間火攻めにしたため破壊されましたが、王莽の死後、安定を取り戻して復元されました(案堵復故)
更始帝は到着してから一年余も政教を行いませんでした。
明年夏、赤眉の樊崇等が衆数十万人を率いて入関し、劉盆子を立てて尊号を称しました。赤眉が更始帝を攻めて、更始帝は赤眉に降ります。
赤眉は長安の宮室市里を焼き、更始帝を殺害しました。
民が飢餓に苦しんで死者が数十万に上り、長安は廃墟と化して歩く人がいなくなりました。
宗廟園陵も全て掘り起こされ、霸陵(文帝陵)と杜陵(宣帝陵)だけが完全を保ちました。
六月に世祖(劉秀)が即位してから宗廟と社稷が再び建てられ、天下が艾安(安定太平)になりました。
 
後漢書劉玄劉盆子列伝(巻十一)』と『資治通鑑』に戻ります。
更始帝が前殿に昇り、郎吏が序列に従って庭中に並びました。更始帝は羞恥のため顔色を変え(羞怍)、うつむいて座席をかきむしり(俛首刮席)、敢えて群臣を視ようとしません。
諸将で遅れて来た者がいると、更始帝は「略奪でどれだけ得たか(虜掠得幾何)?」と問いました。
左右の侍官は皆、宮省(宮内)の久吏(旧吏)だったため、更始帝と諸将のやり取りを見て、驚愕して互いに顔を見合わせました。
 
李松と棘陽の人趙萌が更始帝に進言し、諸功臣を全て封王するべきだと説きました。
しかし朱鮪がこれに反対しました。西漢高祖の約束では、劉氏でなければ王に立てないことになっていたからです。
そこで更始帝はまず諸宗室を封王しました。
太常将軍劉祉を定陶王に、劉慶を燕王に、劉歙を元氏王に、大将軍劉嘉を漢中王に封じます。
資治通鑑』胡三省注によると、劉祉は舂陵康侯劉敞の子で、劉敞は王莽によって侯位を廃されました。劉玄や劉秀は舂陵侯の小宗(分家)で、劉敞とその子劉祉は大宗に当たります。
劉慶は劉敞の弟、劉嘉は劉敞の弟の子で、劉歙は更始帝の叔父です。
定陶県は済陰郡に属し、元氏県は常山郡に属します。
 
また、劉賜を宛王に、劉信を汝陰王に封じました。
劉賜は更始帝劉玄と同じく蒼梧太守劉利の孫です。劉信は劉賜の兄劉顕の子です
資治通鑑』胡三省注によると、宛県は南陽郡に属します。汝陰県は汝南郡に属し、旧胡国です。
 
次に王匡を比陽王(または「泚陽王」)に、王鳳を宜城王に、朱鮪を膠東王に、廷尉大将軍王常を鄧王に、申屠建を平氏王に、大司空陳牧を陰平王に、衛尉大将軍張卬を淮陽王に、執金吾大将軍廖湛を穰王に、尚書胡殷を隨王に、柱天大将軍李通を西平王に、五威中郎将李軼を舞陰王に、水衡大将軍成丹を襄邑王に、驃騎大将軍宗佻を潁陰王に、尹尊を郾王に封じました。
しかし朱鮪だけは辞退して「臣は劉宗(劉氏の宗族)ではないので、制度を犯すことはできません(不敢干典)」と言い、王位を受け入れませんでした。
資治通鑑』胡三省注によると、比陽県は南陽郡に、宜城県は南郡に属します。膠東は西漢時代も王国で、都は即墨です。鄧県は南陽郡に属し、旧鄧国です。平氏県は南陽郡に属します。陰平県は広漢郡に属します。淮陽は元陳国で、漢代に淮陽国になりました。穰県は南陽郡に属します。隨県は南陽郡に属し、旧隨国です。西平県は汝南郡に、舞陰県は南陽郡に、襄邑県は陳留郡に、潁陰県は潁川郡に属します。郾県は潁川郡に属し、戦国時代は魏の下邑でした。
 
王位が定まると、朱鮪を左大司馬に、宛王劉賜を前大司馬に任命し、李軼、李通、王常等と共に関東を鎮撫させました。
また李通を派遣して荊州を鎮めさせ、王常を行南陽太守事南陽太守代理)に任命しました。
 
李松を丞相に、趙萌を右大司馬に任命して、共に朝廷内の責任を負わせました。
 
 
 
次回に続きます。