新更始時代53 更始劉玄(五) 更始政権の混乱 24年(2)

今回は玄漢劉玄更始二年の続きです。
 
[] 『漢書王莽伝下(巻九十九下)』と資治通鑑』からです。
更始帝は趙萌の娘を娶って夫人にしており、寵愛していたため、政治を趙萌に委ね、自身は日夜、後庭後宮で婦人と飲讌(飲宴)しました。
群臣が進言したい事があっても、いつも酔っていて会えません。やむを得ない時は侍中を帷中に坐らせて群臣に言葉を伝えさせます。
諸将は更始帝の声ではないと知ると、退出してから皆怨みを抱いて「成敗がまだわからないのに、既に自ずからこのように縦放(放縦)しているのか」と言いました。
 
韓夫人は特に酒が好きで、常に帝に侍って飲んでいました。
常侍(『資治通鑑』胡三省注によると、中常侍を指します。外朝の臣の上奏を天子に伝えます)が上奏に来ると、いつも怒って「ちょうど帝が私と飲んでいるのに、正にこの時を使って事を持ってくるのですか(帝方対我飲正用此時持事来邪)」と言い、立ち上がって書案(公文の書巻)を壊しました(原文「抵破書案」。「書案」は文書を書く小さい机かもしれません。「抵破」の「抵」は「撃つ」「破」は「破損させる」という意味です)
 
趙萌は専権して生殺をほしいままにしました。
郎吏で趙萌の放縦な様子を話す者がいましたが、更始帝が怒って剣を抜き、斬り殺してしまいました。この後、敢えて発言する者がいなくなりました。
 
趙萌には心中で憎んでいる侍中(皇帝の近臣)がおり、引き下ろして(宮中から連行して)斬殺してしまいました。更始帝が命乞いをしても聴きませんでした(趙萌の権勢を表す出来事です)
 
当時、李軼と朱鮪が山東で擅命し(命をほしいままにし。勝手に振る舞い)、王匡と張卬が三輔で横暴に振る舞っていました。
彼等(趙萌、李軼、朱鮪、王匡、張卬)から官爵を授かる者は全て群小賈豎(小人の群れや賎しい商人。「賈豎」は商人の蔑称です)や膳夫庖人(料理人)といった者達で、誰でも妄りに官爵が与えられ、多くが繡面衣(刺繍をした頭巾。婦人が顔を覆う布)や錦袴、襜褕(正装ではない上着、諸于(女性が羽織る服。女性用の長袍)を身につけ、道上で罵詈して騒ぎました。
 
長安の人々はこのような状況を語ってこう言いました「竈の下で料理したら中郎将。羊の胃をよく煮たら騎都尉。羊の頭をよく煮たら関内侯(竈下養,中郎将。爛羊胃,騎都尉。爛羊頭,関内侯)。」
 
軍師将軍豫章の人李淑が上書して更始帝を諫めました「最近、賊寇を誅したばかりで、王化がまだ行われていないので、百官有司(官員)は自分の任務に慎重になるべきです。三公とは上は台宿(三台星)に応じ、九卿とは下は河海に法るから(原文「三公上応台宿,九卿下括河海」。『後漢書』の注によると、三公は天において三台星になり、九卿は北斗になります。また、三公は五岳を象徴し、九卿は河海に法り、二十七大夫は山陵に法り、八十一元士は谷阜(谷山)に法り、合わさって帝佐(帝の補佐)となり、綱紀を正します)、天工(天の職責)を人が代わって行えるのです(故天工人其代之)
陛下の定業は下江、平林の勢によるものでしたが、これは臨時の際には役に立っても(臨時済用)、既に安定した時には施すべきではありません(不可施之既安)。制度を釐改(改革)し、更に広く英俊を招き、才によって爵を授け、そうすることで王国を匡す(正す)べきです。今の公卿大位は戎陳(戎陣。戦陣。ここでは軍人の意味です)ではない者はなく、尚書顕官は皆、庸伍(凡庸な者)から出ており、亭長や賊捕(盗賊を捕えること)の任務を与えるべきなのに(亭長や賊捕に用いる資質なのに。原文「資亭長、賊捕之用」)、輔佐綱維(中枢)の任に当たっています。名(名号。爵位官職)と器(礼器。車服儀礼の制度)とは聖人が重んじるものですが、今は(聖人が)重んじるものを相応しくない人に加えており、彼等が万分の益を受け、王化が振興して政治が安定すること(興化致理)を望んでいます。これは木に登って魚を求め(緣木求魚)、山に登って珠(真珠)を採る(升山采珠)ようなものです。海内がこれを見たら、それによって漢祚(漢の帝位)を窺度(秘かに狙うこと)する者も出てくるでしょう。
臣は憎疾(憎しみや嫉妬)があって昇進を求めるのではありません。ただ陛下のためにこのような挙厝(措置)を惜しむのです。質の悪い材料を使ったら錦も損なわれるものであり(敗材傷錦)、これは考えを到らせるべきことです。今までの謬妄(荒唐愚妄)の失(過失)を割く(絶つ)しかありません。周文西周文王)による済済(人材がそろっていること)の美を興隆させることを思います。」
更始帝は怒って李淑を捕え、詔獄に繋いでしまいました。
 
当時は諸将も出征したら朝廷の外で勝手に誅賞を行い、それぞれが牧守を置いたため、州郡が交錯して誰に従えばいいのか分からなくなりました。
こうして関中が離心し、四海が怨んで背反しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
更始帝が隗囂と叔父の隗崔、隗義等を招きました。
隗囂が招きに応じて出発しようとした時、方望が「更始の成敗はまだわかりません」と言って固く止めました。
しかし隗囂が諫言を聴かないため、方望は謝辞を書き残して去りました。
 
隗囂等が長安に入ると、更始帝は隗囂を右将軍にしました。隗崔と隗義は旧号のままです(元々、隗囂は上将軍、隗崔は白虎将軍、隗義は左将軍でした。隗囂だけは右将軍に改められましたが、隗崔と隗義はそのままです)
 
 
 
次回に続きます。

新更始時代54 更始劉玄(六) 劉秀の逃走 24年(3)