新更始時代54 更始劉玄(六) 劉秀の逃走 24年(3)

今回も玄漢劉玄更始二年の続きです。
 
[] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
上谷太守耿況が子の耿弇に上奏文を持たせて長安に派遣しました。耿弇はこの時二十一歳です。
耿弇が宋子に至った時、ちょうど王郎が挙兵しました。耿弇の従吏孫倉と衛包が言いました「劉子輿は成帝の正統です。これを捨てて帰順せず、遠くに行って何をするのですか(遠行安之)。」
耿弇は剣をつかんでこう言いました「子輿は弊賊(敗賊)だ。最後は降虜になる。私が長安に到ったら国家に上谷、漁陽の兵馬について述べ、帰ったら突騎(勇猛な騎兵)を動員し、枯木を倒すように(摧枯折腐)烏合の衆を蹂躙することになる。公等が去就を識らないところを観ると、族滅は久しくない。」
孫倉と衛包は逃亡して王郎に降りました。
 
耿弇は大司馬劉秀が盧奴(県名)にいると聞き、北に駆けて謁見しました。
劉秀は耿弇を留めて署(大司馬府)の長史に任命し、共に北に向かって薊に入ります。
薊はかつて燕国の都でした。『資治通鑑』胡三省注によると、西漢昭帝が燕を広陽国に改めました。治所は薊のままです。
 
王郎が檄文を飛ばして劉秀に十万戸の懸賞をかけました。
劉秀は(大司馬)功曹令史潁川の人王霸に命じて市中で人を募らせ、王郎を撃とうとしましたが、市の人々は大笑いし、手を挙げて邪揄(揶揄。嘲笑)しました。王霸は恥じ入って引き上げます。
 
劉秀が薊を出て南に帰ろうとすると、耿弇が言いました「今、兵は南方から来たので、南に行くべきではありません。漁陽太守彭寵は公(あなた)の邑人で(『資治通鑑』胡三省注によると、彭寵は南陽宛人です)、上谷太守は弇(私)の父です。この二郡の控弦(弓を引く士。転じて戦士の意味です)万騎を発すれば、邯鄲(王郎)は憂慮するに足りません。」
劉秀の官属や腹心は皆、反対して「死ぬとしても(故郷の)南に頭を向けるものです(死尚南首)。なぜ北に行って囊中(袋の中)に入るのですか(『資治通鑑』胡三省注によると、漁陽と上谷は北が塞垣(辺塞)に接し、袋の中に入るように路が狭くなっていました)」と言いましたが、劉秀は耿弇を指さして「彼は我が北道の主人である(是我北道主人也)」と言い、耿弇の進言に従いました。
北道の主人というのは、北道を通る者を客とみなして受け入れる主人です。劉秀の言は、北道の主人である耿弇を拒否して南に還るわけにはいかないということを意味しています。
 
ちょうどこの時、元広陽王の子劉接が薊の城内で挙兵して王郎に呼応しました。
広陽王は西漢武帝の子燕王劉旦(剌王)の家系です。燕王劉旦は昭帝の時代に謀反が発覚して自殺しました(昭帝元鳳元年80年参照)
しかし宣帝が劉旦の子劉建を広陽王に立てました(宣帝本始元年73年参照)
漢書武五子伝(巻六十三)』と『漢書諸侯王表』によると、劉建の諡号は頃王です。劉建の後、穆王劉舜、思王劉璜と続き、劉璜の子劉嘉が王莽によって王位を廃されましたが、符命を献上したため扶美侯に封じられました(新王莽始建国二年10年参照)
今回挙兵した劉接は劉嘉の子で、武帝から六代目の子孫になります。
 
劉接が挙兵したため、城内が混乱して人々が互いに驚恐しました。
この時、邯鄲の使者が到着したという噂が流れました。二千石以下の官員が使者を迎え入れるために全て城外に出ます。
劉秀はその隙に急いで車を駆けさせて城外に逃げようとしました。しかし南城門に至ると門が既に閉められていました。
劉秀は門を攻めてやっと脱出し、朝も夜も南に駆けました。途中の城邑に入ろうとせず、食事も宿泊も道端で済ませます。
蕪蔞亭に至った時は気候が寒烈(極寒)でした。馮異が劉秀に豆粥を献上しました。
 
饒陽に至った時には官属が皆、食糧に欠乏していました。そこで劉秀は邯鄲の使者を自称し、伝舍(客館)に入りました。
伝吏が食事を進めると、従者達は飢えていたため争ってそれを奪います。
伝吏は偽者ではないかと疑い、鼓を数十回敲いて「邯鄲将軍が到着した」と偽りました。
官属は皆色を失います。
劉秀も車に乗って駆けようとしましたが、逃げても免れられないことを恐れたため、ゆっくり戻って坐りなおし、「邯鄲将軍を入れてください」と言いました。
久しくしてから車で伝舎を去ります。
(劉秀を怪しんだ)伝舎の人が遠くに離れた門者(城門の守衛)に門を閉じるように言いました。
しかし門長はこう言いました「天下(の大局)はまだわからないのに、長者を遮るのか(天下詎可知而閉長者乎)。」
劉秀は南に向かって脱出できました。
 
劉秀一行は朝から夜まで兼行し、霜雪を冒して進みました。ちょうど寒冷の時期だったため、皆、顔にひび割れができます。
 
劉秀が下曲陽に至りました。
王郎の兵が後ろに迫っているという情報が入ったため、従者が皆恐れました。
滹沱河まで来ると、先行していた候吏が戻って「河水が融けて氷が流れています(河水流澌)。船がないので渡れません」と言いました。
劉秀は王霸に視に行かせました。
王霸は衆兵が驚くことを恐れ、また、とりあえず前に進むことを欲したため、水に阻まれて還りましたが、偽って「冰が堅いので渡れます」と言いました。
官属は皆喜び、劉秀も笑って「候吏はやはり妄語(妄言)だった」と言いました。
劉秀等が前進して河に至ると、ちょうど河が氷結していました。劉秀は王霸に渡河を監護させます。
(大部分が既に渡り終えましたが)数騎がまだ渡り終える前に氷が融けたたため、数量の車が河に落ちました。
 
後漢書光武帝紀上』の注は『続漢書』から引用してこう書いています「渡河の際、冰で滑って馬が倒れたため、それぞれ囊(袋)に沙を入れて、冰の上に布いてから(土砂を撒いてから)河を渡った。」
 
劉秀が南宮(県名)に至りました。
大風雨に遭遇したため、劉秀は車を牽いて道の傍の空舍(空家)に入れました。馮異が薪を抱えて運び、鄧禹が火をおこし、劉秀が竈を向いて衣服をあぶり、馮異がまた麦飯を進めます。
 
劉秀が下博(県名)の城西に至りました。惶惑(恐慌困惑)してどこに向かえば分からなくなります。
すると白衣の老父が道端におり、指をさして「努力せよ。信都郡は長安のために城を守っている(『後漢書光武帝紀上』では「信都郡為長安守」、『資治通鑑』では「信都郡為長安城守」です)。ここから八十里だ」と言いました。
劉秀は信都郡に向かって駆けました。
後漢書光武帝紀上』の注は白衣の老父を「恐らく神人である。今、下博県西に祠堂がある」と解説しています。
 
当時、邯鄲周辺の郡国はほとんどが王郎に降っていましたが、信都太守南陽の人任光と和戎太守信都の人邳肜(『資治通鑑』胡三省注によると、奚仲が夏王朝の車正になって邳に封じられ、その後代が邳を氏にしました)だけは従おうとしませんでした。
資治通鑑』胡三省注は「和戎」についてこう書いています。「『東観記(東観漢記)』に『王莽が信都を分けて和戎を置き、下曲陽を治所にした』とある。『邳肜伝後漢書任李万邳劉耿列伝・巻二十一)』は『和成』と書いており、『成』の字が正しい。」
後漢書光武帝紀上』にも「和成」と書かれています。
尚、『欽定四庫全書東観漢記邳肜(巻十。版本によって巻数は異なります)』を見ると、「王莽が(信都ではなく)鉅鹿を分けて和成郡を設け、下曲陽を治所にして邳肜を卒正(太守)に任命した」とあります。
 
任光は一人で孤城を守っても恐らく保てなくなると考えていたため、劉秀が来たと聞いて大いに喜び、門を開いて劉秀を迎え入れました。吏民も皆、万歳を唱えます。
邳肜も郡を挙げて投降し、和戎(和成)から劉秀に会いに来ました。
 
議者の多くが「信都の兵に送られて西の長安に還るべきだ」と言いましたが、邳肜は反対してこう言いました「吏民が歌吟して漢を思うこと久しいので、更始が尊号を挙げたら天下が響応し、三輔が宮を清め、道を掃除してこれを迎えました。今、卜者王郎は名を偽って勢に乗じ、烏合の衆を駆り集め、こうして燕趙の地を振るわせましたが、根本の固(堅固な基礎)がありません。明公が二郡(信都、和成)の兵を奮ってこれを討てば、どうして克てないことを患いる必要がありますか(何患不克)。今これを捨てて帰ったら、空しく河北を失うだけでなく、必ず三輔をますます驚動させ、威重を墮損(失墜)させることになるので、相応しい計ではありません(非計之得者也)。もし明公に再び征伐する意思がないのなら、信都の兵でも集合させるのは困難です(王郎を征伐するつもりがないのなら、信都の兵衆が明公を守って長安に送ることはありません)。なぜでしょうか。明公が西に向かったら、邯鄲の形勢が完成します。民は自分の父母を棄てて、成主(既成の主)に背いてまで千里も公を送るはずがなく、彼等が離散亡逃(逃亡)するのは必至です。」
劉秀は留まりました。
 
 
 
次回に続きます。