新更始時代55 更始劉玄(七) 劉秀の反撃 24年(4)

今回も玄漢劉玄更始二年の続きです。
 
[(続き)] 劉秀は二郡(信都と和成)の兵が弱いと考えたため、城頭子路や力子都(刁子都)の軍中に投じようとしました。
しかし任光が劉秀に反対したため、劉秀は周辺の県から人を集めて精兵四千人を得ました。
 
城頭子路は東平の人爰曾で、黄河済水一帯で寇掠していました。衆二十余万を擁します。『資治通鑑』胡三省注によると、爰曾は盧城頭(「盧」は県名、「城頭」は城楼、城壁の意味です)で挙兵し、字を子路といったため、「城頭子路」と号しました。
力子都は衆六七万を擁していました(力子都は更始帝に降って徐州牧に任命されますが、それがいつの事かはわかりません。前年参照)
 
劉秀は任光を左大将軍に、信都都尉李忠を右大将軍に、邳肜を後大将軍に任命しました。邳肜の和戎(和成)太守はそのままです。
信都令万脩(『資治通鑑』胡三省注によると、万が姓です。孟子の弟子に万章がいました)を偏将軍に任命しました。
皆、列侯に封じられます。
 
劉秀は南陽の人宗広を留めて信都太守の政務を行わせ(領信都太守事)、任光、李忠、万脩に兵を率いて自分に従わせました。邳肜の兵が前を進みます。
任光が多数の檄文を作りました。「大司馬劉公が城頭子路、力子都の兵百万の衆を指揮し、東方から諸反虜を撃ちに来る」という内容です。
檄文を持った騎馬を駆けさせて鉅鹿界中に至らせました。
檄文を得た吏民は互いにこの内容を語りあって各地に伝播しました。
 
劉秀は夕暮れに堂陽の県境に入りました。『資治通鑑』胡三省注によると、堂陽県は鉅鹿郡に属します。
多数の騎火(夜間の乗馬用に灯す火)を設けて沢中を満たすと、堂陽はすぐに降りました。
 
劉秀は貰県も撃って降しました。『資治通鑑』胡三省注によると、貰県も鉅鹿郡に属します。
 
昌城の人劉植が兵数千人を集めて昌城を占拠し、劉秀を迎え入れました。
資治通鑑』胡三省注によると、昌城県は信都郡に属し、堂陽県の北三十里にありました。
劉秀は劉植を驍騎将軍に任命しました。
 
耿純が宗族賓客二千余人を率いて来ました。老病の者も皆、棺木を車に載せて従っています。
耿純は育で劉秀を迎え入れました。
資治通鑑』胡三省注は「育という県はないので、恐らく『貰』の誤り」としています。
劉秀は耿純を前将軍に任命しました。
 
以上、劉植と耿純の記述は『資治通鑑』を元にしました。『後漢書光武帝紀上』はまとめてこう書いています「昌城の人劉植と宋子の人耿純がそれぞれ宗親子弟を率いてその県邑を占拠し、光武を奉じた。」
但し、『後漢書任李萬邳劉耿列伝(巻二十一)』を見ると耿純が宋子を降すのは劉秀に帰順してからの事です。以下、『任李萬邳劉耿列伝』の記述です。
「耿純は字を伯山といい、鉅鹿宋子の人である。(略)世祖(劉秀)が薊から東南に駆けると、耿純は従兄弟の耿訢、耿宿、耿植と共に宗族賓客二千余人を率い、老病の者も皆、木(棺木)を車に載せて自ら従い、育で劉秀を迎え入れた。耿純を前将軍に任命して耿郷侯に封じた。耿訢、耿宿、耿植を偏将軍に任命し、耿純と共に前を進ませた。(耿純等は)宋子を降し、下曲陽と中山の攻撃に従った」。
『欽定四庫全書東観漢記(巻十)』にはこうあります。
「王郎が尊号を挙げた時、耿純を収めようと欲した(耿純を部下にしようとした)。耿純は(王郎の)符節を持って(王郎に帰順したふりをして符節を与えられたのだと思われます)従吏と共に夜の間に(邯鄲の)城から脱出した。
耿純は道中で公務を行い(駐節道中)(王郎の)詔によって道を行く人から車馬を取った。数十の車馬を得ると、それを駆けさせて宋子に帰った。光武が薊から東南に走ったので、耿純は従兄弟の耿訢、耿宿、耿植と共に宗族賓客二千余人を率い、皆、縑襜褕(絹の上着絳衣(赤い服)を着て、(劉秀を)迎えて奉じるために、上(劉秀)がいる盧奴(「育」または「貰」の誤りではないかと思われます)を訪ねて王郎の反状(挙兵の状況)を話した。」
 
劉植に関しては、『任李萬邳劉耿列伝』はこう書いています。
「劉植と弟の劉喜、従兄の劉歆が宗族賓客を率い、兵数千人を集めて昌城を占拠した。世祖が薊から還ったと聞き、門を開いて世祖を迎えた。劉植は驍騎将軍に、劉喜と劉歆は偏将軍になり、皆、列侯に封じられた。」
『欽定四庫全書東観漢記(巻十)』によると劉歆の字は細君です。劉喜は『東観漢記』では「劉嘉」となっています。字は共仲です。
『東観漢記』は劉植の字を書いていませんが、『任李萬邳劉耿列伝』に「劉植は字を伯先といい、鉅鹿昌城の人である」と書かれています。
 
本文に戻ります。
劉秀は北の下曲陽に進攻して攻略しました。
部衆がしだいに集結し、喜んで劉秀に従う者が数万人に及びます。
 
劉秀は更に北に向かって中山を撃ちました。
耿純は宗家が異心を抱くことを恐れたため、反顧(振り返ること。引き還すこと)の望を絶つために、従弟の耿訢と耿宿を故郷(巨鹿宋子)に帰らせて廬舍(房舎。家屋)を焼きました。
 
劉秀が進撃を続けて盧奴を攻略しました。
通る場所で奔命の兵(命のために奔走する兵。緊急の兵)を集め、檄を辺郡に飛ばし、共に邯鄲を撃つことを呼びかけます。
郡県が返書を送って劉秀に響応しました。
 
劉秀は南に向かって新市を降しました。
 
この時、元真定王劉楊が兵を起こして王郎に附きました。その衆は十余万人です。
しかし劉秀が劉植を送って劉楊を説得させると、劉楊は投降しました。こうして真定も劉秀の支配下に入りました。
 
資治通鑑』胡三省注によると、劉楊は常山憲王劉舜の六世孫です。劉舜は西漢景帝の子です。
常山憲王劉舜の死後、子の劉勃が跡を継ぎましたが、罪に坐して廃されました。後に劉舜の別の子劉平が真定王に立てられました西漢武帝元鼎三年114年参照)
漢書・諸侯王表』によると、劉平の諡号は頃王といいます。その後、烈王劉偃、孝王劉由(または「劉申」)、安王劉雍、共王劉普と継ぎ、劉普を継いだ劉楊の代に王莽によって廃されました。
尚、『漢書景十三王伝(巻五十三)』は「劉楊」を「劉陽」としています。
 
劉秀は真定に入って留まり、劉楊の甥(姉妹の娘)郭氏を娶って夫人にしました。劉楊と深い関係が結ばれます。
郭氏は後に劉秀光武帝の皇后になります。『後漢書皇后紀上』によると、郭皇后の名は聖通、父は郭昌といいます。郭昌は真定恭王(共王)劉普の娘(劉楊の姉妹)を娶りました。
 
劉秀は元氏、防子に進撃してどちらも攻略し、鄗に至って王郎の将李惲を撃殺しました。
その後、趙の境界に入ります(『資治通鑑』胡三省注によると、元氏、防子、鄗県は常山郡に属し、次に攻める柏人は趙国に属します)
 
この時、王郎の大将李育が柏人に駐軍していました。
漢兵はそれを知らずに前進したため、前部(前軍)の偏将朱浮と鄧禹が李育に破れ、輜重を失いました。
劉秀は後方でそれを聞き、朱浮と鄧禹の散卒(離散した兵)を集めて李育と郭門(城門)で戦いました。劉秀が大勝して失った輜重を全て取り戻します。
李育は城に還って守りを固めました。
劉秀はこれを攻めても降せないため、兵を率いて広阿(『後漢書光武帝紀上』の注によると鉅鹿郡に属します)を攻略しました(後述します)
 
 
 
次回に続きます。