新更始時代56 更始劉玄(八) 上谷と漁陽の帰順 24年(5)
今回も玄漢劉玄更始二年の続きです。
南鄭の人・延岑(延が氏、岑が名です)が挙兵して漢中を占拠しましたが、更始政権の漢中王・劉嘉が延岑を撃って下しました。劉嘉は衆数十万を擁します。
『資治通鑑』のこの記述では、延岑は本年に挙兵してすぐ劉嘉に降ったように思えます。
しかし『後漢書・宗室四王三侯列伝(巻十四)』はこう書いています「義兵が起きると劉嘉は更始に従って征伐した。漢軍が小長安で敗れた時(新王莽地皇三年・22年)、劉嘉の妻子が害に遇った。更始が即位すると劉嘉を偏将軍に任命した。宛を攻めて破ってから(新王莽地皇四年・玄漢劉玄更始元年・23年・前年)、興徳侯に封じて大将軍に遷した。(劉嘉が)延岑を冠軍(地名)で撃って降した。更始が長安を都にしてから(玄漢劉玄更始二年・24年・本年)、劉嘉を漢中王・扶威大将軍にし、節を持って国に就かせた。都は南鄭で、衆は数十万を擁した。」
この記述によると、劉嘉は前年に延岑を破り、本年、漢中に入ったようです。
校尉で南陽の人・賈復が更始帝の政治が乱れているのを見て、劉嘉を説得して言いました「今は天下がまだ定まっていないのに、大王は今保有しているもの(漢中)を守ることに安んじています(安守所保)。今保有しているものは、保てなくなることがないのですか(漢中を保てなくなることを心配しないのですか?原文「所保得無不可保乎」)?」
劉嘉が言いました「卿は言が大きく、私が任用できる者ではない(非吾任也)。大司馬(劉秀)が河北におり、必ず互いの役に立つだろう(必能相用)。」
賈復等は柏人で劉秀に会いました。
劉秀は賈復を破虜将軍に、陳俊を安集掾(兵民を安定させる官)に任命しました。
『資治通鑑』胡三省注によると、従軍する兵は複数の地域から集まっているため、軍中で市を立てて交易をしていました。それを管理するのが軍市令です。
劉秀は怒って祭遵を逮捕するように命じました。
主簿・陳副が諫めて言いました「明公はいつも衆軍の整斉(整粛)を欲しています。今、祭遵が法を奉じて避けなかったのは、教令を行ったのです。」
劉秀は祭遵を赦して刺姦将軍に任命しました(かつて王莽が左右刺姦を置いて姦猾な者を取り締まらせました(新王莽天鳳四年・17年)。『資治通鑑』胡三省注によると、劉秀は王莽が設けた官を元に将軍号を設けました)。
劉秀が諸将に言いました「祭遵には注意せよ(当備祭遵)。我が舍中児が法を犯した時でも殺したのだから、私情によって諸卿をかばうはずがない(必不私諸卿也)。」
しかし太守・苟諫が保護したため、鮑永は安全を保ちました。
鮑永は河東に至り、青犢を撃って大破しました。
ある人が大司馬・劉秀に「柏人を包囲するよりも鉅鹿を定めた方がいい」と進言しました。
劉秀が輿地図(地図。『資治通鑑』胡三省注によると、天を蓋、地を輿といったため、地図は「輿地図」と呼ばれました)を開き、鄧禹に指し示して言いました「天下の郡国はこのようであり(このようの多く)、今始てそのうちの一つを得た。子(汝)は以前、私をもって天下を考慮するなら、定めるのは難しくない(以吾慮天下不足定)と言ったが、それはなぜだ?」
鄧禹が言いました「今は海内が殽乱(混乱)しており、人々が明君を思う様子は赤子が慈母を慕うのと同じです。古に興隆した者は徳の薄厚にかかっていたのであり、(領地の)大小にかかっていたのではありません。」
耿弇は耿況に邯鄲を撃つように説きました。
この時、王郎は将を派遣して漁陽、上谷を攻略しようとしており、それらの地で急いで兵を集めていました。北州は疑惑して(この「疑惑」は「困惑」と同義で、「北州の諸郡は拡大する王郎の勢力に惑わされた」という意味です)多くが王郎に従おうとします。
上谷郡の功曹・寇恂や門下掾・閔業(閔が氏です。『資治通鑑』胡三省注によると、魯に大夫・閔馬父がおり、孔子の弟子に閔子騫がいました)も耿況に説いて言いました「邯鄲(王郎)が抜起(突然興起すること)しましたが、信用できません(難可信向)。大司馬(劉秀)は劉伯升(劉縯)の同母弟で、賢人を尊んで士にへりくだっているので、帰順することができます。」
耿況が言いました「邯鄲はまさに盛んな時であり、単独の力では対抗できない。どうするべきだ?」
寇恂が答えて言いました「今の上谷は完実(充実)しており、控弦(戦士)が万騎もいるので、去就をよく選ぶことができます。恂(私)は東に赴いて漁陽と斉心合衆(心を一つにして衆を合わせること)を約束することを請います。邯鄲は図るに足りません(憂慮する必要がありません。原文「不足図也」)。」
耿況は納得して彭寵(漁陽太守)と同盟の約束をするために寇恂を東に派遣しました。両郡からそれぞれ突騎二千と歩兵千人を出して大司馬・劉秀を訪ねるつもりです。
安楽令・呉漢、護軍・蓋延、狐奴令・王梁も彭寵に劉秀への帰順を勧めました。
彭寵はこれに賛成しましたが、官属が皆、王郎に附くことを欲したため、決断できませんでした。
呉漢が外出して外亭(城門外の亭)で休んだ時、一人の儒生に遇い、招いて食事を与えました。
呉漢が儒生に見聞してきたことを問うと、儒生はこう言いました「大司馬・劉公は通った場所で郡県から称賛されています。邯鄲で尊号を挙げた者は、実は劉氏ではありません。」
呉漢は大いに喜びました。すぐに劉秀の書を偽造して漁陽に檄文を飛ばし、儒生にそれを持って彭寵を訪ねさせ、見聞したことを詳しく伝えさせます。
ちょうどそこに寇恂が到着しました。
彭寵は歩騎三千人を動員し、呉漢を行長史(長史代理)に任命して、蓋延、王梁と共に兵を指揮させました。
呉漢軍は南の薊を攻めて王郎の大将・趙閎を殺します。
寇恂は上谷に還ってから、上谷長史・景丹および耿弇と共に兵を指揮して南に向かい、漁陽軍と合流しました。
途中で王郎軍を撃ち、大将、九卿、校尉以下、三万級を斬首しました。涿郡、中山、鉅鹿、清河、河間の二十二県を平定します。
次回に続きます。