新更始時代57 更始劉玄(九) 王郎滅亡 24年(6)

今回も玄漢劉玄更始二年の続きです。
 
[(続き)] 上谷と漁陽の軍が前進して広阿に至った時、城中に多数の車騎がいると聞きました。景丹等が兵を整えて「それはどこの兵だ(此何兵)?」と問うと、(城の守備兵が)「大司馬劉公です」と答えました。
二郡の諸将は喜んで城下に進みます。
 
一方、広阿の城内では二郡(上谷・漁陽)の兵が邯鄲(王郎)のために来たという噂が流れたため、皆が恐れました。
劉秀が自ら西の城楼に上り、兵を整えて城下に問いました。
すると耿弇が城下で劉秀を拝します。
劉秀はすぐに耿弇を招き入れました。
 
耿弇が兵を発した状況を詳しく説明すると、劉秀は景丹等も全て招き、笑ってこう言いました「邯鄲(王郎)の将帥が何回も『我々は漁陽、上谷の兵を発した』と言ったから、私も聊応(とりあえず応えること)して『我々も既に(漁陽、上谷の兵を)発した』と言った。二郡が本当に私のために来てくれるとは思わなかった。正に士大夫とこの功名を共にしよう。」
劉秀は景丹、寇恂、耿弇、蓋延、呉漢、王梁を全て偏将軍に任命し、戻って自分の兵を指揮させました。
耿況と彭寵には大将軍を加え、耿況、彭寵、景丹、蓋延を列侯に封じます。
 
劉秀の言葉の「二郡が本当に私のために来てくれるとは思わなかった(原文「何意二郡良為吾来」)」ですが、『資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)によると、袁宏の『後漢紀』では「良牧為吾来」となっています。『資治通鑑』は『後漢書景丹伝(朱景王杜馬劉傅堅馬列伝巻二十二)』に従って「良牧」を「良」の一字にしています。「良」には「首(筆頭)」、「信(真。本当)」の意味があります。
 
『欽定四庫全書東観漢記景丹伝(巻九。版本によって巻数が異なります)』は異なる記述をしています。
景丹が衆を率いて広阿に至りました。劉秀は外に大兵が来たと聞いて城壁に登り、西門の楼上で兵を正して問いました「どこの兵だ(何等兵)?」
景丹等が答えました「上谷、漁陽の兵です。」
劉秀が問いました「誰のために来たのだ?」
景丹等が答えました「劉公のためです。」
劉秀はすぐに景丹を招き入れて酒肉を設け(酒宴を開き)、一人一人を慰労勉励して(人人労勉)、甚だ恩意が備わっていました。
 
資治通鑑』に戻ります。
呉漢の為人は朴質忠厚で言辞が少なく(質厚少文)、緊急な事態に遭っても言葉で表現できませんでした。しかし冷静沈着(沈厚)で智略があり、鄧禹がしばしば劉秀に推薦したため、劉秀も徐々に親しんで重用するようになりました。
 
更始帝尚書謝躬(「尚書令」は『資治通鑑』の記述で、『後漢書光武帝紀上』は「尚書僕射」としています)を派遣し、六将軍を率いて王郎を討たせましたが、下せませんでした。
そこに劉秀が到着して両軍が合流しました。劉秀は士卒に酒肉を与えて大いに労ってから大饗士卒)東の鉅鹿を包囲します。しかし王郎の守将・王饒が堅守したため、一月余しても攻略できませんでした。
 
逆に王郎(邯鄲にいます)が将を派遣して信都を攻撃すると、大姓(大族。豪族)馬寵等が門を開いて中に入れました。
しかし更始帝も兵を送って信都を攻め破り、劉秀が李忠(元信都都尉)を還らせて信都で太守の政務を代行させました(行太守事)
 
王郎は将倪宏、劉奉に数万人を率いて鉅鹿を救わせました。
劉秀が南䜌でこれを迎撃しましたが不利になります。ところがそこに景丹等が突騎を放って攻撃を加えました。倪宏等は大敗し、数千級が斬首されます。
劉秀が言いました「私は突騎が天下の精兵だと聞いていたが、今その戦いを見た。この喜びを言葉にできるだろうか(楽可言邪)。」
 
耿純が劉秀に言いました「久しく鉅鹿を包囲していたら(原文「久守鉅鹿」。この「守」は「包囲」の意味です)士衆が疲弊します。大兵(大軍)の精鋭に乗じて(大軍が旺盛で鋭気があるこの機に乗じて。原文「及大兵精鋭」)邯鄲に進攻するべきです。もし王郎が誅殺されたら、鉅鹿は戦わなくても自ら服すでしょう。」
劉秀はこの意見に従いました。
 
夏四月、劉秀は将軍鄧満を留めて鉅鹿を包囲させ、自ら軍を率いて邯鄲に進みました。王郎軍と連戦して連勝します。
王郎は諫大夫杜威を送って劉秀に投降を請いました。
 
杜威は劉秀の前で王郎が実際に成帝の遺体(遺児)であることを強調して話しました(原文「威雅称郎実成帝遺体」。「雅称」は「かねてから称している(杜威はかねてから王郎が実際に成帝の遺体だと称していた)」という意味もありますが、ここでの「雅」は強調の意味だと思います)
劉秀が言いました「もしも成帝が復生したとしても、天下を得ることはできない。子輿を詐称する者ならなおさらだろう。」
杜威が王郎のために万戸侯を求めましたが、劉秀はこう答えました「その身を全うできれば充分だ(顧得全身可矣)。」
杜威は怒って去りました。
 
劉秀が猛攻を加えて二十余日が経ちました。
五月甲辰(初一日)、王郎の少傅李立が門を開いて漢兵を中に入れたため、邯鄲が陥落しました。
 
王郎は夜の間に逃走しましたが、王霸が追撃して斬りました。
 
劉秀が王郎の文書を回収したところ、吏民で王郎と関係を結んで劉秀を謗毀(誹謗)する内容のものが数千章もありました。しかし劉秀はそれを詳しく確認せず、諸将軍を集めてから焼き捨てて「反側子(反側の者。二心を抱いた者。「反側」は反覆無常で異心があること、または不安のため落ち着かない様子、眠れない様子を指します)を安心させよう(令反側子自安)」と言いました。
 
劉秀が吏卒を分けて諸軍(諸将)に属させました。
士卒は皆、「大樹将軍に属すことを願う」と言います。
大樹将軍とは偏将軍馮異です。馮異は為人が謙遜して誇ることなく(謙退不伐)、交戦して敵の攻撃を受けている時以外は、吏士に命じて常に諸営(諸軍)の後ろを行軍させました。
いつも宿営した場所で諸将が集まって座り、功を論じましたが、馮異だけは常に樹の下に隠れたため、軍中で「大樹将軍」と号されました。
 
護軍で宛の人朱祜が劉秀に言いました「長安の政治は乱れています。公(あなた)には日角の相(額の中央が隆起している相。富貴の相です)があり、これは天命です。」
劉秀が言いました「刺姦を招いて護軍を逮捕せよ!」
この後、朱祜は敢えて謀反の事を話さなくなりました。
 
資治通鑑』胡三省注によると、朱祜は劉伯升(劉縯)に仕えて大司徒護軍になり、劉秀が大司馬になると朱祜もまた大司馬護軍になりました。秦代の官に護軍都尉があり、西漢平帝時代に護軍に改名されました。
朱祜の名について、胡三省注は「范瞱の『後漢書』と袁宏の『後漢紀』では『朱祜』を『朱祐』としており、『東観漢記』では『朱祜』を『朱福』としている」と書いています。
漢代に書かれた『東観漢記』が「朱祜」を「朱福」にしているのは、東漢安帝劉祜の諱(本名)を避けたためです。
范瞱南朝宋)の『後漢書』と袁宏東晋の『後漢紀』は安帝の諱を避ける必要がありません。「朱祐」と書いているのは避諱が原因ではなく、恐らく誤記です。胡三省は「『示』の横は古今の『古』が正しく、左右の『右』とするべきではない」と書いています。
また、清代に編集された『欽定四庫全書東観漢記』でも「朱祜」「朱福」ではなく「朱祐」となっています(巻九)。『東観漢記』は本来「朱福」と書いていましたが、清代は東漢安帝の諱を避ける必要がないので、『後漢書』を元に書き換えたようです。しかし『後漢書』が誤って「朱祐」と書いていたため、『欽定四庫全書・東観漢記』も誤ったまま「朱祐」と書いています。
 
[] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
更始帝が侍御史に符節を持たせて邯鄲に派遣し、劉秀を蕭王に立てました。
後漢書光武帝紀上』の注によると、この侍御史の名は黄党といいます。
 
更始帝は劉秀に全軍を撤兵させて、諸将の中で功績がある者と一緒に行在所(皇帝がいる場所。長安を来るように命じました。
また、苗曾を幽州牧に、韋順を上谷太守に、蔡充を漁陽太守に任命し、三人を同時に派遣して北の部署に着任させました。
 
当時、蕭王劉秀は邯鄲宮に住んでいました。
ある日、温明殿(『資治通鑑』胡三省注によると、西漢高帝の子趙王劉如意の宮殿です。温明殿は叢台の西にありました)で昼寝をしていると、耿弇が入殿して、牀下(寝床の下)まで来て話をする時間を請いました(請間)
耿弇が劉秀に言いました「吏士の死傷者が多いので、上谷に帰って兵を増やすことを請います。」
劉秀が問いました「王郎は既に敗れ、河北はほぼ平定した。また兵を用いるのは何のためだ?」
耿弇が言いました「王郎は破れましたが、天下の兵革(戦争)は始まったばかりです。今、使者が西方から来て罷兵(兵の解散)を欲していますが、聴いてはなりません。銅馬、赤眉の属(類)が数十輩(組)もおり、一輩は数十百万人(数十万から百万)を擁して向かう所を阻む者がいないので(所向無前)、聖公更始帝では対応できません不能辦也)。必ず久しくせずに敗れます(敗必不久)。」
劉秀は体を起こして座り直し、「卿は失言した。わしが卿を斬ろう」と言いました。
耿弇が言いました「大王が弇(私)を父子の関係のように哀厚(厚愛)しているので、敢えて赤心(誠心。本心)を披露したのです。」
劉秀が言いました「わしは卿に戯れただけだ。何をもってそう言うのか?」
耿弇が言いました「百姓は王莽に患苦して再び劉氏を思ったので、漢兵が起きたと聞いて歓喜しない者はおらず、その様子は虎口を去って慈母に帰すことができたようでした。ところが今、更始が天子になりましたが、諸将は山東で擅命し(命をほしいままにし。勝手に振る舞い)、貴戚は都内で縦横し、虜掠(略奪)を自分の欲のままに行っているので(虜掠自恣)、元元(民衆)は胸を叩き(原文「叩心」。悲痛する様子です)、改めて莽朝(王莽の朝廷)を思っています。ここから彼の必敗を知ることができます。公(あなた)は功名が既に顕著なので、義によって征伐すれば、天下は檄を伝えるだけで平定できます。天下の至重を(最も重要な天下を)公は自ら取ることができるのです。他姓に得させてはなりません。」
 
納得した劉秀は河北がまだ平定できていないことを理由に長安の招きを断りました。この後、更始帝から離れていきます。
 
 
 
次回に続きます。

新更始時代58 更始劉玄(十) 銅馬討伐 24年(7)