新更始時代58 更始劉玄(十) 銅馬討伐 24年(7)
今回も玄漢劉玄更始二年の続きです。
当時は長安の政治が混乱しており、四方が背叛していました。梁王・劉永が睢陽で擅命し(命を勝手に発し)、公孫述が巴蜀で王を称し(後述)、李憲が自立して淮南王になり(既述)、秦豊が自ら楚黎王を号し(後述)、張歩が琅邪で挙兵し、董憲が東海で挙兵し(張歩と董憲は梁王・劉永の勢力下に入ります。後述します)、延岑が漢中で挙兵し(東漢光武帝建武二年・26年)、田戎が夷陵で挙兵し(後述)、それぞれ将帥を置いて郡県を侵略しています。
また、この他にも諸賊(諸勢力)が銅馬、大肜、高湖、重連、鉄脛、大搶、尤来、上江、青犢、五校、檀郷、五幡、五楼、富平、獲索等と号し、それぞれ部曲を統率していました。これらの衆を合わせると数百万人に上り、各地で寇掠(侵犯略奪)しています。
『欽定四庫全書・東観漢記(巻二十三)』は「銅馬等群盗」としてまとめて記述しています。以下、『東観漢記』からです。
「銅馬の賊帥は東山荒禿、上淮況等で、大彤の渠帥は樊重、尤来の渠帥は樊崇、五校の賊帥は高扈、檀郷の賊帥は董次仲、五楼の賊帥は張文、富平の賊帥は徐少、獲索の賊帥は古師郎である。」
蕭王・劉秀はこれらの勢力を撃つことにしました。まず、呉漢と耿弇を共に大将軍に任命し、符節を持って北に向かわせ、幽州十郡の突騎を動員させます。
『後漢書・郡国志五』を見ると「涿郡、広陽、代郡、上谷、漁陽、右北平、遼西、遼東、玄菟、楽浪、遼東属国」を幽州としているので、「幽州十郡」は遼東属国を除いた十郡を指すと思われます。胡三省注は「右北平」が抜けています。
劉秀の動きを聞いた幽州牧・苗曾は諸郡に対して秘かに指示を出し、劉秀の徴発に応じないように命じました。
先行した呉漢が二十騎を駆けさせて無終に至りました。
『資治通鑑』胡三省注によると、無終は本来、山の名で、山戎がこの地を国にして山名を国号にしました。漢代に県になり、右北平郡に属しました。この時、苗曾は無終を治所にしていたようです。
苗曾が道に出て呉漢を迎えると、呉漢はすぐに苗曾を捕えて斬りました。
耿弇も上谷に到着し、上谷太守・韋順と漁陽太守・蔡充を捕えて斬ります。
北州が震駭(震撼驚愕)して各郡がそれぞれ劉秀のために兵を動員しました。
秋、蕭王・劉秀が鄡(県名)で銅馬を撃ちました。
呉漢が突騎を率いて清陽で合流し、劉秀軍の士馬が甚だ盛んになりました。
呉漢は全ての兵簿(兵士の名簿)を莫府(幕府)に提出し、改めて配属するように請いました。私心によって勝手な行動をとることがなかったため、劉秀はますます呉漢を重んじます。
劉秀は偏将軍・沛国の人・朱浮を大将軍・幽州牧に任命して薊城を治めさせました。
銅馬兵がしばしば戦いを挑みましたが、劉秀は営塁を堅めて守るだけで戦おうとしません。
銅馬兵で陣から出て鹵掠(物資の略奪)する者がいると、必ずそれを撃って物資を奪い、銅馬の粮道を絶ちました。
一月以上が経ち、銅馬の食糧が尽きました。銅馬兵達は夜の間に遁走します。
それを劉秀が追撃して館陶で大破しました。
しかし投降した者の受け入れがまだ終わらないうちに、高湖と重連が東南から来て銅馬の余衆と合流しました。
劉秀は再び蒲陽で大戦し、全て破って投降させました。帰順した渠帥(首領)は列侯に封じられます。
ところが、漢の諸将は賊(投降した渠帥)を信用しておらず、投降した者も内心不安でした。
両者の心意を知った劉秀は、投降した者に命じてそれぞれ営に帰らせ、兵をまとめさせました。その後、劉秀が自ら軽騎に乗って各部の陣を巡行します(按行部陳)。
投降した者達は互いにこう言いました「蕭王は誠心誠意をもって我々に接した(原文「推赤心置人腹中」。直訳すると「赤心を推して人の腹中に置いた」です。ここから「推心置腹」という四字熟語ができました)。どうして命をかけないでいられるだろう(安得不投死乎)。」
こうして投降した者達は皆、劉秀に帰服しました。
劉秀は彼等を全て諸将に分配しました。兵衆が数十万に達します。
関西の人々は劉秀を号して「銅馬帝」と呼びました。
この時、赤眉の別帥(一部隊の長)と青犢、上江、大彤、鉄脛、五幡による十余万の衆が射犬(地名)にいました。
劉秀は兵を率いて進撃し、これを大破します。射犬にいた部衆は離散逃走しました。
劉秀は更に南に向かって河内を攻略しました。河内太守・韓歆が投降します。
かつて謝躬が劉秀と共に王郎を攻めて滅ぼしましたが、しばしば劉秀と対立しました。
二人は共に邯鄲にいましたが、城を分けて住んでいます。
謝躬は常に劉秀を襲う機会を探していましたが、その兵が強盛なため畏れて手が出せませんでした。
そのため謝躬はしだいに劉秀を疑わなくなりました。
それを知った謝躬の妻がいつも諫めて「君(あなた)と劉公は長い間互いに親善がありませんでした(積不相能)。それなのにその虚談を信じたら、最後は抑制を受けることになるでしょう」と言いましたが、謝躬は聴きませんでした。
謝躬が自分の兵数万を率いて南に還り、鄴に駐軍しました。
劉秀は謝躬が外にいる間に呉漢と刺姦大将軍・岑彭に命じて鄴城を襲わせ、占拠しました。
それを知らない謝躬は軽騎で鄴に還り、呉漢等に捕まって斬られました。その衆は全て劉秀に降ります。
更始帝が枉功侯・李宝(『資治通鑑』胡三省注によると、「枉功侯」は「柱功侯」とすることがあり、「李宝」は「張宝」とすることがあります)、益州刺史・李忠を派遣し、兵一万余人を率いて蜀・漢(この「漢」が何を指すかは分かりません。当時、漢中は更始政権の漢中王・劉嘉が治めています)を攻略させました。
蜀の公孫述は弟の公孫恢を派遣し、綿竹(広漢郡に属す県です。上述の「蜀・漢」は「蜀郡と広漢郡」かもしれません)で李宝と李忠を撃たせました。
公孫恢が大勝して李宝、李忠を走らせます。
民も夷族も皆、公孫述に帰順しました。
『漢書・景武昭宣元成功臣表』を見ると、先賢撣の死後、元帝竟寧元年(前33年)に煬侯・富昌が継ぎ、成帝建始二年(前32年)に侯・諷が継ぎました。侯・諷の在位年数は五十年以上に及び、東漢光武帝建武二年(26年)になって侯・襄が跡を継ぎます。
但し、『後漢書・馮岑賈列伝(巻十七)』の注によると岑彭が封じられた「帰徳」は県名で、北地郡に属しますが、帰徳侯・先賢撣の封地は『漢書・景武昭宣元成功臣表』では汝南としているので、侯名は同じでも封地が異なります。
本文に戻ります。
単于・輿は驕慢だったため、陳遵と劉颯にこう言いました「匈奴は本来、漢と兄弟の関係にあったが、匈奴が途中で乱れ、孝宣皇帝が呼韓邪単于を輔佐して立てたので、(匈奴は)臣と称することで漢を尊んだ。今、漢も大乱に陥り、王莽に簒奪された。そこで匈奴も出兵して王莽を撃ち、辺境を空にし、天下を騒動させて(人々が)漢を思うようにした。王莽がついに敗れて漢が復興したのは、我が力である(匈奴のおかげである)。今度は匈奴を尊ぶべきだ(当復尊我)。」
次回に続きます。