新更始時代60 更始劉玄(十二) 公孫述即位 25年(1)

今回は玄漢劉玄更始三年です。
 
玄漢劉玄更始三年 東漢光武帝建武元年
乙酉 25
 
本年六月に東漢光武帝が即位し、九月に更始政権が滅びます。
 
[] 『後漢書光武帝紀上』と資治通鑑』からです。
春正月、平陵の人・方望(かつては隗囂に仕えていました。玄漢劉玄更始二年24年参照)が安陵の人弓林(弓が氏です。『資治通鑑』胡三省注によると、魯の大夫叔弓の後代です。また、孔子の弟子に仲弓がおり、臂子弓が氏、臂が名、子弓は字。『荀子』に登場します)という者もいました)と共に、元定安公劉嬰西漢孺子)を天子に立てました。数千人を集めて党を作り、臨涇を占拠します。
しかし更始帝が丞相李松等を派遣して撃破し、劉嬰等は皆、斬られました。
 
後漢書劉玄劉盆子列伝(巻十一)』から少し詳しく書きます。
方望は更始帝の政治が乱れているのを見て、必ず失敗することになると予測しました。
そこで弓林等にこう言いました「前(旧)定安公・嬰は平帝の嗣(後嗣)であり、王莽に簒奪されたとはいえ、かつては漢主になりました。今、人々は皆、劉氏の真人が改めて命を受けるべきだと言っています。共に大功を定めたいと思いますが、如何ですか?」
弓林等は方望の意見に納得し、長安で劉嬰を捜し出しました。劉嬰を臨涇に連れて来て皇帝に立てます。
嬰政権は数千人の党羽を集め、方望が丞相に、弓林が大司馬になりました。
しかし更始帝が李松と討難将軍・蘇茂等を派遣して撃破しました。
劉嬰、方望、弓林等は皆、斬られて死にました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
劉秀軍の鄧禹が箕関に至り、河東都尉を撃破しました。
更に進軍して安邑を包囲します。
 
[] 『後漢書劉玄劉盆子列伝(巻十一)』と『資治通鑑』からです。
赤眉の二部(前年参照)が弘農で合流しました。
更始帝は討難将軍蘇茂を弘農に派遣して防がせましたが、蘇茂の軍が大敗して千余人が死にました。
 
赤眉は更始政権の諸将に連戦剋勝(連戦連勝)して勢力が拡大したため、兵を分けて一万人で一営を形成し、合計三十営を作りました。一営に三老と従事を各一人置きます。
 
三月、更始帝が丞相李松を派遣し、朱鮪と合流させてから郷で赤眉と戦わせました。
しかし李松等は大敗し、軍を棄てて逃走しました。更始軍の死者が三万余人に上ります。
赤眉は北に転じて湖(県名)に至りました。
 
『欽定四庫全書東観漢記(巻二十三)』は赤眉の進路をこう書いています「徐宣、樊崇等は(関に)入って弘農枯樅山の下に至り、更始の将軍蘇茂と戦った。樊崇(等)は北の郷に至り、転じて湖に至った。」
 
[] 『資治通鑑』からです。
蜀郡の功曹李熊が公孫述に天子を称すべきだと説きました。
 
夏四月、公孫述が帝位に即きました。国号を成家と号し(「成家」の「家」は「漢家」の「家」と同じで、実際の国号は「成」の一文字のようです)、龍興元年に改元します。
資治通鑑』胡三省注によると、成都で起ったので国号を成家としました。また、公孫述の府に龍が現れたため、それを年号にしました。
 
公孫述は李熊を大司徒に、公孫述の弟公孫光を大司馬に、公孫恢を大司空に任命しました。
越雟の任貴(新王莽天鳳三年16年参照)が郡(越を拠点にして公孫述に降りました。
 
公孫述の即位に関して、『後漢書隗囂公孫述列伝(巻十三)』にこのような記述があります。
公孫述が即位前に見た夢で、ある人がこう言いました「八子系、十二を期と為す(八子系,十二為期)。」
「八」は「公」、「子系」は「孫」なので公孫述を指します。「十二を期と為す」というのは十二年の天下を得るという意味です。
 
目が覚めてから公孫述が妻に言いました「たとえ尊貴を得たとしても福が短いのはどうだ(雖貴而祚短若何)?」
妻が答えました「朝に道を聞くことができたら、たとえ夜に死んでも満足できるものです(朝聞道夕死尚可)。十二(年)もあったらならなおさらです(況十二乎)。」
この時、龍が府殿に現れ、夜には光が輝きました。
公孫述はこれを符瑞と考えて、掌に「公孫帝」という文字を刻みました(原文「因刻其掌文曰公孫帝」)
建武元年(本年。「建武」は東漢光武帝の年号です)四月、公孫述が自立して天子になり、成家と号しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
蕭王劉秀が北に向かって元氏で尤来、大槍、五幡を撃ちました。
資治通鑑』胡三省注によると、元氏県は常山郡に属します。かつて趙の公子元が封邑にしたため元氏と呼ばれるようになりました。
 
劉秀は尤来等を追撃して北平に至り、連破しました。
この北平は県名で、『資治通鑑』胡三省注によると中山国に属します。『後漢書光武帝紀上』は「右北平(郡)」としていますが誤りです。
 
劉秀は順水の北でも戦いました。ところが勝ちに乗じて軽率に進軍を続けたため、逆に敗北してしまいます。劉秀自身も高岸から跳び下りました。
突騎の王豊が馬から降りて劉秀に譲ったため、劉秀は危うく難から免れます。
 
劉秀の散兵は戻って范陽を守りましたが、軍中に蕭王(劉秀)の姿が見えず、「(王は)既に殺された」と言う者もおり、諸将はどうすればいいか分かりませんでした。
そこで呉漢がこう言いました「卿等は努力せよ(卿曹努力)!王の兄の子が南陽にいる。なぜ主がいないことを憂いるのだ(何憂無主)!」
後漢書光武帝紀上』の注によると、劉秀の兄の子は劉縯の子劉章と劉興を指します。
 
『欽定四庫全書東観漢記(巻一)』に「帝(劉秀)は既に王豊の小馬に乗って先に(范陽に)到着したが、営門がそれに気がつかなかった」という記述があります。
『東観漢記』はこれがいつの事か明確にしていませんが、『東観漢記』の注は「この記述は前の文が欠けている」とし、尤来等に敗れた劉秀が王豊の馬に乗って難から免れたという記述が『後漢書光武帝紀上』にあることから(上述の内容です)、その時の事だと判断しています。
 
この後も(劉秀が帰ってからも)劉秀軍の将兵は恐懼が続き、数日してやっと安定しました。
一方、尤来等の勢力は劉秀に戦勝しましたが、蕭王の威名を懼れていたため、夜の間に兵を率いて去りました。
 
劉秀の大軍が再び進軍を始めました。
安次に至って連戦し、尤来等を破ります。
尤来等は退いて漁陽に入り、通る場所で虜掠(略奪)を行いました。
それを知った強弩将軍陳俊が劉秀に言いました「賊には輜重がありません。軽騎が賊の前に出るように命じ(軽騎を賊の前に進ませ)、百姓にそれぞれ壁を堅くさせることでその食を絶つべきです(百姓に守りを固めさせて賊の食糧を絶つべきです)。こうすれば戦わずに殲滅できます(可不戦而殄也)。」
劉秀はこれに納得し、陳俊に軽騎を率いて尤来等の前を進ませました。人々の状況を視て、保壁(堡塁の壁)が堅完(堅牢)な場所では固守するように命じ、郊野に分散している者がいたらこの機に(人や物を)奪い取ります(因掠取之)
その結果、尤来等の兵が至っても得る物がなく、ついに散敗(壊滅分散)しました。
劉秀が陳俊に言いました「これらの虜を困窮させたのは将軍の策だ。」
 
 
 
次回に続きます。