新更始時代61 更始劉玄(十三) 劉秀即位 25年(2)

今回は玄漢劉玄更始三年の続きです。
 
[] 『資治通鑑』からです。
孟津将軍馮異が洛陽の李軼に書を送って禍福について述べ、蕭王劉秀に帰順するように勧めました。
李軼は長安更始帝政権)が既に危ういと知っていましたが、劉縯の死に関わっていたため、心中で不安を抱き、馮異に書を送ってこう答えました「軼(私)は元々蕭王(劉秀)と漢を造る(建てる)ことを首謀しました。今、軼(私)が洛陽を守り、将軍が孟津を鎮め、共に機軸(中枢。要地)を拠点としています。これは千載一遇の好機であり、思いが成れば(二人が同心になれば)(金属)を断つこともできます(千載一会,思成断金)。ただ蕭王に深く伝えていただき(唯深達蕭王)(私の)愚策を進めて、それによって国を輔佐して民を安んじることを願います。」
李軼は馮異と書信を通じさせてから、馮異と争わなくなりました。
そのおかげで馮異は北の天井関を攻めることができるようになり、上党の二城を攻略しました。
また、南に向かって河南成皋以東の十三県を落とし、投降した者が十余万に及びました。
 
更始政権の武勃が一万余人を率いて背反した者を攻撃しましたが、馮異が士郷(『資治通鑑』胡三省注によると士郷は亭の名で、河南郡に属します)で戦って大破し、武勃を斬りました。
その間、李軼は門を閉じたまま武勃を援けに行きませんでした。
 
馮異は書信の効果が出たのを視極めて、劉秀に詳しく報告しました。
劉秀が馮異に返書を送りました「季文(李軼の字です)は詐術が多いから、人にはその要領を得ることができない(何を考えているのか分からない)。これからその(李軼の)書を送って守(郡守や都尉)で警備に当たっている者に告げよ(更始政権の守尉で城を守っている者達に李軼の書を公開しろ)。」
人々は劉秀が李軼の書を暴露したことを不思議に思いました(劉秀が李軼の書を公開したのは、一つは李軼の変心を更始政権に知らせるため、一つは洛陽を守る李軼が劉秀と通じているという情報を流して更始政権の郡守や都尉を動揺させるためです)
 
やがて、更始政権の朱鮪(洛陽にいます)が李軼の書信の事を聞き、人を送って李軼を刺殺しました。
この後、(洛陽)城中が更始帝から乖離し、多くの者が劉秀に降りました。
 
朱鮪は劉秀が北征したため河内黄河の北の郡です)が孤立していると判断し、その将蘇茂、賈彊に兵三万余人を率いて鞏河(『資治通鑑』胡三省注によると、鞏県の北を流れる黄河を鞏河というようです)を渡らせました。蘇茂等は北上して温(河内郡に属し、黄河の北にあります)を攻めます。
朱鮪も自ら数万人を率いて平陰(河南郡に属し、黄河の南にあります)を攻撃し、馮異黄河の北岸にいます)を牽制して足止めさせました。
 
檄書(恐らく温県が救援を求める文書)が河内の治所に至ると、河内太守寇恂はすぐに軍をまとめて疾駆し、同時に属県にも書を送って出兵させ、温下で兵を合流させるように告げました。
軍吏が皆諫めて言いました「今、洛陽(更始軍)の兵が渡河して前後が絶えません。衆軍(属県の兵)が集結し終るのを待つべきです。そうすれば出撃できます。」
寇恂が言いました「温は郡の藩蔽だ。温を失ったら郡が守れなくなる。」
寇恂は車馬を駆けさせて温に赴きました。
 
翌日、寇恂が蘇茂賈彊の軍と合戦しました。そこに馮異が派遣した援軍と諸県の兵が到着します。寇恂は士卒に命じて城壁に登らせ、戦鼓を敲いて喚声を上げさせました。士卒が大声で「劉公の兵が到着した!」と叫びます。
それを聞いた蘇茂の陣が動揺しました。
寇恂はその機に奔撃(急襲)して蘇茂賈彊軍を大破しました。
馮異も河を南に渡って朱鮪を撃ち(朱鮪は平陰おり、平陰は河南にあります。馮異は黄河の北岸を守っていました)、朱鮪は敗走しました。
馮異と寇恂は朱鮪を追撃して南下し、洛陽に至って城外を一周してから河内に帰りました。
 
この後、洛陽は震恐(震撼)して昼でも城門を閉じるようになりました。
 
馮異と寇恂が檄(文書)を送って劉秀に状況を報告しました。
諸将が祝賀に来てこれを機に尊号を称すように勧めます。
将軍で南陽の人馬武がまず進み出て言いました「大王は謙退を堅持していますが、宗廟社稷はどうするのですか。先に尊位に即き、それから征伐を議すべきです。今は誰が賊であり、奔走してどの賊を撃つのですか(今は尊号が定まっていないので、誰が賊なのか分からない状態です。原文「今此誰賊而馳騖撃之乎」)。」
劉秀は驚いてこう言いました「なぜ将軍はこのような言を発するのだ?死罪に値する(可斬也)。」
劉秀は軍を率いて薊に入りました。
 
劉秀は呉漢を派遣し、耿弇、景丹等十三将軍を率いて尤来等を追撃させました。
呉漢等は一万三千余級を斬首し、浚靡(県名です。『資治通鑑』胡三省注によると、右北平郡に属します)まで窮追して引き還します。
尤来等は分散して遼西、遼東に入りましたが、烏桓や貊人に鈔撃(包囲襲撃)されてほぼ全滅しました。
 
都護将軍・賈復(『資治通鑑』胡三省注によると、西漢宣帝が西域都護を置き、西域の南北道諸国を監護させました。甘延寿が郅支単于を撃った時、都護将軍になりましたが、西漢時代はまだ正式な将軍号ではありませんでした。東漢光武帝の時代になってから、賈復を都護将軍に任命しました。但し賈復の「都護」は諸将を監護するという意味で、西域都護ではありません。西漢元帝建昭三年36年)が五校(民衆勢力の一つ)と真定で戦い、重傷を負いました。
劉秀が大いに驚いて言いました「私が賈復を別将(一方面の将)にしなかったのは敵を軽んじていたからだ。果たして私の名将を失うことになってしまった。彼の婦人は妊娠していると聞いた。女が生まれたら我が子に娶らせよう。男が生まれたら我が娘を嫁がせよう。彼の妻子を憂いさせることはしない(不令其憂妻子也)。」
暫くして賈復の怪我が治癒しました。薊で劉秀に追いつき、再会して互いに喜びあいます。
 
劉秀が南に還って中山に至りました。
諸将がまた尊号を勧めましたが、劉秀はやはり聴きませんでした。
 
南平棘(県名です)に至ると諸将が強く即位を請いました。それでも劉秀は同意しません。
諸将がとりあえず退出してから、耿純が進み出て劉秀に言いました「天下の士大夫が親戚(家族)も故郷も棄てて(捐親戚棄土壤)矢石の間(下)で大王に従っているのは、彼等の計(考え)が元々龍鱗に登って鳳翼に附くことで(攀龍鱗附鳳翼)志していることを成就させたいと望んでいるからです(士大夫が苦労してでも大王に従っているのは、龍鳳に附くことで志を成したいからです)。今、大王が時を留めて(時を延ばして)衆に逆らい、号位を正さなかったら、純(私)が恐れるに、士大夫は望が絶たれて計が行き詰まり(望絶計窮)、その結果、去帰(帰郷)の思いが生まれ、久しく自らを苦しめる者はいなくなるでしょう(無為久自苦也)。大衆が一度離散したら、再び集合させるのは困難です。」
耿純の言葉が誠実懇切だったため、劉秀は深く感じ入って「考えてみることにしよう(吾将思之)」と言いました。
 
劉秀が鄗に至りました。
資治通鑑』胡三省注によると、鄗県は常山国に属します。光武帝がこの地で即位して高邑に改名しました。
 
劉秀が馮異を招いて四方の動静について問いました。
馮異が言いました「更始は必ず敗れます。宗廟の憂は大王にあるので(宗廟を憂いる大任は大王にあるので)、衆議に従うべきです。」
ちょうど儒生彊華(彊が氏です。『資治通鑑』胡三省注によると「疆華」と書くこともあります)が関中から『赤伏符』を持って劉秀を訪ねました。符にはこう書かれています「劉秀は兵を発して不道を捕え、四夷が雲集して(雲が密集するように集まって)龍が野で闘う。四七の際に火が主になる(劉秀発兵捕不道,四夷雲集龍闘野,四七之際火為主)。」
資治通鑑』胡三省注によると、「四七」は「二十八」で、西漢高祖から光武帝が初めて起った時までの年数に符合します。西漢高祖の漢王元年は前206年で、光武帝が挙兵した新王莽地皇三年は22年なので、ちょうど二百二十八年になります。
また、劉秀が挙兵した時は二十八歳で、劉秀の天下統一を助けた功臣も「雲台二十八将」というので、劉秀は二十八と縁があります。
漢は火徳なので、火が主になるというのは漢が復興することを意味します。
 
群臣が符命を理由にまた帝位に即くことを請いました。
 
六月己未(二十二日)、劉秀が鄗南で皇帝の位に即きました。これを東漢光武帝といいます。
建武元年に改元して大赦を行いました。
 
以上、光武帝が即位する経緯を『資治通鑑』を元に書きました。『後漢書光武帝紀上』は異なる記述になっており、それについて胡三省注(元は『資治通鑑考異』)がこう書いています。
「『光武本紀』では、馮異が蘇茂を破った事から、諸将が尊号を勧め、光武帝が薊に入った事までを全て四月以前に書いている。
しかし『馮異伝』によると、馮異が李軼に書を送って『長安が壊乱し、赤眉が郊外に臨み、王侯が構難(交戦。叛乱)し、大臣が乖離し、綱紀が既に絶たれている』と言っている。
また、光武帝に尊号を勧める時も、馮異はこう言っている『三王が反叛し、更始が敗亡した(謀反を謀ったのは平氏王・申屠建、淮陽王・張卬、穰王・廖湛、隨王胡殷の四王ですが、申屠建は実行前に殺され、三王が兵を率いて更始帝を攻撃しました)。』
この年の六月己未(二十二日)光武帝が即位し、同月の甲子(二十七日)に鄧禹が安邑で王匡等を破る。その後、王匡、張卬等が奔って長安に還り、立秋貙膢立秋の祭祀)の際に共に更始帝を脅迫することを謀った(実際は王匡は新豊に駐軍しており、謀反に関わっていません)。このように三王の反叛は光武帝即位後の夏と秋が交わる頃の事なので、馮異が四月よりも前にこれについて発言するはずはない。あるいは史家が馮異の言を潤色したために、このような差互(差異。誤り)を生んでしまったのかもしれない。」
 
後漢書光武帝紀上』における光武帝即位までの経緯は別の場所で書きます。

東漢時代 光武帝即位

 
 
 
次回に続きます。

新更始時代62 更始劉玄(十四) 更始政権の分裂 25年(3)