新更始時代64 更始劉玄(十六) 更始政権滅亡 25年(5)

今回で玄漢劉玄の時代が終わります。

 

[] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
秋七月辛未(初五日)光武帝が使者を派遣しました。

使者は符節を持って西征中の前将軍鄧禹を大司徒に任命し、合わせて酇侯に封じて食邑を一万戸にしました。鄼侯は西漢建国当初、蕭何が封じられた侯位です。

この時、鄧禹は二十四歳でした。
 
また、大司空の選出について議論し、光武帝は『赤伏符』の「王梁が衛を主管して玄武を作る(王梁主衛作玄武)」という言葉を元にして王梁を選びました。

丁丑(十一日)、野王令王梁を大司空に任命します。

資治通鑑』胡三省注によると、野王(地名)は戦国時代末期に衛君が遷った場所なので(秦王政六年241年参照)、野王令を勤めていた王梁は「王梁主衛(王梁が衛を主管する)」に符合します。

玄武は亀と蛇が一体になった北方の神で、北は五行の水徳に当たるので水神でもあります。司空は水土の官なので、「作玄武(「玄武を作る」。または「玄武になる」)」に符合します。
 

光武帝は讖文(予言)を元に平狄将軍孫咸を行大司馬(大司馬代行)にしようとしましたが、衆人が悦びませんでした。

壬午(十六日)、大将軍呉漢を大司馬に任命しました。

資治通鑑』は書いていませんが、『後漢書光武帝紀上』によると、大将軍呉漢が大司馬になった時、偏将軍景丹が驃騎大将軍に、大将軍耿弇が建威大将軍に、偏将軍蓋延が虎牙大将軍に、偏将軍朱祐(朱祜)が建義大将軍に、中堅将軍杜茂が大将軍になりました。

 
[] 『資治通鑑』からです。
以前、更始帝が琅邪の伏湛(『資治通鑑』胡三省注によると、伏姓は伏羲の後代です。漢初に済南の伏生がいました)を平原太守に任命しました。
当時は天下で兵が起きていましたが、伏湛だけは晏然(安定。安寧)として百姓を撫循しました。
門下督(『資治通鑑』胡三省注によると、諸郡に門下督がいて兵衛を管理しました)が伏湛のために挙兵を謀りましたが、伏湛はこれを捕えて斬りました。
吏民は伏湛を信頼して帰心し、平原全域が伏湛に頼って安全を保つことができました。
光武帝は伏湛を招いて尚書に任命し、旧制の整理校定を担当させました。
また、大司徒・鄧禹が西征していたため、伏湛を大司徒司直に任命して大司徒の政務を代行させました(行大司徒事)。『資治通鑑』胡三省注によると、東都東漢の司徒は西都西漢の丞相で、司直は丞相司直に当たります。
車駕(皇帝の車)が征伐に出るたびに、伏湛が拠点に留まって鎮守しました。
 
[十一] 『資治通鑑』からです。
鄧禹が汾陰から渡河して夏陽に入りました。『資治通鑑』胡三省注によると、汾陰県は河東に属し、夏陽県は左馮翊に属します。
 
更始政権の左輔都尉公乗歙(『資治通鑑』胡三省注によると、左輔は左馮翊です。三輔にはそれぞれ都尉がいました。公乗歙は公乗が氏で、秦代の爵位が氏になりました)が十万の衆を率いて左馮翊の兵と共に衙(県名)で鄧禹に対抗しました。
しかし鄧禹がまたこれを破って敗走させました。
 
[十二] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
宗室の劉茂が京と密の間(京も密も河南郡に属す県名です)で衆を集め、自ら厭新将軍を称しました。

資治通鑑』胡三省注によると、劉茂は元氏王劉歙(玄漢劉玄更始二年24年参照)の従父弟(父の弟の子)です。「厭新将軍」の「厭」は「伏す」の意味で、「新」は王莽の新王朝を指します。実際に挙兵したのは新朝滅亡前の事かもしれません。

 
劉茂は潁川、汝南を攻めて攻略し、衆が十余万人になりました。
 

光武帝が驃騎大将軍景丹、建威大将軍耿弇、強弩将軍陳俊に劉茂を攻撃させました。

劉茂は衆を率いて投降します。
光武帝は劉茂を中山王に封じました。
 
[十三] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
己亥(『後漢書』『資治通鑑』とも七月に書いており、中華書局の『白話資治通鑑』も「七月二十九日」としていますが、七月壬午が十六日なので、己亥は八月初三日のはずです)光武帝が懐を行幸しました。

そこから耿弇を派遣し、彊弩将軍陳俊を率いて五社津に駐軍させ、滎陽以東に備えました。

資治通鑑』胡三省注によると、「五社津」は「五渡津」ともいいます。
 

また、呉漢に建議大将軍朱祜、廷尉岑彭、執金吾賈復、揚化将軍堅鐔等十一将軍を率いて洛陽の朱鮪を包囲させました。

 
八月壬子(十六日)光武帝社稷を祭りました。
癸丑(十七日)、懐宮で高祖、太宗(文帝)、世宗武帝を祀りました。
 
光武帝が河陽に進みました。
更始帝の廩丘王田立が投降しました。
 
[十四] 『後漢書劉玄劉盆子列伝(巻十一)』と『資治通鑑』からです。

李松が掫から兵を率いて帰還し、更始帝(新豊に逃走していました)に従って趙萌と共に長安の王匡、卬を攻めました。

一月余連戦して王匡等が敗走し、更始帝は長信宮に住居を遷しました。
 
ところが赤眉が高陵まで来ると、王匡、張卬等がこれを迎え入れて投降し、共に兵を連ねて東都門(『後漢書』の注によると、長安城東側の北から数えて第一門を宣平門といい、その外郭の門を東都門といいました)に進攻しました。
更始帝が城を守り、李松が出撃しましたが、李松は敗戦して赤眉に生け捕りにされ、死者が二千余人に上りました。
当時、李松の弟李汎(または「李況」)が城門校尉を勤めていました。
赤眉が使者を送って「城門を開けば汝の兄を活かそう」と伝えたため、李汎はすぐに門を開いて赤眉軍を中に入れました。
 
九月、赤眉が長安城に入りました。
更始帝は単騎で逃走し、厨城門から外に出ます。
資治通鑑』胡三省注によると、王莽が洛城門を建子門に改名しました。その中に長安厨官がいたため、俗名を厨城門といいました。
 
諸婦女が後ろから「陛下、(馬から)下りて城に謝すべきです!」と連呼したため、更始帝はすぐに馬から下りて拝礼し、再び馬に乗って去りました。
 
これ以前に、侍中式侯劉恭は赤眉が弟の劉盆子を皇帝に立てたため、自ら詔獄に繋がれていました。

更始帝が敗走したと聞くと獄から出て定陶王劉祉に会いに行きます。劉祉は劉恭の刑具を解き、共に渭浜に行って更始帝に従いました。

右輔都尉厳本(または「厳平」「厳丕」)は、更始帝を失ったら赤眉に誅されることになると恐れ、更始帝を連れて高陵に行きました。劉恭も徒歩で従い、一行は高陵の伝舍で宿泊します。
厳本は兵を率いて外を囲みました。これを宿衛、屯衛と号しましたが、実際は更始帝を逃がさないための囚禁でした。
資治通鑑』胡三省注は「右輔都尉の治所は郿であり、高陵は左輔都尉の治所なので、厳本の右輔都尉は恐らく左輔都尉の誤り」と書いています。
 

長安に残った更始政権の将相は全て赤眉に降りましたが、丞相曹竟だけは投降せず、手に剣を持って格闘し、殺されました。

 
[十五] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
赤眉が長安に入って更始帝が高陵に奔ったという情報が光武帝にも入りました。
辛未(初六日)光武帝が詔を発して更始帝(劉玄)を淮陽王にしました。
また、吏民が劉玄を賊害(殺害)したら罪を大逆とみなし、劉玄を官府に送り届ける者がいたら列侯に封じると宣言しました。

後漢書光武帝紀上』から詔の内容です「更始が破敗し、城を棄てて逃走した。妻子が裸袒(裸になること)し、道路に流冗(流散)している。朕はこれを甚だ憐憫する(朕甚愍之)。よって今、更始を淮陽王に封じる。吏人で敢えて賊害する者がいたら、罪を大逆と同じとする。」

 
こうして更始政権が滅亡しました。
本年はまだ途中ですが、次回から東漢時代に入ります。