東漢時代 光武帝即位

玄漢劉玄更始三年東漢光武帝建武元年25年)光武帝が即位しました。
ここでは光武帝が即位するまでの経緯を『後漢書光武帝紀上』を元に書きます。『資治通鑑』を元にしている本編とは時系列が若干異なります。

新更始時代61 更始劉玄(十三) 劉秀即位 25年(2)

 

建武元年春正月、平陵の人方望が以前の孺子劉嬰定安公)を天子に立てました。
しかし更始帝が丞相李松を送って撃ち、これを斬りました。
 
劉秀(原文は「光武」ですが、即位前なので「劉秀」と書きます)が北進して元氏(地名)で尤来、大搶、五幡を撃ち、右北平(『後漢書光武帝紀上』は「右北平(郡)」としていますが、中山国に属す「北平(県)」の誤りです。『後漢書』の注が誤りを指摘しており、『資治通鑑』は「北平」に改めています)まで追撃して連破しました。
また、順水北でも戦いましたが、勝ちに乗じて軽率に進んだため、逆に敗れました。賊が急追して短兵で接戦し、劉秀は自ら高岸から跳び下ります。
ちょうど突騎王豊に遭遇し、王豊が馬を下りて劉秀に譲りました。劉秀は王豊の肩を押さえて馬に乗り(撫其肩而上)、顧みて耿弇に笑って言いました「危うく虜(賊)に嘲笑されるところだった(幾為虜嗤)。」
耿弇が矢を連射して(頻射)賊を退けたため、劉秀は難から逃れることができました。しかし士卒の死者は数千人に及びます。
散兵が帰って范陽を守りましたが、軍中に劉秀の姿が見えず、「(王は)既に殺された」と言う者もおり、諸将はどうすればいいか分かりませんでした。
そこで呉漢がこう言いました「卿等は努力せよ(卿曹努力)!王の兄の子が南陽にいる。なぜ主がいないことを憂いるのだ(何憂無主)!」
 
この後も(劉秀が帰ってからも)劉秀軍の将兵は恐懼が続き、数日してやっと安定しました。
一方、尤来等の勢力は劉秀に戦勝しましたが、かねてから劉秀の大威を懼れており、また互いの状況も把握できていなかったため(客主不相知)、夜の間に兵を率いて去りました。
 
劉秀の大軍が再び進軍して安次に至りました。尤来等と戦って破り、三千余級を斬首します。
尤来等が漁陽に入ると、呉漢に耿弇、陳俊、馬武等十二将軍を率いて追撃させました。呉漢等は潞東で戦い、平谷に至って尤来等を大破して滅ぼします。
 
朱鮪が討難将軍蘇茂を送って温を攻撃させましたが、馮異と寇恂がこれと戦って大破し、その将賈彊を斬りました。
そこで諸将が尊号を称すことを議論し、馬武がまず進み出て言いました「天下には主がいません。もしも聖人がいて、衰敗に乗じて起ちあがったら(承敝而起)、たとえ仲尼孔子が相になり、孫子が将になったとしても、益を得られないことを恐れるものです(「猶恐無能有益」。全文の意味は「もしも世の乱れに乗じて聖人が起ちあがったら、我々が孔子を相にして孫子を将にしても、天下を取るのは難しくなる」です)。まいた水は戻すことができず、後悔しても及びません(反水不收,後悔無及)。大王は謙退を堅持していますが、宗廟社稷はどうするのですか。まずは薊に還って尊位に即き、それから征伐を議すべきです。今は誰が賊であり、奔走してどの賊を撃つのですか(今は尊号が定まっていないので、誰が賊なのか分からない状態です。原文「今此誰賊而馳騖撃之乎」)。」
劉秀は驚いてこう言いました「なぜ将軍はこのような言を発するのだ?死罪に値する(可斬也)。」
馬武が言いました「諸将が全てこのように考えています(諸将尽然)。」
劉秀は馬武を出して諸将に説諭させてから、軍を率いて薊に還りました。
 
夏四月、公孫述が自ら天子を称しました。
 
劉秀が薊から戻って范陽を通り、戦死した吏士の死体を収めて埋葬しました。
中山に至ると諸将がまた上奏しました「漢は王莽に遭って宗廟が廃絶しました。豪傑が憤怒し、兆人(万民)が塗炭(泥や火。苦難の中)にいます。王(劉秀)と伯升(劉縯)が率先して義兵を挙げ、更始がその資(資本。基礎)によって帝位を占拠しましたが、大統を奉承することができず、綱紀を敗乱させ、盗賊が日に日に多くなり、群生が危蹙(追いつめられること)しています。大王が初めて昆陽を征すると王莽が自ら壊滅し、後に邯鄲を抜いて北州が弭定(平定)されました。天下を三分したらその内の二を有しており、州をまたいで土地を占拠し、帯甲(戦士)は百万に及びます。武力について語るなら敢えて対抗しようとする者はなく(言武力則莫之敢抗)、文徳について論じるなら較べられる者がいません(論文徳則無所與辞)。臣が聞くに、帝王とは久しく空位であってはならず(不可以久曠)、天命とは謙拒(謙譲辞退)してはならないものです。大王が社稷をもって計となし社稷のために計を謀り)、万姓をもって心と為す(万民のために考える)ことを願います。」
劉秀はやはり聞き入れませんでした。
 
劉秀が南平棘に至りました。
諸将がまた即位を強く請います。
劉秀が言いました「寇賊がまだ平定できておらず、四面に敵を受けいるのに、なぜ急いで号位を正すことを欲するのだ。諸将はとりあえず退出せよ。」
耿純が進み出て言いました「天下の士大夫が親戚(家族)も故郷も棄てて(捐親戚棄土壤)矢石の間(下)で大王に従っているのは、彼等の計(考え)が元々龍鱗に登って鳳翼に附くことで、志していることを成就させたいと望んでいるからです(士大夫が苦労してでも大王に従っているのは、龍鳳に附くことで志を成したいからです。「攀龍鱗附鳳翼以成其所志耳」)。今は功業が定まろうとしており、天も人も応じているのに、大王が時を留めて(時を延ばして)衆に逆らい、号位を正さなかったら、純(私)が恐れるに、士大夫は望が絶たれて計が行き詰まり(望絶計窮)、その結果、去帰(帰郷)の思いが生まれ、久しく自らを苦しめる者はいなくなるでしょう(無為久自苦也)。大衆が一度離散したら、再び集合させるのは困難です。時は留めることができず、衆は逆らうことができません。」
耿純の言葉が誠実懇切だったため、劉秀は深く感じ入って「考えてみることにしよう(吾将思之)」と言いました。
 
劉秀が鄗に至りました。
劉秀が長安にいた時の同舍生彊華が関中から赤伏符を奉じて来ました。そこにはこう書かれています「劉秀発兵捕不道,四夷雲集龍闘野,四七之際火為主(本編参照)。」
群臣が符命を理由にまた上奏しました「受命の符とは、人が応じることを大(重要なこと)とします(天命を授ける符が実現するかどうかは、人がそれに応じるかどうかにかかっています)。万里の合信(符瑞)が議することなく情(内容)を同じくしました(不議同情)。周の白魚西周武王が紂を討伐した時の瑞祥)もどうして較べることができるでしょう(曷足比焉)。今、上には天子がなく、海内が淆乱(混乱)しており、符瑞の応が明らかに知れ渡っているので(昭然著聞)、天神に答えて(応えて)群望を塞ぐべきです(天心に応じて民衆の望みを満足させるべきです)。」
劉秀は有司(官員)に命じて鄗南の千秋亭五成陌に壇場を築かせました。
 
六月己未(二十二日)、劉秀が皇帝の位に即きました。
柴を焼いて天に告げ(原文「燔燎告天」。柴を焼くのは天を祭る儀式です)、六宗(『後漢書光武帝紀上』の注によると、西漢平帝の時代に「六宗」を易卦の六子(乾坤天地が交わって生まれる六子の卦)の気にあたる「水沢」に定めました。東漢安帝が即位してから、六宗を「天地と四方の宗(神)」に改めました)を禋(禋祭。柴を焼く祭祀。誠心誠意を伝える祭祀)して群神を望(望祭。山川の祭祀)しました。
 
即位の祝文はこう書かれました「皇天上帝后土神祇が(万民を)眷顧(思念)して命を降し、秀(劉秀)に黎元(民衆)を属させ、(劉秀を)人の父母にしたが、秀は(恐れ多くて)当たることができなかった(秀不敢当)。しかし群下百辟(百官)が謀らなくても言葉を同じくし(不謀同辞)、皆がこう言った『王莽が位を簒奪したので、秀が発憤して兵を興し、王尋、王邑を昆陽で破り、王郎、銅馬を河北で誅し、天下を平定して海内が恩を蒙った。上は天地の心に当たり(符合し)、下は元元(民衆)が帰するところとなった。』また、讖記にはこう書かれていた『劉秀が兵を発して不道を捕え、卯金(劉)が徳を修めて天子になる(原文「劉秀発兵捕不道,卯金修徳為天子」。『後漢書光武帝紀上』によると、『春秋演孔図』という書に「卯金刀は劉を名乗り、赤帝の後代となって周を継ぐ(卯金刀名劉,為赤帝後,次代周)」と書かれていました)。秀はそれでも固辞して二度三度に及んだが(至于再至于三)、群臣がそろって『皇天の大命は稽留(停滞。延期)できない(皇天大命,不可稽留)』と言ったので、敬承(謹んで受け入れること)しないわけにはいかなくなった。」
 
劉秀は元号を建てて建武元年とし、天下に大赦しました。
また鄗を改めて高邑にしました。
 
この月に赤眉も劉盆子を天子に立てました。