東漢時代3 光武帝(三) 劉玄の投降と死 25年(2)

今回は東漢光武帝建武元年の続きです。
 
[] 『後漢書劉玄劉盆子列伝(巻十一)』と『資治通鑑』からです。
長安に入った赤眉が書を下して逃亡中の更始帝劉玄に告げました「聖公(劉玄の字です)が降ったら長沙王に封じよう。但し、二十日を過ぎたら受け入れない(勿受)。」
劉玄は劉恭を派遣して投降を請いました。
赤眉は将謝禄を送ってこれを受け入れます。
劉玄は謝禄に従い、肉袒(上半身を裸にすること。降伏時の姿です)して長楽宮を訪ね、璽綬を劉盆子に献上しました。
 
赤眉は劉玄を庭の中に坐らせて殺そうとしました。
しかし劉恭と謝禄が命乞いをしたため手を出せず、劉玄を外に連れ出しました(外で殺すつもりです)
劉恭がそれを追って叫びました「臣は誠に力を極めました(尽力しました。原文「臣誠力極」)。先に死なせてください(請得先死)!」
劉恭が剣を抜いて自刎しようとしたため、赤眉の帥・樊崇等が急いで止めさせて劉玄を放ちました。
赤眉は劉玄を畏威侯に封じましたが、劉恭が元の約束を守るように強く求めたため、最後は長沙王に封じられました。
劉玄は常に謝禄に頼って居住し、劉恭も劉玄を擁護しました。
 
[] 『後漢書劉玄劉盆子列伝(巻十一)』と『資治通鑑』からです。
赤眉の皇帝劉盆子は長楽宮に住んでいました。
諸将が日々集まって功を論じましたが、言を争って喧噪し(争言讙呼)、剣を抜いて柱を撃ち、一つになれませんでした。
 
三輔の郡県の営長(『資治通鑑』胡三省注によると、当時は三輔の豪傑が各所で屯聚しており、それぞれに営長がいました)が使者を送って貢献すると、兵士がいつもそれを剽奪(略奪)し、しかもしばしば吏民に暴掠(暴行略奪)したため、三輔の人々はまた堡塁・営壁を作って武装し、守りを固めました。百姓は誰に帰順すればいいのか分からなくなります。
 
この頃、鄧禹だけが連戦連勝しており(乗勝獨克)、しかも師行(軍隊)に規律があるという評判が流れたため、鄧禹軍が迫っていると聞いた人々は老弱援けあって迎え入れました(望風相攜負以迎軍)。投降する者は一日に千を数え、鄧禹の衆は百万を号します。
 
鄧禹は停留した場所でいつも車を止めて符節を持ち、帰順した者を慰労しました。
父老、童穉(子供)、垂髪(子供)、戴白(老人)が車の下に集まり、感悦しない者はいません。
こうして鄧禹の名が関西を震わせました。
 
諸将豪桀がそろって鄧禹に長安をすぐに攻撃するように勧めました。
しかし鄧禹はこう言いました「そうするべきではない(不然)。今、我々の衆は多いが、戦える者は少なく、前には頼りになる蓄積がなく(前無可仰之積)、後ろにも輸送する物資がない(後無転饋之資)。赤眉は長安を抜いたばかりで、財穀が充実しており、その鋒鋭に当たることはできない。しかし盗賊が群居しても終日(長久)の計はなく、財穀は多くても変故(変事、事故)が万端(混乱のきっかけが多いこと)になるので、堅守できるものではない(寧能堅守者也)。上郡、北地,安定の三郡は土地が広くて人が少なく(土広人稀)穀物が豊かで家畜が多い(饒穀多畜)。我々は暫く兵を休めて北に道をとり、食糧が多い地域に移って士を養い就糧養士)、その敝(赤眉の疲弊、衰退)を観察しよう。そうすれば図る(狙う)ことができる。」
鄧禹は軍を率いて北の邑に至りました。
鄧禹が至る場所では諸営堡や郡邑が全て門を開いて帰順しました。
 
資治通鑑』胡三省注(元は『資治通鑑考異』)によると、袁宏の『後漢紀』では光武帝璽書を送って「窮した赤眉と鋒を争ってはならない」と鄧禹に命じています。しかし当時の光武帝は鄧禹が久しく長安を攻撃しないことを譴責しています(後述)
翌年の十一月になってから、光武帝が詔を発して鄧禹を帰還させ、「窮寇と鋒を争ってはならない」と告げるので、『後漢紀』がここで書いているのは誤りです。
 
[] 『後漢書光武帝紀上』と『資治通鑑』からです。
光武帝が岑彭を派遣して荊州の群賊を撃たせました。犨や葉等の十余城を降します。
 
[] 後漢書光武帝紀上』と資治通鑑』からです。
十一月甲午(三十日)光武帝が懐に行幸しました。
 
[] 後漢書光武帝紀上』と資治通鑑』からです。
更始政権から梁王に封じられていた劉永が睢陽で帝を称しました。
 
[] 後漢書光武帝紀上』と資治通鑑』からです。
十二月丙戌(十一日)光武帝が洛陽に還りました。
 
[] 『後漢書光武帝紀上』後漢書劉玄劉盆子列伝(巻十一)』と『資治通鑑』からです。
三輔の人々は赤眉の暴虐に苦しみ、皆、更始帝劉玄を哀れんだため、劉玄を秘かに脱出させたいと思っていました。
張卬等はこの状況を深く憂慮し、謝禄にこう言いました「今、諸営長には聖公を奪おうとしている者が多数います。一旦これを失ったら兵を合わせて公(あなた)を攻めるので、自滅の道となります。」
資治通鑑』胡三省注は「張卬等はかつて更始帝を攻撃したため、更始帝が位を得たら禍が自分に及ぶことになると恐れて深く憂慮した」と解説しています。
 
謝禄は従兵を派遣して劉玄と共に郊外で牧馬させ、それを機に縊殺(絞殺)させました。
 
劉恭が夜を通して劉玄の死体を引き取りに行き、保管します。
光武帝はそれを聞いて心を痛め、大司徒鄧禹に詔を発して霸陵(文帝陵)に劉玄を埋葬させました。
 
更始政権の中郎将宛の人趙熹(または「趙憙」)が武関を出ようとした時、道で更始帝の親属に遭遇しました。皆、裸跣(裸足)で歩いており、飢困しています。
趙熹は全ての資糧を彼等に与え、保護しながら前に進みました。
これを聞いた宛王劉賜が更始帝の親属を迎え入れて郷里に還らせました。
 
後漢書』は更始帝劉玄を評してこう書いています。
「周武王は孟津で観兵(閲兵)したが、退いて師(軍)を還した。紂はまだ討伐できず、その時がまだ至っていないと判断したからだ。漢(劉玄)が起きてからは、軽黠(敏捷狡猾)な烏合の衆を駆けさせ、(その勢力は)天下の万分の一にも当たらなかったが、旌旃(旗)を立てて及び、書文(文書)が届いた場所では、戈(武器)を折って頓顙(膝を屈して拝すこと。投降の意味です)しない者はおらず、争って職命(任務職責の命令)を受けた。これは人々が漢に対して余思(懐かしむ気持ち)を抱いていたからだけでなく(非唯漢人余思)、元々幾運(気運)が結合したからでもある。しかし権首(首謀。最初に起ちあがった者)になったら、(禍が)及ばない者は少ない(鮮或不及)。陳陳勝項羽でもなお興隆できなかったのだから、庸庸(凡庸)の者ならなおさらである。」
 
 
 
次回に続きます。