東漢時代4 光武帝(四) 隗囂 竇融 25年(3)

今回も東漢光武帝建武元年の続きです。
 
[十一] 後漢書光武帝紀上』と資治通鑑』からです。
隗囂は天水に帰ってから再び部衆を集め、故業(元の基礎、基盤)を新たに興しました。隴右(隴山以西。皇帝は北に坐って南を向くので、西が右、東が左になります)で割拠して自ら西州上将軍を称します。
三輔の士大夫で乱を避けた者の多くが隗囂に帰順しました。隗囂はへりくだって彼等を引接し(傾身引接)、布衣の交り(地位にこだわらない平民同士のような関係)を結びます。
平陵の人范逡を師友に、元涼州刺史河内(または「河南」)の人鄭興を祭酒に、茂陵の人申屠剛と杜林を治書(『資治通鑑』胡三省注によると「治書」は「治書侍御史」です)に、馬援を綏徳将軍に、楊広、王遵、周宗および平襄の人行巡(行が氏、巡が名です。『資治通鑑』胡三省注によると、周に大行人という官があり、後に官名から氏ができました)、阿陽の人王捷、長陵の人王元を大将軍に、安陵の人班彪等を賓客にしました。
ここから隗囂の名が西州を震わせ、山東にも聞こえるようになります。
 
賓客になった班彪は班穉西漢平帝元始五年5年参照)の子です。
 
綏徳将軍馬援は若い頃、家の費用が不足したため(家用不足)、兄馬況に別れを告げて辺郡で田牧(開墾放牧)をしようとしました。
馬況が言いました「汝の大才は晩くに成就するはずだ(原文「汝大才当晚成」。ここから「大器晩成」という成語が生まれました)。良工(優れた工匠)は朴(加工していない木材)を人に見せることはない。暫くは好きなことに従え(好きなことをしていればいい。原文「且従所好」)。」
馬援は北地に移って田牧を始め、常に賓客にこう言いました「丈夫が志を立てたら、困窮したらますます堅強になり、老いたらますます壮健になるべきだ(丈夫為志,窮当益堅,老当益壮)。」
後に数千頭の家畜と数万斛の穀物を有すようになると、感嘆して言いました「財産を増やすことにおいて(凡殖財産)、貴いのは賑施(施し。救済)ができることだ。そうでなければ守銭虜(守銭奴)に過ぎない。」
そこで馬援は財産を全て散じて親旧(親族や旧知)に与えました。
後に隗囂が士を愛すると聞いて帰順しました。
隗囂は馬援を甚だ敬重し、共に籌策(策略。計策)を決するようになります。
 
以上は『資治通鑑』に書かれている馬援の生い立ちです。別の場所で『後漢書馬援列伝(巻二十四)』を元に馬援について少し詳しく書きます。

東漢時代 馬援

 
[十二] 『資治通鑑』からです。
平陵の人竇融は代々河西で仕宦(仕官)しており、土俗(風俗)をよく知っていました。
竇融(この時は鉅鹿太守です。下述します)は更始政権の右大司馬趙萌と仲が善かったため、秘かに兄弟達に「天下の安危はまだわからない。河西は殷富(富裕)であり、河黄河が接して固い守りとなっている(帯河為固)。張掖属国(『資治通鑑』胡三省注によると、西漢が辺郡に属国を置いて都尉に管理させました)には精兵が万騎おり、一旦緩急(変事)があったら河津黄河の渡し場、港)を杜絶して自分を守るに足りる。これは種(子孫)を残す地だ(此遺種処也)」と言い、趙萌を通じて河西に行くことを求めました。
趙萌が更始帝に竇融を推挙し、竇融は張掖属国都尉に任命されます。
 
資治通鑑』は触れていませんが、竇融はかつて王莽に仕えており、波水将軍になりました。新王莽地皇四年23年)に更始政権の韓臣等に敗れた「波水将軍」が竇融です。
王莽が破れると竇融は軍を挙げて更始政権の大司馬趙萌に降りました。趙萌は竇融を校尉に任命して甚だ重んじ、やがて竇融を推挙して鉅鹿太守にしました(『後漢書竇融列伝(巻十三)』参照)
資治通鑑』の記述はこの後の事を書いています。
 
竇融は張掖属国都尉として河西に入ると、雄桀(英雄豪傑)を慰撫して関係を結び、羌虜を懐柔しました。広く人々の歓心を得ます。
当時、酒泉太守安定の人梁統(『資治通鑑』胡三省注によると、梁氏は秦仲西周末期の秦の国君)の子孫です。東周平王が秦仲の少子康を夏陽梁山に封じて梁伯にしました。梁国は後に秦に併合され、子孫が国名を氏にしました)、金城太守庫鈞(『資治通鑑』胡三省注によると、庫氏は倉庫吏の後代です。羌族で後に庫を姓にした者がいますが、彼等は庫鈞の後を継承した者達です)、張掖都尉茂陵の人史苞、酒泉都尉竺曾(『資治通鑑』胡三省注によると、竺氏は孤竹君の後代で、本は竹氏でした。後漢東漢時代に擬陽侯竺晏が怨みに報いて仇を作ったため、姓を変えようとしましたが、先祖の伯夷、叔斉が賢人として知られていたため、族(血統)を改めるのは避けて、「竹」の下に「二」を加えました。または天竺国の人の後代ともいいます。もしも胡三省注が書いているように、後漢の竺晏が竹姓を竺姓に改めたのだとしたら、「竺曾」は「竹曾」と書くのが正しいはずです。竺曾はあるいは天竺人の子孫かもしれません)敦煌都尉辛肜が州郡の英俊として名声がありました。
竇融は彼等と厚く交わって関係を深めます。
 
更始帝が敗れると、竇融が梁統等と計議して言いました「今、天下は擾乱(混乱)しており、まだ帰するところが分からない。河西は羌胡の中に斗絶(孤立)しているので、心を一つにして尽力しなければ(不同心戮力)、自分を守ることができなくなる。また、それぞれの権力が等しくて力が同等だったら(権鈞力斉)、統率することもできない。一人を推して大将軍とし、五郡を共に全うして(守って)時の変動を観るべきだ。」
大将軍を立てることで議論がまとまりましたが、それぞれ謙譲しあいます。
地位の高低から皆が梁統を推しましたが、梁統は固辞しました。
最後は竇融が推されて行河西五郡大将軍事(河西五郡大将軍代行)になりました。
 
武威太守馬期、張掖太守任仲も孤立して党羽がなかったため、竇融等は書を送って河西の形勢を告知しました。
二人はすぐに印綬を解いて去ります。
そこで竇融は梁統を武威太守に、史苞を張掖太守に、竺曾を酒泉太守に、辛肜を敦煌太守に任命しました(庫鈞は金城太守のままです)。竇融は張掖属国におり、今まで通り都尉の職務を行いましたが(領都尉職)、従事を置いて五郡(武威・張掖・酒泉・敦煌・金城)を監察しました。
 
河西の民俗は質樸で、竇融等の政治も寬和だったため、上下が互いに親しみ、安定して富を増やしました。
竇融等は兵馬を修めて戦射を習わせ、烽燧を設けて火を灯しました。羌胡が塞を侵したら、すぐに竇融自ら諸郡を率いて援けに行き、符要(檄文で約束した期日)に遅れたことがなく、常に敵を破りました。
この後、羌胡は皆震撼し、竇融に服従して親しみました(震服親附)
また、内郡の流民で凶饑を避けて来た者も竇融に帰順して絶えることがありませんでした。
 
 
 
次回に続きます。

東漢時代5 光武帝(五) 赤眉の混乱 25年(4)